三.戦禍の記憶 五
文字数 5,142文字
俺は頭を抱えて弓なりに仰け反った。裏返りかけた眼球に、小部屋の窓が映る。
窓の外に誰かいる。何者かが、俺を見ている……。
霞む俺の視界がわずかに捉えたのは、何者かの顔だった。両手を窓枠にかけて、部屋の外からじっと中を覗き込む、二つの目。俺が知っている誰のものとも違う、金緑の瞳……。
そう思えた瞬間、その目も頭も、スッと幻のように窓の下へと消えた。そして入れ替わるように、今日二度目のノックの音が、苦悶と疑念に苛まれる俺の耳に響いた。
途端に、頭蓋は
左肩から床に崩れ伏し、肩口を激しく打ち付けた俺だが、死んだ体に痛みなどはない。しかし、ますます自由の利かなくなったのは確かだ。
肘を床に着き、転がるように体を持ち上げた俺に、扉の外から聞き慣れた老人の声が聞こえてきた。
「マノさん、いるかい? マノさんに客が来てるんだけど、いいかな?」
「客……? 誰、ダ……?」
やっとのことで身を起こし、床に正座の状態を保てたのと同時に、マイスタが扉越しにこう答えてきた。
「マノ大尉の旧友だって言うんだけど、案内していいかな……?」
「キュウ、ユウ……?」
俺は思わず聞き返した。
マノ大尉の旧友を名乗るということは、国軍中央の関係者だろうか。もしかしたら、マルーグ峠の戦いの生存者かも知れない。
しかし、どこでこのマノ大尉のことを聞きつけてきたのか?一体どういう関係のある何者なのだろう?もしかしたら、窓から一瞬見えた目の持ち主の可能性もある。
疑問は尽きないが、何か嫌な予感しかしない。だがその『旧友』と会えば、俺が何者なのか、正体がハッキリするかも知れないのだ。
かくかくと立ち上がった俺は、再びベッドの上に腰を落とした。そして覚悟を決め、マイスタに返答する。
「開イテ、イル……」
すぐに扉が開かれ、こつんこつんという奇妙な足音ともに、一人の男が部屋の中へと踏み入ってきた。同時に扉は男の背後で静かに閉じられ、小部屋には俺とその男だけとなった。
「……臭うな」
男の低く通る第一声。
ベッドの縁に座った俺は、その男を見上げた。
やつれて青ざめた、痩せた男だ。その老け込み、やさぐれた風体からは、実際の年齢は判断できない。男は半端に伸びた灰色の前髪の下で、鳶色の目が無気力に俺を見下ろす。
どうやら、窓の外に見えた目の持ち主ではないようだ。
その左の目元から顎にかけて、大きな傷跡がある。たぶん切創だ。襟首にも傷跡が覗いていて、恐らく全身が古傷に覆われていることは、想像に難くない。
身なりは粗末で、着古したベージュのシャツの上に、色あせた薄手の長衣を着込んでいる。
よくよく見れば、男の右足はくたびれたブーツ履きだが、左足の脛から下は、接地する先端が球状の木の棒になっている。安っぽい義足だ。
男は俺の顔を見て、酷く眉根を寄せると、忌々しげに首を横に振った。
「あんた、えらい変わりようだな、マノ大隊長さんよう……」
扉の前に悄然と立ったまま、ぞんざいに二言目を放った男。
その沈んだ鳶色の目に浮かぶのは、静かな怒りに被せられた、醒め切って極限まで洗い晒された虚しさだ。
そんな枯れた男が、腐った俺を眺めながらさらに続ける。
「あんな美青年で、第一第二の中隊長、おまけに計画大隊の大隊長まで兼任したあんたが、そんな腐れたようななりになっちまって。父親が嘆くぜ」
感情を抑え込んだ調子で、うそぶいた男。彼は恐らくマノ大尉をよく知っているのだろう。
だが俺の方は、自分のことはおろか、この男のことも全く記憶にはない。
目の前のやつれた男に俺がかけられる言葉は、ただ一つだ。
「誰、ダ……?」
「『誰だ』だと……?」
ここまで無表情を貫いた男の目に、朱色の憤激が湧き上がる。その眉間に深いしわが寄った次の瞬間、憎悪をたぎらせて歯を剥いた男が、俺に掴みかかってきた。
「あんたら親子のせいで、俺たちはこんな目に遭ったんだろうが!!」
