五.贖罪の行方 一
文字数 4,691文字
聖騎士ユディートが俺にもたらした、ごく短い情報。
だが、俺にとっては途轍もなく重大な意味を持つ。
そうだ。俺は行かなくてはならない。パペッタが待ち構えているアリオストポリの久遠庵へ。
俺の目的を果たすため、それに俺のルディアでの所業が本当に贖罪たりえたのか、問うために。
だが、途端に俺の意気は消沈する。
エステル、カイファ、それにリベカの救出と引き換えに、俺は頭以外の身体を全て失った。頭だけで意識が保たれているのもおかしな話だが、腕も足もない状態で、どうやって国境を超えて、アリオストポリまで行けばいいのだろう? さらには目指すアリオストポリの方角すら、俺には見当が付かない。
そもそもが、俺がどうやってあの裏倉庫の爆発から逃れて、この草原まで来たのかさえ分からないのだ。
そんな俺の頭に、ユディートの手がふわりと載せられた。
「まずね、トバルくん。アンフォラくんの裏倉庫から、キミの頭を拾って持ってきたのはあたし。あの倉庫が完全に焼け落ちる前に、ね。キミは
ユディートが、俺を胡坐の上に載せたままの姿勢で、ずりずりと向きを変えた。
俺の視界も少しずつ移動し、目の前に細い小道が現れた。下草のまばらに生えた、草原の小道だ。続けて彼女が何か唱える声が聞こえ、俺の眼球の前に、何かが翳された。
それは、薄い黒革の手袋で包まれた、ユディートの両手だ。彼女の細く繊細な人差し指と親指とで形作られた、横長の長方形。その左右の指が作るアングルには、薄桃色の光の膜が張っている。
このユディートの術には、確かに見覚えがある。
薄桃色の膜を覗いてみると、果たして見えた。真っ直ぐに宙を切り、小道の続く彼方へと延びる、一筋の銀の糸が。
――
以前、ユディートに見せられた時のことを思い出す。
『この銀の糸が、俺の本来の体と俺の魂を結んでいる』、確かに彼女は、そう俺に告げた。それなら、恐らく俺の頭から出ている“銀の緒”を手繰っていけば、俺の体のある場所、つまりアリオストポリにあるパペッタの“久遠庵”へたどり着ける。
だが、どうやって……?
途方に暮れた俺の目の前で、ユディートの指のアングルが解かれた。そのしなやかな両手が、そのまま俺の頭を撫で回す。
「いいよ。あたしがアリオストポリの“久遠庵”とかいう店へ、キミを連れていってあげる」
驚く俺の頭を、ユディートが再び持ち上げた。自分の鼻先に俺の腐った顔を近づけて、にんまりと笑う。
「あの裏倉庫の一件で、あたしもしばらくルディアを離れるように、マイスタさんに言われてるから。マイスタさんたちと、
ユディートの左目が、意味ありげに細められた。
「屍霊術師のパペッタ、もしかしたら”
俺が疑問を抱く暇も与えずに、ユディートが両手で持った俺の顔を、その通った鼻先へと近付けた。彼女の黒い左の瞳が、すすす、と真ん中に寄ってくる。
「どうかな? トバルくん。それとも、あたしじゃ不服かな……?」
そんな、不服な訳がない。
いや、むしろ彼女との二人旅となれば、俺にとっては小躍りしたくなるほどの喜びだ。が、そんな明け透けな気持ちを露わにするのも、何だか大人げない……。
ユディートの頬が緩んだ。にんまりと笑った彼女の面白そうな表情で、俺の気持ちが全部筒抜けになったことが分かる。この思念波の同調も、何やら良し悪しのようだ。
しかし真面目な話、確か女医ハーネマンは、ルディアからアリオストポリまでは、十日ほどかかると言っていた記憶がある。往復で二十日間も、花街に留守を強いてもいいのだろうか?
彼女は、花街になくてはならない少女なのに……。
だがユディートが、ふふっと厭味なく笑った。彼女の顔が、俺から少し遠ざかる。
「アリオストポリまで十日かかるのは、旅慣れていないひとの場合ね。冒険者とか行商人なら、だいたい七日くらい。馬を使えば四、五日かな」
馬、か。
主君に仕える“
だがユディートは死の女神に仕える“
そんな俺の疑念を見透かしたユディートが、ふふーん、と甘ったるく笑う。
「でも、今からあたしが借りる馬なら、三日もあればアリオストポリに到着できるから」
……こんなところで、誰から馬を借りられるというのだろう?
訝る頭の俺を草の上にそっと置き、ユディートはおもむろに立ち上がった。動かした眼球に、身支度を始めたユディートが映る。彼女はしなやかな体を包むぴっちりとした黒い衣装の上に、だぶっとした焦げ茶色のコートを羽織る。丈は短く、太ももの半分くらいだろうか。
背中にはあの弓鋸を背負い、左手には小さなザックを提げている。初めて見るユディートの旅装だ。地味だが、彼女のさっぱりとした髪型にはよく似合う。
一瞬、ユディートがにこっと笑った気がした。
しかし、やはりどこにも馬の姿は見えない。彼女の言う馬は、一体どこにいるというのだろうか?
