三.戦禍の記憶 七

文字数 4,768文字

 再び独りになった小部屋の中で、俺は今さらの驚愕と動揺に身を震わせる。

 マルーグ峠の戦いの『戦友』だという、元第二中隊軍人のエノスとの思いがけない対話。
 長い話ではなかったはずなのに、俺に与えたものが大き過ぎた。

 ちぎれた左腕。
 “動く死体”を始末しようという『第零局』の存在。
 そして何よりも、俺が今まで自分だと思ってきた『マノ大尉』は、本当は俺ではない、という証言。
 
 俺がマノでないのなら、俺は一体誰なのか?
 何もかもが振り出しに戻されたような、うつろな気分に襲われる。そんな俺の脳裏に響くのが、エノスから聞かされた一つの名前。

 ――カルヴァリオ――

 だが、どれだけこの名前を腐った脳内に反芻させても、何も見えてはこない。恐らくは、この『カルヴァリオ』という姓だけでは、俺の記憶の封印は解かれないのだ。『カルヴァリオ』とは何者なのか、それを知る者を探し出して、聞き出さなくてはならない。それが分かったとき、俺は俺が誰なのか、知ることになるのだろう。
 パペッタの言う『贖罪』の真実も、俺の前に立ち現れてくるかも知れない。

 だが目下の問題は、俺のちぎれた左腕だ。いや正確には、そのちぎれた腕の意味、というべきだろう。これは俺の残り時間が目に見える形で表われた、いわば運命の督促、のようなものだ。
 次に俺から去るのは、腕なのか、足なのか。俺に許された猶予は、俺が思っている以上に短いのかも知れない。

 その一方で、ふと俺は思った。
 このちぎれた腕を見たら、女医ハーネマンや聖騎士ユディートは、どんな顔をするだろう? 少しは心配してくれるだろうか……?

 姉妹のように仲のいい二人の顔が、腐った脳裏をよぎる。
 職務に忠実なハーネマンのことだ。心配はしてくれても、言葉や表情には出ないかも知れない。ユディートに至っては、『もっと自分を大事にしろ』とばかりに説教を始めかねない。
 何だか物悲しいおかしさが、俺の緩んだ気管から空気を押し上げてくる。

 我ながら、暢気なものだ。
 俺の『贖罪』はいつ、どんな顛末で終わるのか? 体がなくなるまでに決着が付くのか?
 俺は本当の体に戻れるのか? そんなことをぐるぐると思い巡らせるうちに、陽はとっぷりと暮れてしまっていた。

 斜陽の残滓がかろうじて明るさを保つ部屋に、独り黄昏ていた俺。
 ぼわぼわと耳鳴りが煩い俺の鼓膜に、この日三度目のノックの音が響いた。続けて聞こえたのは、マイスタの気のいい声だ。

「マノさん、いるかい? ちょっと開けるよ」
「チョッ、ト、待テ……」

 俺は慌てて床の上の左腕をベッドの下に蹴り入れ、マントを整えて左肩を覆った。

「待タセ、タ……」
「ごめんねー、マノさん」

 即座に扉が開き、マイスタが顔を覗かせた。
 戸口に立ったままのマイスタは、気さくな笑顔に、どこか済まなさそうな色を浮かべている。幸い、無くなった俺の左腕には気付いていないようだ。
 いきなりマイスタをびっくりさせるのは気が引ける。
 少しばかり安堵した俺に、マイスタが言った。

「済まないんだけど、わしは今から娼館組合の寄り合いに行ってくるから、ちょっとサロンで留守番を頼めるかなー?」

 白鷺庵の留守番は、これまで何度もやってきていることで、特に何の問題もない。常連連中も、もう俺の容姿や臭いは、慣れてしまっているようだ。

 俺はゆらゆらとベッドの縁から腰を上げ、マイスタの後について小部屋を出た。なじみのサロンへと向かいつつ、俺は思い出した。
 そういえばあのエノスは、マイスタがケルヌンノス出身だと言っていた。もしかしたら、彼は知っているかも知れない。『カルヴァリオ』という第三中隊長のことを。
 だが一度も振り向かず、立ち止りもしないマイスタに、声を掛ける隙など微塵もない。あれよと言う間もなく、マイスタと俺は、車輪型のシャンデリアが天井から照らすサロンへと踏み入った。