男の大きく骨ばった両手が、俺の両肩を猛禽のように捕らえた。
ものすごい握力だ。この男も元は軍人だったのだろう。爪の伸びた男の指が、マントの上から俺の皮膚にずぶずぶとめり込む。当然痛みなどはない。
だが男に激しく前後に揺さぶられ、俺の首はかくんかくんと定まらない。肩甲骨と上腕も、ぐらぐらと緩んでくる。
「あんたのとこの参謀が! くだらねえ私情で! 地元を無視したバカな作戦なんざ立てるから! あんな! あんなことに……!!」
まさに噛み付くばかりの勢いで、唾を飛ばして俺に食って掛かる男。その見開かれた目には、うっすらと涙が滲む。
だが、まだ俺には男が何を言っているのか、理解ができない。ただ男の剣幕と、その陰に漂う痛切な哀しみが、鼓動を忘れた心臓を握り潰してくる。
突然、ぶちっと何か水っぽいものがちぎれる音が聞こえ、饐えた腐臭が漂った。
同時に男が、あっとひと声上げて俺から飛びすさる。
「マ、マノ大隊長!? あんた、腕が……!!」
男の震える指先が、俺の左肩を示した。まだくらくらと定まらない視線を、男の指す先を辿らせる。
……腕がない。
俺の左肩から、腕がもげ落ちていた。黄色く糸を引く不潔な腐汁が俺の脇腹をべったりと汚している。そして外れた腕は、床の上に転がっている。小指の欠けた手がひくつく様は、まるで断末魔の蜘蛛のようだ。
驚愕と嫌悪感に顔を引き攣らせる男。しかし恐怖や怯えを感じさせない辺りは、さすがは元軍人だ。
とはいえ、やはり俺が誰であれ、屍者だというのがばれるのは、都合が悪い。俺は敢えて落胆の空気を全身に漂わせ、がっくりとうなだれて見せる。
「壊、疽ダ……。仕方、ナイ……」
「壊疽……」
繰り返した男の眼差しに、わずかに同情の色が浮かんだ。
その男の目が、俺の襟元に留まる。七宝の部隊章をまじまじと見る男の表情が、じんわりと崩れてきた。
「それは、第三中隊の部隊章……」
果敢にも、男は俺の醜く臭い顔をじっと覗き込む。
「あんた、マノ大隊長なんじゃないのか……?」
俺の眼球をしげしげと見つめ、目の色を確認した男がため息交じりにつぶやく。
「マノ大隊長の目は鋼鉄色だったが、この目は……。それに雰囲気も度胸も違うか……。ああ、アンフォラの野郎、適当なこと言いふらしやがって」
「ドウ、イウ、コトダ……?」
男の意図が呑み込めず、問わずにはいられない俺だった。掠れ声で聞いた俺に、男が真摯な目付きでさらに念を押してくる。。
「あんた、本当に俺を知らないんだな?」
「思イ、出セ、ナイ……」
「そうか……」
うつむく俺に、この義足の男もしおらしい態度で頭を下げてきた。
「あんたの腕のことは素直に謝る。済まなかった。詫びてどうにかなるもんじゃあねえとは思うが……」
「仕方、ナイ……。気ニ、スル、ナ……」
ちぎれた腕が惜しくない、と言えば嘘になる。不便にもなるだろうし、何よりも俺の体が朽ち果てていく証拠に他ならない。そしてそれは、遠からず俺の死んだ体がバラバラに崩壊し、そこでアリオストポリへの途は潰えることを意味する。
俺にとっては計り知れない恐怖だ。
だが今の俺には、何よりも気になることがある。俺はもう一度、この男に問いかけた。
「誰、ダ……? マノ大尉、ノ、旧友、カ……?」
するとこのやさぐれた男は、スッと姿勢を正し、左手で軽く敬礼した。
「マルーグ城砦陥落計画大隊、マノ第二中隊第一小隊長、エノス=ルッカヌス=ポーデス。ただ“元”は付くがな……」
だがエノスと名乗ったこの元軍人は、即座に敬礼を解いた。俺の前に現れた時と同じ醒め切った表情に戻り、俺を正視する。
「アンフォラの野郎が、『マノ大尉が生きてる』なんて言いふらしてやがるから、本当かどうか確かめに来たんだが……」
エノスが口元を不機嫌に曲げる。
「あんたが実のところ何者なのかは知らん。だが第三中隊の部隊章を付けてる以上は、”計画大隊”の戦友ってことだ。仲の良し悪しはともかくな」
奇妙な言い回しのエノスだが、初めて出会うマルーグ峠の戦いの生き残り。
