四.審問 七
文字数 4,299文字
身も心も傷付いた彼が、俺とユディートに語った顛末はこうだ。
――帳簿の仕事が少し早く終わったカイファは、いつものように、エステルの待つ白鷺庵を訪ねた。
玄関をいつものやり方で叩いたが、反応がない。
だが扉の鍵は開いていて、彼はサロンに入った。
すると中では、ペイルグリーンのローブを着た男二人とマイスタが、押し問答を繰り返していた。
男たちは『白鷺庵に
カイファもそこに加わって、魔術師風の男たちと口論になった。
しかし勝手に奥へと入っていった男の一人が、どこからか腐った人の片腕とハーネマンの診断書を探し出してきた。
そこで男たちは、さらに二階へ押し入って、部屋にいたエステルを強引に連れ出してきた。
男たちは、エステルを『審問に掛ける』と言う。
当然、カイファもマイスタも力いっぱい抵抗したが、男が放った魔術を食らって倒れてしまい、エステルはまんまと攫われてしまった。
それでカイファは、この花街を護るユディートの許へ来たのだ。
知恵と力を借りるために――
カイファの話を聞き終えた俺とユディートは、お互いの顔をちらりと見遣った。
……
ユディートが言っていた『上役』だろうか?
うなだれた俺の胸郭が、ずっしりと重くなる。連中は、俺がベッドの下に蹴り入れた左腕を見つけ出したのだろう。それが、白鷺庵に屍者がいる動かぬ証拠になったのだ。
うなだれた俺の隣では、ユディートが愁眉を歪めて唇を噛んでいた。
……こんな深刻で苦しげな表情を見せた彼女は、これが初めてだ。俺の止まった心臓まで、痛みに痙攣を起こしそうになる。
苦しげに左目を伏せたユディートに、カイファが瞬きも忘れた真摯な目を注ぐ。
「あの薄緑のローブの人たちは何なんですか? どうしてエステルが……」
ふっと小さく息をついてから、ユディートがカイファを見つめた。彼女の黒い瞳には、自責の陰がありありと浮かぶ。
「エステルを誘拐した魔術師は、”
……なるほど、その連中もまだ未熟という訳か。
それならば、ユディートの言う『上役』は、また別にいるはずだ。
うつむいたユディートが、たおやかな首を力なく横に振った。
「それでね、エステルが攫われたのは、あの子が歩く死体の“屍者”を操っている“
「え、え? そんな馬鹿な! エステルはただの町娘なのに……!?」
眼鏡の奥で目を見開き、絶句したカイファ。ユディートの言葉を信じられないのだろう。彼の口は、二の句を告げない。
腕組みのユディートが、澱んだため息をついた。
「悪いのはあたし。あたしがアンフォラくんをエステルから遠ざけるために、トバルくんに“用心棒”を押し付けたから。それでたぶんアンフォラくんは、死んだはずのマノ大尉が屍者になって、横恋慕してるエステルを護ってる、って思い込んだのよ。それをあちこちで吹聴してたみたいね」
ユディートの言葉を聞き、俺もエノスの言葉を思い出した。
「俺モ、アンフォラ、ガ、魔術結社中央会議ノ、第零局ヲ、呼ンダ、ト、聞イタ……」
「でも、どうしてアンフォラさんはそんなことを……?」
全く理解できない面持ちのカイファに、ユディートがはっきりと断言する。
「それは、エステルを護ってるトバルくんが邪魔だから」
腕組みのユディートが、玉の唇をまた噛んだ。
「屍霊術で創られた怪物がいるって聞けば、世間の魔術師を管理してるつもりの魔術結社中央会議は、必ず調べに来る。だからアンフォラくんは、第零局にトバルくんを始末させるつもりだったんじゃないかな。それでこの花街に来た第零局の魔術師たちは、白鷺庵で用心棒のトバルくんを実際に見たのよ」
ああ、そうか。
俺の小部屋の窓から見えた金緑の目は、さっきユディートが斃した魔術師のものだったのだ。あの男が俺の跡を付けて、このユーデット聖廟まで来た。その間に、別動の魔術師たちが、白鷺庵を襲ったのだろう。
ユディートの左目が、悔悟の念に細められる。
「でも第零局は、誰かの言うとおりに動くような組織じゃない。勝手な思い込みで、どんなことでもする組織よ。だからトバルくんの護ってたエステルが、屍者を使役している屍霊術師だと疑ってて、審問に掛けるつもりね」
ユディートがスッと顔を上げた。夕闇に染まりつつある空を睨み、彼女は張り詰めた口調で呻く。
「急がないと、エステルが危ない。もしかしたら、ハーネマンさんも……」
「何故、ダ……?」
ユディートの聞き捨てならない言葉が、俺の頸椎を締め上げる。嫌な予感に全身を侵食される俺に、ユディートが険しい左目を向けてきた。
「“診断書”。ハーネマンさんが書いてくれたあの紙が、第零局に渡ってる。ハーネマンさんも、エステルの共犯だと思われてるかも」
余りの戦慄に、一瞬気が遠くなる。
