四.審問 十三
文字数 3,932文字
と、即座に扉が開け放たれ、戸口にペイルグリーンの男が悠然と立つ。手に長い棒を持つ、魔術師レーヴェだ。真っ白な霧を背に、ヤツは仰向ける俺を勝ち誇った顔で見下ろす。
その憎々しい姿の背後に響いたのは、男の耳障りな哄笑だった。
「こうなってしまっては、さしもの死の女神の
床に転がった俺から、この驕った声の主は見えないが、緋色の魔術師に間違いない。だが見えるのは、氷に固められつつも超然さを失わない、神々しいまでのユディートの姿だけだ。
『主任』を名宣る魔術師は、俺の視界に入らない部屋の隅から、動けないユディートをさらに嘲る。
「その状態では、
俺は床に着いた頭頂部で体を支え、仰け反るようにして、倉庫の奥へと視線を移す。逆さに映るのは、何か細長い蛇のようなものと懸命に戦うカイファの姿だけだ。まだエステルとハーネマンは、小部屋の中なのだろう。
火鉢から引っこ抜いた焼き鏝を振り回し、鎌首を擡げる奇妙な蛇に立ち向かうカイファ。恐らく市井の商人である彼には、戦いの経験など皆無だろう。動きは稚拙で、隙だらけだ。だが“恋人を救う”、その若く一途で滾る熱情と気迫が、敵を怯ませているようだ。
庶民のカイファでさえ、あれだけ懸命なのだ。元軍人の俺が、こんなざまで何とする? この身に替えても役目を貫徹するのが、軍人の本分ではないか……!
自らを叱咤する俺は、ユディートへと視線を戻した。
その時、彼女の漆黒の瞳が、俺の目を捉えた。
半ば凍り付いた姿のまま、ユディートが目を細める。血の気の退いた唇が、わずかににんまりと綻んだ。その笑みが、俺の潰れかけた胸をハッと衝く。
『案ずるな』、という彼女の合図だ。
死地にあっても余裕と自信を失わないユディートの姿が、俺を奮い立たせてくれる。とうとう両腕を失った俺だが、まだ二本の脚と、この不潔な歯が生え揃った口があるではないか。
まさに動く死体にこそ相応しい、悍ましい武器だ。
俺の腐敗した胸郭の内側が、ガスと闘志とで満ち満ちてくる。床に仰向けつつ、密かに想いを立て直す俺の耳に、緋色の魔術師の飛ばす指示が聞こえた。
「あの女屍霊術師どもを曳き出せ、レーヴェ。その屍者と奥の若僧は処分しろ」
緊張が一気に融解した反動だろう。油断に満ちた、緩み切った口調だ。
その慢心が部下にも伝染したのか、レーヴェの顔にも根拠のない安堵と、底意地の悪そうな薄笑いが浮かぶ。この、野卑たヤツめ。苦々しさが、この男の一挙手一投足を監視する俺の内に、じわりと広がってくる。
そんな両腕を捥がれた死体の俺を、レーヴェが蔑むように見ている。だがすぐに視線を倉庫の奥へ移すと、俺の方を見ないままに敷居を跨いだ。
……今だ!
俺はレーヴェが倉庫の床を踏みかけたその足を狙って、二本の脚を突き出した。
「うわっ!」
足払いを食わされたレーヴェが、ひと声上げて俺の上に倒れ込んでくる。
……狙いどおり。
俺に覆い被さったレーヴェの腰を、俺は脚でがっちりと挟み込んだ。そして悪臭の芬々たる口を大きく開けて、レーヴェの喉元にがぶりと食らいつく。
それこそユディートが林檎を齧るように、何の遠慮もなくもりもりと貪ってやる。
不潔な歯がレーヴェの柔らかい皮膚にずぶずぶと食い込み、その噛み傷からどくどくと溢れる生暖かい血液が、俺の口の中を満たしてくる。まさに動く死体の面目躍如の攻撃だろう。
「がああ……!!」
絶叫しながら、俺の上で暴れ藻掻く魔術師レーヴェ。その喉から流れる鮮血が、彼のローブと俺の顔を赤黒く濡らす。
……人の血というのは、やはり旨いものではない。屍者ではあっても、俺の口には合わないようだ。
「どうした!? レーヴェ……!!」
部下の異変にようやく気付いたのだろう。事務所の方から、緋色の男の焦りに満ちた声が聞こえた。奴の動揺が手に取るように分かる。
と、それに被さるように静かに響いたのは、くすくすという笑い声。透明な無慈悲さと容赦なさを帯びた、十代少女の声だ。
……ユディート!