誰も話したがらない凄惨な交戦、そのあとの不幸な出来事、そのすべてを彼は覚えているかも知れない。
俺はエノスの蒼い顔を眼球に捉え、掠れ声で
「話シ、テ、クレ……。ソノ、戦イ、ノ、スベテ、ヲ……」
数秒の間、俺の傷んだ顔を観察していた風なエノスだったが、すぐに浅くうなずいた。
「いいだろ。あんたの腕も捥(も)いじまったし、頼みは聞くぜ。何もかも忘れてるみてえだから、俺が知ってることは話してやるよ。ただ俺も、何から何まで知ってるわけじゃあねえんだが……」
エノスが一瞬目を伏せた。
「忘れてるんなら、思い出さねえ方が幸せだとは、思うんだがな……」
含みのある前置きを入れてから、目を開いたエノスが語り始めた。可能な限り感情を切り離した、事務的な口調だ。それでもどこか懐かしむような、隠しきれない悲哀が態度の端々に覗く。
「あの“マルーグ城砦陥落計画”は、ルカニア領に隣接するアープのマルーグ城砦を奪う計画だった。計画大隊は、そのためだけに編制された六百名の特命大隊だ」
そこでエノスが皮肉っぽく鼻を鳴らした。
「上の方の事情は知らねえが、発端はルカニアとアープの王室間の交易争いだそうだ。アープ側が折れなくて交渉が決裂したんで、圧力を掛けることになったらしい。どうするか、お偉方が何日も議論した結果、軍事攻勢を掛けることになったそうだ。その時、徹底抗戦を主張して、計画全権を下賜されたのが、国軍中央のベロッソ=ルッカヌス=マノって参謀だ」
エノスが再び目を伏せた。落ち窪んだ目の周りに、灰色の陰が差す。
「その軍事攻勢の標的に選ばれたのが、国境のすぐ向こうにあるマルーグ峠の城砦でな。今はアープの物だが、マルーグ城砦はもともとルカニアとアープで取ったり取られたりしててよ。今回もマルーグ城砦を落としてアープを脅す、って計画だった。そのための特命大隊の中核に抜擢されたのが、首都防衛連隊第二大隊第二中隊だ。で、その中隊長が、ユステーヌ=ルッカヌス=マノって若い大尉でよう……」
エノスの口元が強張ってきた。心なしか、口調にも憤りの気配が漂う。
「こいつはマノ参謀の息子でな。裏じゃあ、参謀は息子とその部隊に武功を立てさせたくて、城砦陥落を計画したって噂されてるけどよ」
おもむろに天を仰ぎ、エノスが続ける。
「だがマノ中隊長の部隊は、もともと首都防衛が任務だから、戦の経験が足りてねえ。そこで、西の辺境でしょっちゅう他国や蛮族と小競り合いやってた部隊が、特別に増援として招喚された。それが、西方防衛旅団第一軍管区の第十六中隊。俺がいた部隊だ」
エノスが苦笑交じりの深いため息をついた。
「首都ミロに呼び出された俺たちは、特命大隊として再編制された。マノ大尉の部隊二百五十人が第一中隊、俺たち西方から呼ばれた二百五十人が第二中隊ってわけだ。だがまあ正直言っちまえば、お行儀のいい都会の防衛隊と、俺たち辺境の荒くれ者連中じゃあ、反りなんざ合うわけなくてよ。大隊の統率は取れてなかった。そこだけは、マノ大隊長の苦労に同情するがな……」
エノスが言葉を切った。
男の声の隙間に、娼婦たちの笑う声が薄く挟まってくる。
俺はわずかにうつむいた。
……なるほど、マノの部隊がマルーグ城砦を攻めることになった背景は、マイスタの話と併せて、概ねのことは分かった。だがエノスの話に上ったのは、第一中隊と第二中隊の経緯だけだ。
肝心の第三中隊は、どういうものなのか……?
俺はエノスを直視した。
「第三、中隊、ノ、コトハ……?」
「さあ、そこだ」
意味ありげな一言をおいて、腕組みのエノスがうつむく。
「今考えてみりゃあ、あのケルヌンノスの部隊を特命大隊に組み入れた時点で、俺たちの潰滅は決まってた。いや、そうじゃねえ……」
深淵にも似た息を静かに吐き、エノスは噛み締めるように述懐する。
「マノ参謀がマルーグ城砦を標的に定めた時点で、そいつはもう約束されていた、ってのが正しいんだろうな……」