四.審問 十七
文字数 5,246文字
そこは五歩四方もない、実に狭い部屋だ。窓も灯りもない、赤煉瓦がむき出しの壁際に、誰かが立たされている。
縄で括られた両手を壁の鍵に吊るされた、二人の女。黒いドレスのエステル、それに白い長衣のハーネマンだ。口には猿轡が噛ませられ、酷い拘束姿の彼女たちだが、見たところ怪我や衣服に乱れはない。それに布を噛まされた唇から、エステルもハーネマンも何かもごもご言っている。
よかった。間に合ったようだ……。
「あの縄の見張り番もやっつけたよ。それに第零局の連中も」
力強く告げながら、カイファがエステルの猿轡を解き、彼女の頭上に固定された手首の縄にも手を掛けた。
瞬く間にエステルの手首を解いたカイファの胸に、エステルがギュッと抱きつく。堅く抱擁を返すカイファ。
二人に言葉はない。ただエステルの安堵に満ちた吐息が、彼への想いの丈を全て表わし尽くしている。そんなエステルに、涙の跡は全くなかった。カイファを信じて、ただひたすらに待っていたのだろう。自分の身と、お腹の子の危険をひしひしと感じつつ。やはり芯の強い、一途な娘だ。
微笑ましさと同時に、針先ほどの羨ましさを覚えた俺だった。
そして俺も、ハーネマンの口に噛まされた布を解こうとした時に、はたと気付いた。
……そうだ。もう俺には、両腕がない。
リベカの前で、うなだれてしまった俺。俺を見る彼女の蒼い目が、眼鏡の奥で哀しげに歪む。
そんな俺たちに気付いたカイファが、エステルからパッと離れた。
「あっ、ハーネマン先生も……」
エステルと同じように、カイファがハーネマンの猿轡と縄を解いた。
自由になったハーネマンが何か言うよりも早く、俺はカイファにうなずきかける。カイファも、緊迫感を取り戻した面持ちで、寄り添うエステルとハーネマンに告げる。
「早く出よう! 説明は後で……!!」
俺たちは雪崩を打って、保管室を出た。
途端に目にしたのは、数歩前にまで迫った緑の熱の壁だ。ぱりぱりと表面にスパークが走らせる炎を眼鏡に映し、リベカが絶句する。
「これは……!?」
この期に及んで、ハーネマンがこの妖火に興味を示したようだ。リベカも、どうしてなかなかいい度胸だ。さすがは女医と言うべきか。
だが奇怪な妖火は、もう倉庫の大半を占めるまでに肥大化している。いつ破裂してもおかしくない。
俺は右肩の破断面で、眼鏡を下げたリベカの背中をぐいっと衝いた。彼女もハッと我に還り、先を行くカイファを追う。
壁沿いにぐるりと妖火を迂回して、俺たちは南の壁にたどり着いた。煉瓦の壁面には、鋼鉄の大きな引き戸がある。アンフォラが言っていたとおりの、南の搬入口だ。その二枚の引き戸は、左右から太い角材のつっかえ棒が、がっちりと噛ませてある。
閂ではなかった。
閂の扉なら押せば済むが、つっかえ棒の重い引き戸は厄介だ。アンフォラも、ほとほといい加減な奴だ……。
胸郭に不満を溜めた、腕のない俺をよそに、カイファ、それにハーネマンがつっかえ棒の片方に組み付いた。
と、その時、倉庫の中に神経を逆なでする妖火の高笑いが響いた。
「ケハハハハハァ!!」
びくっと身をすくませたハーネマンとエステル。そんな彼女たち、それにカイファと俺の顔が、明滅する緑の光に照らされた。
見れば、膨れ上がった妖火の表面から、幾条もの鮮緑の光が洩れている。
破裂する! 時間がない……!
