四.審問 十四
文字数 4,345文字
紫色の光を放つ彼女のその目の中に、何かが描かれている。漆黒の瞳に刻み込まれた、紫に輝く奇妙な模様。円形の紋章だ。
俺は直感した。
“
そして赤銅色の球体が、ユディートに命中するかに見えたまさにその時、彼女の瞳の聖印が、その身の前に大きく投影された。虚空に映し出された、紫の聖印。まるでユディートを護る、水晶の
ユディートの右目が創り出した神秘の紋章に触れた瞬間、緋色の男の“分解熱波”は、じゅっと小さな音を立て、跡形もなく消え去った。大海に投げ込まれた、焼け石のように。
熱源と光源を失った事務所は、再び濃い闇へと沈み込む。暗がりの中に、緋色の男の震え声が力なく響く。
「わ、私の渾身の“
哀れを誘うほどに意気を失った、緋色の男の声。その抜け殻のような残響を蹴散らして、ユディートの声が高らかに響く。
「”イーア! マーテル・マカブレス!” あたしのひいひいひい……おばあさま!」
彼女の瞳が映し出す聖印の輝きが、俺の眼球に鋭く突き刺さる。
そんな俺の目に、ユディートの姿が黒く煙って見えた。彼女を包むその黒煙は、何かの形に似ている。
……喪服に身を包み、顔をヴェールで覆った一人の淑女。右手には光り輝く弓鋸をしっかりと握っている。俺の全身を、じわじわと電撃が駆け抜けた。死んだ皮膚に鳥肌さえ立たせる、神々しいユディートと、彼女に降臨した神なる聖女の透けた姿。
緋色の男が、絶望に染められた悲鳴を上げた。
「マっ、”
狼狽え切った緋色の男が、うわごとのように呻く。
「まさか、まさか、死の小神格を、そんなに容易く憑依させられるなど、あ、ありえん……!!」
「言ったよね? “血脈は師弟を凌駕する”って」
右目から聖印を投影し、その身に喪服の淑女を重ねたまま、ユディートがちろっと舌を出して笑った。すると、彼女の両足と弓鋸を床へと縛(いまし)めていた氷が、ぱきっと音を立てて粉々に砕け散った。
“
ユディートの唇、それにベールの下から覗く淑女の口元が、にんまりと笑った。遠目ながら、途端に俺の背筋がぞくぞくする。
……なるほど、愛らしい唇といい、有無を言わせない超然とした冷笑といい、どちらもよく似ている。やはりユディートと”死の太母”は、強い血脈で結ばれた先祖と子孫なのだ、と妙に納得した俺だった。
そのユディートが、ふふーん、と甘ったるく笑う。恐ろしく場違いに映る、十代少女の可憐な笑み。同居する無邪気さと容赦のなさが、馥郁と妖しげに匂う。
「じゃあ、もういいよね? キミたちの時間はここまで、ってことで」
ユディートが、聖印を虚空に映す右目を細めた。
「でも安心してね。あたしの聖ユーデットひいひいひい……おばあさまが、直々にキミたちを輪廻の環の中に還してくれるから。光栄に思ったらいいよ」
ユディート、いや、聖ユーデットが弓鋸を握る右手を、ゆっくりと掲げた。そして左手を俺の前の戸口へと差し伸べて、ふふっと笑う。
「さあ、お行き。神鋸“
彼女たちの命を受けて、プラチナシルバーの弓鋸が、その白い手を離れた。ひとりでに宙に浮いた弓鋸は、ゆるゆると聖ユーデットの頭上に静止する。
と見るや、その弓鋸が猛然と回転し始めた。鋭い唸りを上げて回る弓鋸は、今や白金の円盤のようだ。
もはや一枚の丸鋸と化した弓鋸“年代記”が、緋色の男たちに襲い掛かった。
幾瞬きも容れずに聞こえてきたのは、血も凍る悲鳴、それに生肉を挽き切る不快な音。
同時に事務所への鉄の扉は、見えない手よって、おもむろに閉ざされた。
ごうん、という無情な音とともに、神の手で封緘された鋼鉄の扉。その小窓から、途中で潰えた何かの呪文、それに断末魔の叫びが洩れてくる。鋼鉄の板一枚を隔てた向こう側で起きている惨劇が、その音と気配だけで、いやだからこそ余計に、俺の中にわずかな憐憫の情を起こさせる。
床の上にだらしなく仰向けたまま、無防備に脱力した俺の耳に、男の笑いを孕んだすすり泣きが聞こえた。それも、すぐ側からだ。
しまった! レーヴェだ!
ぎちっと頸椎を擡げた俺の眼球に、床に両手を着いた魔術師の顔が映った。
跪くような姿勢で肩を震わせた、血に赤黒く汚れたローブの男は、何とも言えない異様な表情を浮かべている。涙の滲む充血した彼の目には、底知れない絶望と恐怖、それに悲しみが渦巻く。
だがその歪んだ口元に浮かぶのは、狂った決意と悔しさに浸潤された笑いだ。喉元には、咀嚼された生肉のような傷が、まだ無残に残っている。出血も止まっておらず、痛みもあるはずだ。
それでもレーヴェには、その俺が貪った傷を痛がる素振りは、微塵も窺えない。奴の顔に差す薄明かりが、彼の陥った深い狂気をありありと浮き彫りにする。痛みさえ無に帰するほどの、極限の狂気。
その正気を失ったレーヴェの表情に、俺は見覚えがあった。
――マルーグ峠の交戦――。
根絶寸前の計画大隊の兵士たちが最期に見せた面差しに、あまりにも似ている。自刃した兵士、そのまま倒れた兵士、そして、捨て鉢に突撃した兵士。
まずい……!