 と、振り向いたマイスタが、いつもの気さくな笑顔を俺に向けてくる。

「じゃあ悪いけれど、後はよろしく頼むねー。特別な予約はないから、お客の顔ぶれは、たぶんいつもと変わらないと思うよー。済まんねえー」

 それだけ言い残したマイスタ。安心しきった様子で、彼は白鷺庵の玄関から宵闇の街路へと出ていった。

 結局、マイスタにカルヴァリオのことを聞く機会は得られなかった。マイスタも忙しい人だから、まあ仕方がない。
 いつものように、宵のサロンに独り残された俺は、ソファーに座り、いつものように客を待つ。連れ込み部屋に憩う男女と、ほぼ毎日決まった時間に訪ねてくる一人の青年だ。

 幸か不幸か、あのアンフォラの執拗で不愉快な顔は、ずっと目にしていない。だがエノスが言い残した話、『アンフォラが“魔術結社中央会議・第零局”という連中を呼んだ』、というのが妙に引っかかる。
 その知らない組織に俺を始末させよう、とでもいうのだろうか。アンフォラが何を企んでいるのか、油断はできない。

 そんなことを考えている間に、俺は白鷺庵を訪ねてくる男女の客を一組、二組と迎え入れ、引き換えに銀貨を受け取る。
 
 そして三時間か四時間が過ぎた頃。
 この無人のサロンに、二階から一人の少女が降りてきた。いつもの扇情的なドレスではなく、温かそうなガウンを着込んだ少女。彼女は俺の向かいのテーブルにそっと腰を掛け、両手を下腹部に重ねている。

「エス、テル……」

 血も凍るような俺の嗄れ声だが、盲目のエステルは翡翠の瞳を俺の方に向け、可憐に微笑む。

「あ、こんばんは、マノさん」

 視点の曖昧な笑顔だが、やはり何度見ても、娼婦とは思えないエステルだ。そんな楚々としたエステルが、俺に頭を下げた。

「いつもわたしを見守っていて下さって、ありがとうございます」
「気ニ、スルナ……」

 俺は短く答えた。彼女が両手を口に当て、伏し目がちに笑う。

「マノさんのお顔は見えないけれど、すごく頼れる、強い雰囲気は分かります。何だか、すごく嬉しい……」

 腐った体はエステルに何の反応も示さないが、やはり可愛い少女に頼られるというのは、悪い気はしない。自然と意気も高揚するというものだ。
 そこでエステルの顔に、ふっと薄く陰が差した。

「あ、お気に障ったらごめんなさい。こういう雰囲気の方にお会いしたのは、ケルヌンノス以来なので、つい……」

 俺は気が付いた。
 そうだ。エステルも、ケルヌンノスの出身だった。
 しかし『カルヴァリオ』のこと、それに第三小隊のことは、エステルの境遇と深く結びついているはずだ。不用意な聞き方は、エステルの心の傷を抉ることになりかねない。
 だが俺の内側で、腐敗ガスのように溜まった疑問を抑えきれないのも、また事実だ。
 逡巡した挙句、俺は短く直截にエステルに問う。

「“カルヴァリオ”、トイウ男、知ッテ、イル、カ……」
「えっ?」

 ソファーの上で、エステルの華奢な肩がぴくんと揺れた。曖昧な翡翠の瞳が、困惑の陰に覆われてゆく。幾瞬きかの沈黙を容れて、エステルがためらいがちに口を開いた。

「あの、ケルヌンノスの街にいた兵隊さんたちの隊長、ですよね……?」

 エステルの息が、浅く乱れている。
 やはりエステルには辛く苦しい記憶と結びつく名前のようだ。聞いてしまった俺は、縮んだ心臓を握り潰すような悔悟の念に襲われた。
 それでもエステルは、スッと顔を上げる。