ようやくつっかえ棒を外された引き戸の片方が、ごろごろと二人に押し開けられた。相当重い扉らしく、カイファとリベカだけでは、ひと一人が通れるだけの隙間を作るのが精いっぱいだ。
「さあ早く……!」
エステルを隙間から戸外へと押し出し、ハーネマンがそれに続いた。最後に搬入口から出たカイファが、残った俺に手を差し延べる。
「あなたも……!!」
背後に莫大な熱量を感じつつ、俺はうつむく。
きっとこの妖火が爆発したら、辺り一面は吹き飛ぶだろう。少しの隙間でも、吹き出した爆風は凄まじい破壊力を持つに違いなく、この扉は閉じなくてならない。そして少しでも遠くへ逃げなくてはならないのだ。
しかし、もう猶予はない。ましてや、俺のようなまともに動くこともできなくなった屍者を連れて逃げる時間など……。
俺はカイファを無視して、開いた側の引き戸の端へと回った。そうして腐った背中を引き戸の方立に当てると、利きの悪い両脚を突っ張らせて鋼鉄の戸板に全体重を掛けた。
しかし本当に重い引き戸だ。それでも戸板はごろごろと鈍い音を立て、ゆっくりと閉じてゆく。
カイファの悲痛な呼び声が聞こえた。
「あっ!? トバル隊長!! 何を……!?」
「えっ? トバル……、カルヴァリオ、隊長……!?」
エステルの声だ。だがその続きを打ち消して、鋼鉄の扉はごうん、と閉じた。
鋼の方立に背中を預けたまま、俺は両脚を突っ張らせる。今はもう、俺がつっかえ棒だ。
外から扉を叩く音、それに何か叫ぶ声が聞こえる。だが、もうここを開ける訳にはいかない。
俺の横目に入る妖火の裂け始めた表面は、もうすぐそこまで迫っている。搬入口を叩く音も、すぐに聞こえなくなった。
カイファたちは、この『裏倉庫』から離れたのだろう。それでいい。エステルとお腹の子、それにハーネマンは助け出され、
俺の仕事は終わったのだ。
そこで、ふとユディートの顔が腐った脳裏をよぎった。彼女は大丈夫なのだろうか?
だが、すぐにそんなことは愚問なのだと気付く。
ユディートは、『今日は死ぬ日じゃない』とはっきりと言っていた。それに、死の太母の加護をその身に体現している彼女だ。死ぬはずがない。
俺は頸椎を擡げて、後頭部を方立に着けた。
今の俺にできることは、全てなし終えた。この屍者の体も、それに『贖罪』の途も、ここで潰えることだろう。
それでも今の俺は、満ち足りた気分だ。ただ心残りがあるとすれば、それはユディートのあの蠱惑的な魔の笑みはもう見られない、ということか。それにあの真剣で、得意げな説教も……。
俺が胸郭の内側に自嘲の笑いを洩らした瞬間、限界まで膨らんだ妖火が弾け飛んだ。
あり得ないほどの猛威を誇る爆風が、俺を吹き飛ばす。
脚も骨盤からちぎれ飛び、頭が頸椎からねじ切られたのが分かった。
俺の体は、ついに……
俺は、ふと気が付いた。
顎の下に触れる、温かく柔らかな感触に。頬にはひんやりとした柔らかな風が触れ、閉じられない眼球には、彼方で茜に染まる空が映っていた。
聞こえてくるのは、鳥の鳴く声。恐らく、夕刻なのだろう。きっとねぐらへ帰る鳥たちだ。
俺は今、どこか広々とした屋外にいるようだ。澄んだ空気に、果てしのない静謐。
とても気分がいい。
と、そこまで思い浮かんだ俺に、自分でぎょっとする。
俺は、今どうなっているのだろう? あのアンフォラの『裏倉庫』で、俺の体は木っ端微塵に吹っ飛んだはずなのに……。
体の動かせない俺の耳に、ふっと聞き覚えのある息がかかった。
ふふーん、という甘ったるい笑い。俺の心が、萎み切った俺の心が、一気に熱く、広がってゆくのが分かる。
「目が覚めたみたいだね、トバルくん」
間違いない。俺の女神にも等しい聖騎士、ユディートだ。
あの第零局の魔術師五人のうち、四人を独りで斃した少女。ああ、やはり無事だった……。
俺は彼女の姿を求めて、じたばたと足掻く。だが今の俺に動かせるのは、どうやら眼球だけのようだ。どれだけ目を動かしてみても、俺が求めた少女の姿は映らない。
逸る気持ちが、落ち着かない眼球に伝染し、きょろきょろと見回すばかりの俺。
