一.はじまり

文字数 1,724文字

 余りの醜さに、俺は目を背けた。

 ――本当に、これが、俺なのか――

 顔を深い闇の底へ向けたまま、俺はもう一度、正面へと斜視だけを注ぐ。
 そこには一枚の鏡が立ててある。縦長の四角い姿見だ。銀色の枠には何の飾りもない。その突き放した冷厳なたたずまいが、俺を畏怖させる。

 そんな俺の霞んだ目に映るのは、俺の鏡像だ。
 悍ましくも汚らしい、不潔な緑色に変わり果てた面の皮。鼻はもげ落ちて、汚らしい二つの孔が空いているだけだ。唇も腐ってなくなってしまったのか、黄色いむき出しの歯が並んでいるのが、どうしようもなく気色悪い。

 そしてそんな有様を小心に窺う丸い眼玉には、もう瞼と呼べるものは残っていない。思わず鏡に伸ばした指も、骨の上に生乾きの皮をぎちぎちに張ってあるような、悍ましい代物だ。
 それなのに、俺の息も鼓動も、何の反応も示してくれない。肺も心臓も、沈黙したまま微動だにしないのだ。

 腐りはてた死体。
 どうやら、それが今の俺らしい。

 鏡面一枚を隔て、腐乱した顔と見つめ合うばかりの、呆けた俺。
 その姿見の裏側から、若い女の含み笑いが聞こえてきた。
「どう? 気に入って頂けたかしら?」
楽しさを隠そうともしない言葉と同時に、鏡の裏側から誰かが姿を現わした。

 頭のてっぺんからつま先まで、黒いローブで全身をすっぽりと覆い隠した人物。目のところに空いた横長の切れ間から、ガラス玉のような目が俺を見ている。瞬き一つせずに。
「オ、マエ、ハ……!?」
 俺は固まった肺と気管をやっとの思いで膨らませ、たった一言の問いを絞り出した。しかしその声は、まったく色を持たない木枯らしのようだ。

 哀れなその声色を、そのローブの女は高く澄んだ声で嘲笑した。
「素敵な声ね。でもそんな体でまだ声が出せるなんて、驚きだわ」
 わずかな間をおいて、女が冷淡に告げる。
「まあいいわ。あなたは、これから旅に出るの。贖罪の旅に」
「ショク、ザイ……?」
女がうなずいた。
「そう。今のあなたは、私が“屍霊術(ネクロクラフト)”で拵えた、動く死体の“屍者(エシッタ)”なのよ。元の体から抉り出した魂を、そこら辺の腐乱死体に押し込めて、ね」
「ナ、ゼ?」
 女が華奢な両肩をわざとらしく揺らして嗤う。
「それは自分で気付きなさいな」
 薄い胸の前で腕を組み、女が冷たく突き放す。
「あなたが無事に私の許まで来られたら、あなたの本当の体は返してあげる。それまでせいぜい気を付けなさい。自称“勇者”の冒険者たちに、退治されないように」
 ローブの下から、女がうふふ、と笑い声を洩らした。
「それにしても、そんな汚らしい体、いつまでも晒さないで頂きたいわ」

 女が何事かをつぶやいた。何かの呪文のようだ。
 すると、暗闇の中にポッポッと淡い光の玉が、いくつも浮かび上がった。
 青、黄色、緑、白、それに赤。色とりどりの光の玉だが、今の俺には分かる。
 これは、死者たちの魂、”鬼火(ウィル・オー・ザ・ウィスプ)”というやつだ。つまりは、今の俺と同類……。

 その鬼火たちが、俺の腐った体にわらわらと群がってきた。そうして無数の鬼火が俺から離れたとき、俺の全身は朽葉色のマントに包まれていた。

 俺はもう一度、姿見に向き合う。
 ゆったりとした、ポンチョのようなマント。大きなフードもあって、女が言う『汚らしい顔』も、隠すことができそうだ。
 いうことを聞かない両手でフードを被り、俺は鏡に映った胸元に目を止めた。丸い大きな留め具が鈍く光っている。ブローチを思わせる、しゃれた留め具だ。どこか見覚えのある気もするが、俺の記憶は断崖絶壁に立たされたかのように、立ち竦むしかない。