だが両腕を失った俺は、簡単には床から身を剥がせない。焦って足掻く俺より早く、レーヴェがゆらりと立ち上がった。
血走った涙目のまま、レーヴェがぶつぶつと呟いている。
「こうなったら、こうなったらもう……、全員道連れに……!!」
これは本気だ。
何をするつもりかは分からないが、このレーヴェはこの場の全員と一緒に死ぬ気なのは間違いない。
止めなくては! 何としてでも……
俺は立ち上がろうと藻掻くより、ぐるりと床を転がって腹這いになった。我ながら、まるで毒々しい芋虫のようだ。
そして狂ったレーヴェが走り出そうとしたその足首に、俺はがぶりと噛み付いた。だが、今度は彼の裾の上から歯を立てた形だ。これではレーヴェの身体に、直接のダメージは与えられない。
俺はレーヴェの足に喰らい付いたまま、腐った背筋を大きく仰け反らせた。突かれた芋虫が、怒って半身を擡げるように。
ぶちぶちと繊維の裂ける歯応えが顎に伝わり、薄い血の味が腐った舌にもう一度広がってくる。
「ぐあっ!!」
ひと声上げたレーヴェが、ばたりと床に倒れ伏す。口の中に残った人肉を吐き捨てた俺も、体勢を崩してレーヴェの横に転がった。
何とか辛うじて、奴の足止めにはなった形だ。だがレーヴェの狂気は、片方の足首を齧り取られた程度では、怯む気配さえ見せない。
「ま、まだだ。まだまだ……!!」
両腕を投げだして俯せたレーヴェが、印形を組む。しかしその左右の手は、ついさっき、ユディートに魔術を撃とうとして、激しく自爆している。赤くぱんぱんに腫れ上がり、手指を組めるような状態にはとても見えない。
それでも赤いソーセージのような指を無理やりに捻じ曲げ、印の形を作ったレーヴェが呪文を唱え始めた。
「“妖火! 妖火! 妖火よ! 願わくば我が前にその姿を顕わせ”……!!」
レーヴェの短い詠唱が終わった。
……何が起こるのか。
俺は床に横臥した、腕のない体を強張らせる。眼球と鼓膜に腐った神経を集中させ、状況の変化を探る俺。
その耳が、異音を捉えた。ばちばちという、灼けた木炭が爆ぜるような音だ。
炭火といえば……。
ハッと気付いた俺は、横向きに転がったまま、倉庫の奥へと眼球を向けた。あの”特別保管庫”の前では、カイファが赤黒い光を放つ焼き鏝を手に、何か蛇のようなものと戦っていたはずだ。
しかしその決着は、たった今付いたようだ。両肩で息を弾ませるカイファ。不吉に赤黒く光る焼き鏝を手にした彼の前に、くてっと長いものが伸びているのが分かった。判然とはしないが、どうやら蛇ではなく、動く縄のようだ。第零局の連中が創った護衛と捕縛用の術具、といったところだろうか。
俺の内に、あの若者への微笑ましい賞賛の気分が湧く。
素人ながら、カイファもなかなかやるものだ。やはり持ち前の胆力と、恋人への想いがなせる業だろう。
だがそんな浮ついた気分は、瞬時に消し飛ぶ。
カイファの脇に据えられた、審問用の火鉢。彼が武器にした焼き鏝を、熾った炭火で熱していたものだ。その火鉢から、ばちっばちっ、と火花が散っている。
戦いを終え、油断と安堵に覆われたカイファの注意は放散したままだ。間近に迫った次の危難には、まだ気付いていない。
立ち上がれないまま、俺は胸郭を一杯に広げる。腐った体で出せる限りの力を肋骨に集め、俺は壊れた喇叭のような声を張り上げた。
「カイ、ファ……! 火、鉢……!!」
その途端、俺の気管と肺に、おかしな感覚が走った。どれだけ胸郭を動かしても、肺は萎んだまま膨らまない。
どうやら肺が破れたか。両腕に続き、声まで失った。苦心して得た声を……。
だが俺の最後の声に気付いたか、カイファがハッと顔を上げた。彼の眼鏡に、ばちばちと異常に爆ぜる火鉢が映っている。
「うわっ!!」
彼が焼き鏝を手にしたまま、サッと火鉢から飛び退いた。同時に、這いつくばった魔術師レーヴェが、ひひっと嘲るように笑う。
「もう遅い……!!」
狂った魔術師が叫んだ。
「“エッケ・ファッツォ・イグニシオ”っっ!!」
ぼん、と火鉢から黒煙が上がった。その煙の柱の中から、ぷすぷすと燃える蒼い炎の塊が現れてくる。火鉢の上で、上下に細かく揺れて漂う、青く怪しい火の玉。まるで糸で吊るされているかのような、奇怪な動きだ。
その炎の中に見える黒いまだら模様が、邪まで、底意地の悪い目と口を思わせる。
レーヴェがよろよろと立ち上がり、火の玉に向かって金切り声を張り上げた。
「“