俺はじたばたと足掻くのを止めないレーヴェから口を離し、俺の横に放り出す。そして血塗れの顔を上げた俺に見えたのは、ユディートの満足そうな笑顔だ。俺をねぎらうようにうなずき、彼女の左目がにこっと笑った。腐った俺の全身に、妖しい精気が充溢してくる。
ああ、やはり彼女は俺の女神だ。
そのユディートが氷結された姿勢のまま、にんまりと笑う。俺の死角にいるはずの三人の魔術師を見渡して、彼女がねっとりと告げた。
「ねえ、ちょっとこれ以上は、静観できないなあ。エステルもハーネマンさんも、キミたちの玩具にはさせられないし、奥のカイファくんもそこのトバルくんも、今日は死ぬ日じゃないんだよねえ……」
妖しい口調で綴られたユディートの煽りを受けて、緋色の魔術師の声が戦慄く。
「き、貴殿に何ができるというのだ!? “
「“印形”ねえ」
ユディートが、ふふーん、と甘ったるく笑った。左目が何か青白く光って映る。
「一つ、キミたちに教えておいてあげるね」
冴え冴えと煌めく左目が、すうっと細くなる。
「“血脈は師弟を凌駕する”。あたしたち”
「ど、どういう意味だ……?」
ついさっきと同じ、緋色の男の問い。だが先刻とは打って変わって、口調は弱い。顔は見えずとも、恐れと猜疑心がその声からありありと読み取れる。
「分からない? じゃあ教えてあげる」
ユディートの曖昧な口元が、わずかに引き結ばれた。酷薄な微笑を湛えた彼女が、第零局の三人に噛んで含めるように語る。
「術者たちは、きちんとした師の許で、それこそ血の滲むような修練を重ねて、術法を会得するの。印形も呪文もね。でもあたしにはそんな大層なもの、必要ないのよ。あたしには、“血脈”があるんだもん。ひいひいひい……おばあさまとの、血脈が」
「何……?」
ユディートの左目が、ふっと伏せられる。と、何故か事務所の灯火が暗くなった。
いや、灯りが弱まったというよりは、闇が濃くなったという方が正しいかも知れない。
夜色の薄靄をまとう彼女の足元から、怪しい風が吹き上げる。そしてその風が、ユディートの艶やかな黒い前髪を、さらりと横へと流した。
彼女の顔の全容が、俺の目に初めて露わにされる。
秀でた額に通った鼻筋、そして、切れ長の閉じられた右目。やはり息を呑むほどに美しい。
そこで俺は初めて気が付いた。ユディートが、長い前髪の下に隠した右目を常に瞑っていことに。そのまつ毛の長い右の瞼が、ゆっくりと上がってゆく。
気のせいだろうか。彼女の右目から、紫の光が洩れてくる気がする。
併せるように、ユディートの唇から細く長い息が洩れ始めた。今まで彼女が見せたことのない、静謐に満ちた呼吸だ。打ち寄せては引いてゆく遠い潮騒を思わせる、ユディートの息遣い。俺の心に、深く染み入ってくる。
だが緋色の狼狽しきった無粋な声が、俺の感傷への耽溺を妨げた。
「おのれ、小娘……!! こうなれば……!!」
ユディートの綴るさざ波を打ち消すように、緋色の男が憤激に任せた口調で呪文を唱え始めた。
「“万物を象る根源の波動よ、今こそその始原の姿へと……”!!」
事務所の壁が小刻みに振動している。戸口からは、灯火とは異なる赤橙色の光が、怪しくぼんやりと洩れてくる。漂ってくる熱量も、かなりのものだ。
だが今の俺に、彼女への不安はない。むしろ全幅の信頼感さえ湧き上がってくる。
緋色の男が声を限りに、呪文の結句を叫ぶ。
「“ペル・ダレオ”!!」
刹那、事務室の内側が目映いオレンジ色に染め上げられた。今まで聞いたこともない、不快極まる金属音が、鼓膜をガリガリと掻き毟る。
そして見えた。右目を開きかけたユディートへと放たれた、膨大な熱量を孕む、ひと抱えほどの小さな太陽が。
床に仰向けたまま、ユディートの無事を祈るしかない俺のすぐそばで、男の掠れた笑いが聞こえた。押し殺した狂喜を含む、レーヴェの含み笑いだ。
「ひひ、しゅ、主任の“
レーヴェの言葉も完結しないうちに、極限まで磨き上げた赤銅にも似た球体が、ユディートの息がかかるほどの距離にまで迫った。
彼女の白い頬が、額が、金属的な光沢に当てられる。得体の知れない焦げ臭さが、開け放たれた戸口から漂ってくるようだ。
瞼を閉じられない俺の眼球に、灼熱の邪術を前に佇むユディートの姿が焼き付けられる。
俺は、何物をも寄せ付けない彼女の強さを信じている。だが、それでも……。
緋色の男の歓喜の絶叫が、無情に響いた。
「砕け散れ!!」
応えるように、ユディートがおもむろに顔を上げる。その白金色に染められた彼女の右目が、静かに見開かれた。
その瞬間、入り乱れた驚嘆と畏怖とに囚われて、俺は失われたはずの息を詰まらせた。