 俺が瞼のない目を凝らせた途端に、姿見は音もなく消え去った。
「それは私たちからの餞別。さあ、もうお行きなさいな。起き上がって、因業(カルマ)の呼ぶ方へ」
「オマエハ、ダレ、ダ……?」
 俺が再び吐き出した問いに、女が無感情に答える。
「私はパペッタ。“久遠庵(カーサ・アンフィニ)”の主よ。私たちは、アリオストポリのお店でお待ちしているわ。あなたの到着を、ね……」
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登場人物紹介

「俺」


”女屍霊術師《ネクロロジスト》”パペッタに魂を抉り抜かれ、他人の腐乱死体に押し込められ、動く死体の”屍者《エシッタ》”にされた男。

ほぼ全ての記憶を封印《ロック》されており、自分が何者なのか、どうして屍者にされたのか、分からないままに贖罪の旅へと送り出される。

女屍霊術師《ネクロロジスト》パペッタ


「俺」を動く死体の”屍者《エシッタ》”に仕立て上げ、”贖罪の旅”を強要する謎の女。

アリオストポリにあるという久遠庵《カーサ・アンフィニ》という店の主人でもある。

何故「俺」に贖罪を科したのか、その狙いは何なのか、「俺」に心当たりはない。

マイスタ


地方都市ルディアの歓楽街、通称”花街”に住む、気のいい老人。

人懐っこく誰にでも親切な老人で、誰からも頼られる存在。

歩く死体の「俺」に対しても親身に世話を焼く。

ただし、「俺」が”屍者(エシッタ)”だとは気付いていない模様。

ユディート=ユーデット=サイラ(Illus.紅音こと乃さま)


”死の女神モリオール”の小神格”死の太母(マーテル・マカブレス)”に仕える聖騎士の少女。

身分は”ユーデット聖廟騎士団筆頭従士(プライメット・エスクワイヤ)”。

見た目は十六、七の少女だが、人間ではなく”樹精人(アルボリ・アールヴ)”のため、実際の年齢は不明。

小神である”死の太母”の直系の子孫。武芸も祭文(魔術)の腕も、これ以上ないほどに確か。

捉えどころなく映りつつも、時には年頃の少女らしい一面も覗く。

武器は、背中に背負った弓ノコギリ”神鋸:年代記(クロニクル)”。死の太母から代々受け継がれている。

リベカ=ヴィラフランカ=ハーネマン


ルディアの花街に診療室を構える女医。

表と裏から娼婦たちの健康を守る、花街に欠かせない人物の一人。

赤い髪を清潔に結い上げ、しっとりと落ち着いた、眼鏡の美女。

ユディートとは姉妹のように仲がいい。

実は既婚者だが……。

エステル=マイリンク


マイスタが花街に所有する施設”別館 白鷺庵《アネクサム カーサ・アルデア》”に身を寄せる少女。

身分的には娼婦として、白鷺庵の中に個室を持つ。

不幸な経緯から娼婦となったが、実質マイスタの庇護下にあり、彼女の客はごくごく限られる。

ある不自由を抱える薄幸の少女でもあるが……。

ホセア=アンフォラ


ケルヌンノス地方の最大商家、アンフォラ商会の現在の会頭。

かつてはマイリンク商会の傘下にあったが、その没落とともに、屋台骨を乗っ取った。

小心で傲慢。エステルにご執心だが、マイスタが彼女には頑として会わせない。

ユディートを内心ひどく恐れている。

カイファ=ミザール


ケルヌンノス地方の有力な商家、ミザール商会の幹部。

まだ年若いが才覚を認められ、幾つかの商流(流通ルート)の采配を任されている。

ミザール商会もかつてはマイリンク商会の傘下にあった。

しかしその没落後も、マイリンク商会の姿勢を受け継ぐ、気骨のある豪商として知られる。

エステルとは恋仲にあり、マイスタが認めた「客」として、「娼婦」のエステルと逢瀬を重ねる。

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