「峠の戦いで亡くなったらしい、ということしか、わたしには……。父はケルヌンノスの軍隊ともお付き合いがありましたが、街が焼けてしばらくして、父は亡くなりましたので。わたしは商売のことには、あまり触れていませんでしたから……」

 気丈に背筋を伸ばすエステルの答えは、恐らく誠実に綴られている。

 彼女は豪商の娘だった。
 何不自由なく、サロンを飾る絵に描かれた屋敷に暮らす、深窓の令嬢だったはずだ。豪商マイリンクが大切な娘を商売という俗事、それも軍隊相手の取引に関わらせなかったことは、想像に難くない。
 期待外れではない、と言うと嘘にはなるが、これ以上エステルを見えない傷で苦しめるのは本意ではない。

「アリ、ガト、ウ……」

 俺が掠れ声でエステルに礼を述べたのと同時に、玄関の扉がノックされた。
 鳴った回数は六回。
 エステルがソファーから立ち上がった。応接セットの間を器用にすり抜けて、応対に立った彼女は、自ら玄関の扉を開く。
 そこにいたのは、やはりあの眼鏡の若者、商人カイファ=ミザールだ。

 エステルとカイファ、熱く若々しい抱擁を交わした二人だったが、エステルから何事か告げられたカイファが、俺に目を向けてきた。
 静かな笑みで会釈をした彼の目は、眼鏡の奥で真摯な光を宿している。

 カイファがエステルに二、三言何か言うと、彼女はこくりとうなずいて二階へと戻っていった。どうやら先に行っていて、ということらしい。
 残ったカイファが、俺の方へとおもむろに歩み寄ってきた。そしてテーブルを挟んだ俺の向かいに座ると、静謐に満ちた眼差しを俺の崩れた顔へと注ぐ。

「マノさん、カルヴァリオ隊長のことを知りたいんですか……?」
「知ッテ、イル、ノカ……?」

 意外だ。
 思わず聞き返した俺に、カイファが真剣な面持ちを保ったまま、小さくうなずく。

「ケルヌンノス駐屯の山岳猟兵隊は、ミザール商会とも取引があったから。エステルは良く知らないかも知れないけれど、僕は知っています。トバル=ルッカヌス=カルヴァリオ隊長のこと……」
「『ト、バル=ルッカ、ヌス=カル、ヴァリ、オ』……!」

 カイファが口にした名前が、俺の口から繰り返される。
 そして次の刹那、煌めく星屑の砂嵐が、俺の視界を覆い尽した。

 その煌めく灰色の背景に映るのは、一団の男たちだ。
 軽い革鎧を着込んだ彼らが帯びるのは、小ぶりの石弓。それに戦鎚やククリナイフなど、狭い場所での戦いに適した短い武器が、彼らの得物だ。全員が同じ茶色のマントで身を包み、フードを目深に被っている。これは山林での戦闘を得意とする兵団の装備だ。
 そして彼らの襟元には、七宝の部隊章がきらりと光る。その部隊章の意匠は、濃緑の地に、三つの星と白い手。俺の部隊章とよく似ているが、山吹の盾の意匠はない。

 そんな幻視を脳裏に映す俺に、カイファが沈んだ瞳で問う。

「あなたは、僕やマイスタさんが知っている『マノ大隊長』とは別人のようですが、カルヴァリオ隊長とはどういうご関係ですか……?」

 探るような翡翠の視線と、深慮の漂う口調。
 とても紳士的な物腰、好感は持てる青年だ。だがカイファが本当に聞きたい答えは、俺では与えられないだろう。
 俺は、何も知らないのだから。カルヴァリオのことも、俺自身のことさえも。