一刻も早く、ユディートの顔を確かめたい。気持ちが逸るばかりの俺の頭が、そっと撫でられた。
「エステルとハーネマンさん、それにカイファくんは無事に白鷺庵へ戻ったから。もう大丈夫だよ、トバルくん。よく頑張ったね」
俺を優しく撫でながら、ユディートが静かに問う。
「それで、気分はどうかな……?」
俺は自分の内側を模索する。
何だか、すごくいい気分だ。この充足感、高揚感、それに達成感。戦いに勝った時とは比較にならないほどの、温かく不敵な気持ちに包まれる。
そんな俺の頭の左右に手が当てられた。同時に、俺の頭はその手にスッと持ち上げられる。やはり首から下はなくなっているようだ。どうやら今の俺は、頭だけの屍者になったらしい。
そんな俺の視線がぐるりと回り、目の前に少女の顔が大写しになった。右目を黒い前髪で隠した、
……ああ、やっとユディートの顔をこの目で確かめられた。
感慨に浸る俺の額に、彼女の額がこつんとくっつけられた。母親が、子供の熱を測るときのように。俺に心臓があれば、初めての逢瀬のように、激しく踊り狂うことだろう。
そんな俺の動揺を知ってか知らずか、ユディートが左の目を細め、にんまりと笑った。俺が求めてやまなかった、どこか魔的で蠱惑的な笑み……。
「よかったね。あたしの顔、キミの目で確かに見られて。気分もすごくよさそう」
途端に俺はびくんとする。もしかして、やはり今まで俺の頭の中は ユディートに筒抜けだったのか……?
ユディートが、俺の頭を両手で持ったまま、またふふーん、と笑う。
「キミの思念波、あたしと同調させたから。もうキミの考えてること、全部あたしに分かっちゃうよ」
つまり、俺の腐った頭の中身は、いよいよ全部ユディートに駄々洩れになる、ということか。だが裏を返せば、声がなくとも彼女と会話ができるということだ。それだけでも、俺には嬉しい。
にこっと笑った彼女が、頭だけの俺をそっと下ろした。置かれた先は、胡坐をかいた彼女の脚の上だ。この温かく柔らかな感触、どうやら俺は、ずっとユディートの膝というか、股間に抱かれていたらしい。
知ってしまうと、急に恥ずかしくなる俺だった。だがそんな思いまでユディートに伝わっては堪らない。俺は慌てて思考を閉じた。
そんな俺の他愛もなく青臭い動揺も、全部筒抜けなのだろうか……?
俺の疑念を肯定するように、ユディートが、ふふーん、という甘ったるい笑いを洩らした。
と、幾瞬きも容れずに、聞こえてきたのは、何かしゃりしゃりと噛む音だ。この甘酸っぱい匂いと瑞々しい響き、ユディートが好物の林檎を齧っているのだろう。
黙したユディートと、話せない俺。この夕刻の草原で、屍者になって以来、初めてのゆったりと満ち足りた時間が流れてゆく。
実に静かだ。俺の内も外も。”平穏”とか”平和”とかというのは、こういうものを云うのだろう。
ユディートの膝に抱かれ、金色にたなびく雲を眺める俺の内に、ふと浮かんできたのはエステル、カイファ、それに女医ハーネマンのことだった。
みんな無事だとユディートは言った。だが俺も彼女もあれだけの騒ぎを起こしたのだ。それに
本当に大丈夫なのか……?
俺の内に沸き起こった不安と疑問は、ユディートのふふっという息に吹き飛ばされた。
「エステルとカイファくん、それにハーネマンさんも、今はもうマイスタさんの裏組合が用意した安全な建物に移ってる頃だから。それに
ユディートが、ふふーん、と思わせぶりな甘い笑いを容れる。
「どうしても魔術結社中央会議が引かないなら、あたしがユーデット聖廟騎士団を通して、神殿集落にいらっしゃる”
……なるほど。裏で起きた事件は、裏で揉み消すわけか。
あの惨事は第零局の不始末だから、魔術結社中央会議も死んだ五人を切り捨てて、口を拭うしかないだろう。闇に葬られるあの五人は気の毒だが、それもまあ因果応報というものだ。
何はともあれ、これでもうエステルたちの安全は確保されたことになる。確かに、もう彼女たちは大丈夫だろう。
脳裏に安堵の息を想った俺に、ユディートが静かに問う。
「ねえ、マイスタさんから聞いたんだけど、ルカニアとアープの国境封鎖、解かれたみたいだよ。どうしようか? トバルくん……」