女医ハーネマンは、俺のかけがえのない恩人の一人だ。どんな非道を働くか知れない輩に、彼女を好きにさせてなるものか。俺はすぐに現実に意識を打ち込み、気を確かに保つ。
「行コ、ウ……。リベカ、先生、ノ、診療、室、へ……!」
ユディートもカイファも、即座にうなずく。
彼女が俺に向かってくるりと蠱惑的な背中をむけると、そのまますとんと地面に片膝を着いた。
「あたしに負ぶさって、トバルくん。キミの足じゃ時間がかかり過ぎるから」
確かにユディートの言うことは正しい。柄にもなく、どぎまぎした気分の湧き上がる俺だった。だが浮ついた気持ちなど瞬時に吹き飛ばし、俺はユディートの背中に体を預ける。
俺の腐った胸板と腹が、ユディートの背中にペタっと触れ合う。
腐った死体が背中に密着しているのだ。普通の人間なら、きっと耐えがたい気色の悪さだろう。
しかしユディートのしなやかな背中は、ぴくりとも震えない。さすがの冷静さ、それに豪胆さだ。
「済マ、ナイ……。大丈夫、カ……?」
ユディートがすっくと立ち上がった。
俺の重さなどものともせず、俺の両脚をしっかりと抱えたユディートが、小さくうなずく。
「大丈夫。こう見えても、あたしは力あるのよ。少なくとも、今のキミよりはね」
滑らかなうなじから悪戯っぽくそう答え、ユディートがカイファに目を向けた。
「キミも一緒に来てもらっていい? カイファくん」
「ええ、もちろん!」
そうしてユディートと背負われた俺、それにボロボロのカイファは、ユーデット聖廟の鎮座する墓苑から駆け出した。
夜のとばりが降りる裏路地に、人の姿はほとんどない。
俺を背負ったまま、ほぼ無人の街路を駆け抜けるユディート。その脚の運びは、俺の重みなど掛かっていないかのように、速く軽やかだ。
白亜の聖廟からさして遠くもないハーネマンの診療室だが、ユディートはあっと言う間にその道のりを走破した。
今、俺たちの目の前には、見覚えのある玄関口がひっそりと佇む。通りに面した質素な玄関口だ。
褐色の扉には、『ハーネマン診療室』と銘打たれたプレートが掲げられ、その下には『本日終了』と書かれた小さな看板が掛かっている。
そんな玄関口の前で、ユディートが俺を背中から下ろした。俺が石畳を踏むのと同時に、わずかに遅れたカイファが追いついてくる。
はあはあと息を切らせるカイファに対して、ユディートの呼吸には一糸の乱れもない。
さすが、聖騎士のユディートだ。身体能力も、やはり凡俗とは訳が違う。
俺、それにカイファと視線を交わし、ユディートがココンコンコン、と独特のやり方で扉をノックした。続けて彼女が呼びかける。
「ハーネマンさん、いる? ユディートだけど……」
だが反応はない。
ぞわぞわと痺れるような不快感に覆われる俺の前で、ユディートが扉を押した。カチッと留め具が小さく鳴って、玄関はいとも簡単に開いた。
……鍵が掛かっていない。
もう一度、一様に不審と不安に塗れたお互いの顔を見合わせて、俺たちは女医ハーネマンの診療室へと踏み入った。
玄関の内側は、小ぢんまりとした待合室らしい。一応、窓はあるが隣の建物がすぐ外にあるらしく、入ってくる光はわずかだ。それでも、そのほのかな光の中に、三列に整然と並んだ長椅子と、奥の壁に付けられたすりガラスの扉が輪郭を浮かび上がらせている。
迫る宵闇に呑まれつつある診療所の中は、灯りもなく、しんと静まり返っている。物音も人の気配さえない。
「ハーネマンさん!」
ユディートが声を上げた。
よく通る澄んだ声が、診療所の奥まで届いたようだ。しかし、それに応える声は帰って来ない。
俺たちは慎重な足取りで、待合室の奥にあるすりガラスの扉に近付いた。『診察室』と書かれたガラスの向こうには、やはり光も影も見えない。
ユディートが、扉をそっと押し開ける。
途端に、俺たちの目に飛び込んできたのは、床一面に散らばる無数の紙だった。几帳面な文字と、簡単な手描きの図が書かれた紙は、いわゆる“カルテ”というものだろう。
さらに乱雑に倒された二脚の椅子、机に投げ出された聴診器や眼鏡、そして開きっぱなしのまま放り出されたお医者鞄。
何か騒ぎがあった跡に間違いない。
「遅かったのか……!?」
落胆の息を洩らし、がっくりと肩を落としたのは、カイファだ。やはり彼が呻いたように、女医ハーネマンも第零局・暴力室の奴らが連れ去ってしまったのだろう。
荒らされた診察室に立ち尽くす俺の胸郭も頭蓋も、ぎりぎりと締め付けられる。
元をただせば、全ては俺のせいだ。
俺が行く当てもなく、彷徨うようにこの花街へと流れついたせいで、エステルもハーネマンも、あり得ない窮地に晒されている。カイファまで酷い怪我を負ってしまって、全ては俺の責任以外の何物でもない。『贖罪』どころか、俺の罪業は却って上塗りされてしまった。
俺は、どうすれば……。