「分カラ、ナイ……。ダガ、知ラ、ナクテ、ハ、ナラナ、イ……」
「そうですか……」

 カイファが顔を伏せるようにして、前屈みにうつむく。
 その背中や肩には、何か深い迷いが渦巻くようだ。

 しばらくの間、そのまま思案に暮れていた風のカイファだったが、やがて顔を上げた。
 眼鏡越しに俺を正視する目は、決意と覚悟に満ちた確固たる光を湛えている。

 口元を結んだカイファが、わずかにうなずく。

「分かりました。お話します。カルヴァリオ隊長のこと、それに……」

 彼の表情が、何故か悔悟に歪む。

「あの峠の戦いの原因も。それは僕たちミザール商会の不始末、でもありますから……」
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登場人物紹介

「俺」


”女屍霊術師《ネクロロジスト》”パペッタに魂を抉り抜かれ、他人の腐乱死体に押し込められ、動く死体の”屍者《エシッタ》”にされた男。

ほぼ全ての記憶を封印《ロック》されており、自分が何者なのか、どうして屍者にされたのか、分からないままに贖罪の旅へと送り出される。

女屍霊術師《ネクロロジスト》パペッタ


「俺」を動く死体の”屍者《エシッタ》”に仕立て上げ、”贖罪の旅”を強要する謎の女。

アリオストポリにあるという久遠庵《カーサ・アンフィニ》という店の主人でもある。

何故「俺」に贖罪を科したのか、その狙いは何なのか、「俺」に心当たりはない。

マイスタ


地方都市ルディアの歓楽街、通称”花街”に住む、気のいい老人。

人懐っこく誰にでも親切な老人で、誰からも頼られる存在。

歩く死体の「俺」に対しても親身に世話を焼く。

ただし、「俺」が”屍者(エシッタ)”だとは気付いていない模様。

ユディート=ユーデット=サイラ(Illus.紅音こと乃さま)


”死の女神モリオール”の小神格”死の太母(マーテル・マカブレス)”に仕える聖騎士の少女。

身分は”ユーデット聖廟騎士団筆頭従士(プライメット・エスクワイヤ)”。

見た目は十六、七の少女だが、人間ではなく”樹精人(アルボリ・アールヴ)”のため、実際の年齢は不明。

小神である”死の太母”の直系の子孫。武芸も祭文(魔術)の腕も、これ以上ないほどに確か。

捉えどころなく映りつつも、時には年頃の少女らしい一面も覗く。

武器は、背中に背負った弓ノコギリ”神鋸:年代記(クロニクル)”。死の太母から代々受け継がれている。

リベカ=ヴィラフランカ=ハーネマン


ルディアの花街に診療室を構える女医。

表と裏から娼婦たちの健康を守る、花街に欠かせない人物の一人。

赤い髪を清潔に結い上げ、しっとりと落ち着いた、眼鏡の美女。

ユディートとは姉妹のように仲がいい。

実は既婚者だが……。

エステル=マイリンク


マイスタが花街に所有する施設”別館 白鷺庵《アネクサム カーサ・アルデア》”に身を寄せる少女。

身分的には娼婦として、白鷺庵の中に個室を持つ。

不幸な経緯から娼婦となったが、実質マイスタの庇護下にあり、彼女の客はごくごく限られる。

ある不自由を抱える薄幸の少女でもあるが……。

ホセア=アンフォラ


ケルヌンノス地方の最大商家、アンフォラ商会の現在の会頭。

かつてはマイリンク商会の傘下にあったが、その没落とともに、屋台骨を乗っ取った。

小心で傲慢。エステルにご執心だが、マイスタが彼女には頑として会わせない。

ユディートを内心ひどく恐れている。

カイファ=ミザール


ケルヌンノス地方の有力な商家、ミザール商会の幹部。

まだ年若いが才覚を認められ、幾つかの商流(流通ルート)の采配を任されている。

ミザール商会もかつてはマイリンク商会の傘下にあった。

しかしその没落後も、マイリンク商会の姿勢を受け継ぐ、気骨のある豪商として知られる。

エステルとは恋仲にあり、マイスタが認めた「客」として、「娼婦」のエステルと逢瀬を重ねる。

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