ユディートが周囲をぐるりと見回した。どうやら辺りの人の気配を探っているようだ。ここはルディアや人里から離れているらしく、誰の姿も見えず、足音も聞こえない。
それを確かめて、ユディートが何か知らない言葉を唱え始めた。
そして二、三秒。長い前髪をかきあげた彼女は、ゆっくりと右目を開いた。ユディートの右の瞳に秘された聖印が、紫に煌めく紋章を虚空に投影する。
しかし宙に浮かんだその光の紋章は、すぐに影色の刻印へと色を変えたかと思うと、パッと粉々に砕け散ちった。辺りには、煤よりも濃い黒煙がもくもくと漂う。
と見るや、その怪しい黒煙は、再びユディートの前にもわもわと凝集し、やがて四つ足の獣へと変容した。
馬だ……!
隆々とした筋肉を誇る、一頭の悍馬。燻し銀の豊かな鬣が風に揺れ、その涼やかな目は青白く光る。その逞しい背には、精緻な彫刻の施された鞍がすでにしつらえられ、
だが奇妙なことに、この黒馬の毛並みは、全く光を反射しない。まるで夜闇が、馬の形に化体したかのようだ。
それでも、かつて見たことがないほどに美しく、精悍な馬。まさに神馬だ。
しかしこの馬は、一体どこから……?俺は疑問を抱えながらも、神々しい威容を誇る黒馬に、見惚れるばかりだ。
そんな俺をよそに、ユディートが無邪気な笑みを浮かべ、馬の頬から額を優しく撫でる。
「来てくれてありがとう、“ゼテス”。ちょっとだけ、あたしたちを乗せてね」
ぶふっ、と鼻息を噴きながら、『ゼテス』と呼ばれた馬が、何度も顔を上下させる。ユディートに頬ずりするように。
馬の意志を確認できたのか、彼女が草の上の俺に顔を向けてきた。閉じられた右目は、もう前髪の下だ。
「この子は”ゼテス”。ひいひいひい……おばあさまの馬車を牽く“
ユディートが、馬の頬に手を添えながら、にんまりと笑う。
「この子、すごく速いのよ。本気を出したら、乗せてるひとの体なんかバラバラになっちゃうくらいにね」
……それは一体何の皮肉なのか。
半眼になりかけた俺だったが、俺の感情は全部ユディートに駄々洩れだ。彼女にぎん、と睨まれる前に、俺は心の口をつぐんだ。
ふふーん、と例の笑いを甘く洩らしつつ、ユディートが俺の前へと戻ってきた。草の上に膝を着いた彼女が、ザックの中から何かを取り出す。
見たところ、黒く四角いハンカチのようだ。両手で角を摘んだ彼女がパッとはたくと、その黒い布は何倍にも大きく広がった。絹だろうか。向こう側が透けて見える、黒い真四角な布だ
ユディートがその布を草の上に広げながら、俺に告げる。
「日が暮れる前に、国境の検問を抜けるから。キミはこの布に包ませてもらうね。検問の兵士はともかく、往来のひとたちを驚かせるのは可哀想だもん」
まあ、それは否定しない。辻強盗でさえ失神するほどの顔なのだから。
そこでまたにんまりと笑ったユディート。
「どうせ
何となく釈然としない言われようだが、本当に大丈夫だろうか? 実際、俺の頭が調べられて、屍者だということが知れたら……?
だが俺の頭をひと撫でしたユディートは、ふふっと笑うだけだ。
「説明なんかいくらでも立つから、大丈夫」
そううそぶいて、ユディートが黒い布の真ん中に俺を置いた。
布の角を一つ摘んで、彼女は俺の顔の正面を覆い隠す。後頭部にも対になる布の角を覆い被せ、俺の頭はしっかりと黒い布にくるまれた。しかし布は薄く、布目を通しても外の様子は意外としっかり透けて見える。
そうしてユディートは、布に包まれた俺が彼女の胸元辺りに来るように、細く巻かれた布の端を首の後ろに堅く結ぶ。
……頭の後ろに触れる柔らかな感触が、どうにも気になるが。
そわそわと落ち着かない俺に、ユディートが、ふふーん、と甘ったるく笑った。しかしすぐに彼女の調子は不敵なものに変わる。
「それじゃあ、そろそろ行こうか、トバルくん。パペッタの待つ、アリオストポリの久遠庵へ」
ああ、いよいよか。
ユディートの呼びかけが、俺の腐った舌と頭の後ろを、ぎゅっと縮み上がらせる。
俺を屍者にしたパペッタ、それに俺の本当の体が待ち受ける久遠庵へ、とうとう出向く時が来た。何が起こるのか杳として知れず、何とも表現できない奇妙な気分が俺を襲う。刑場に牽き出される咎人の心境に、あるいは近いかも知れない。
それでも、俺は行かなくてはならない。『贖罪』の行方を見届けるために。
俺を首から下げたまま、ユディートが召喚された霊馬ゼテスにひらりと跨った。朱色の手綱をしっかりと握り、彼女が小さく息を整える。そして一瞬の間を容れ、短く声を発した。
「ゼテス、お願い!」
ユディートの小気味よい一言を受け、俺たちを乗せたゼテスが、嘶きを上げて大地を蹴った。