四.審問 十六
文字数 4,193文字
正気を失って喚き散らす、魔術師レーヴェ。その腫れてくっつき合ったままの両手には、まだ緑色の光が残っている。妖火を操るこの男の呪文は、まだ生きているようだ。
視力の戻りつつある俺の眼球に映るのは、倉庫の夜闇に漂う、無数の光の粉。不規則に濃淡のあるその煙る光は、さしずめ真っ暗な廃屋に掛かる蜘蛛の巣か、立ち込める狭霧というところだろうか。この光の粉こそ、レーヴェの魔術が続いていることの証拠に他ならない。
ぎちぎちと頸椎を振り、腕のなくなった左右の肩甲骨を波打たせ、俺は昂揚する意気と緩んだ腐肉を引き締める。その間にも、靄のような怪光はレーヴェの前に集まってくる。
一つに凝集した光の粒子は、すぐに宙をぴくんぴくんと漂う青い火の玉へと形を変えた。黒いまだらの目と口もそのまま残る、火鉢の黒煙から出現した時の姿だ。しかし青い妖火は、即座にどこか穢れた緑へと変色し、再び激しく荒れ狂う竜巻へと変貌した。
めらめらと燃え上がる緑の渦炎が、死の祝福に護られたカイファへ向けて、猛然と突進する。
……危ない!!
声にならない声を上げた俺だった。
迫りくる毒々しい火灯りと、顔を打つ熱い暴風。それまで自失の態で立ち尽くしていたカイファが、ハッと我に還った。だが緑の渦炎は、もう彼の三歩前に迫っている。避けるには間に合わず、立ったままのカイファは両手を顔に翳し、身を捩った。
……カイファ!!
大きくひん剥いた俺の目は、確かに見た。
渦炎がカイファを呑みこもうと接触しようとした寸前、紫紺の稲妻がばちんと虚空を裂いた。ばちばちと火花を散らす紫電に撃たれ、妖火の渦炎がぐねぐねと身悶えしながら、パッとカイファから退く。
しかしすぐに位置を変え、彼に触れては守護の雷撃で弾き返される。その様は、まるでどっしりと重厚に回る鋼鉄の独楽に挑む、小さな木の独楽のようだ。何度挑んでも、妖火程度の魔物では、死の太母の守護は破れまい。
そこで俺は気が付いた。
あの妖火の渦炎は、カイファを殺すように命じられている。その目的を果たすまで、妖火はカイファを追い続けるだろう。どれだけ弾き返されても、倦むことなく、執拗に。
恐らく、妖火の知能は高くはない。だが喚んだ者から受けた命令は、何があっても最後まで忠実に果たすのだ。
そう考えて、俺はもう一度倉庫の中をぐるりと見渡す。
星明りが差す天井の大穴。ひっくり返った火鉢。壁際へと押し遣られた拷問台。そして、ぽつんと投げ出された棘だらけの拷問椅子……。
俺の腐った脳裏に、腐り切った奸計が浮かぶ。妖火を追い払う、つまりは魔術師レーヴェを葬り去るための戦術が。
ごそごそと体を揺すり、俺はベルトを無理やりに緩めた。同時に、俺の背後でぼとり、と音が響く。だがその音は、妖火がカイファに弾かれる紫電にかき消され、レーヴェには届かなかったようだ。
ほっと安堵しつつ、俺はブーツ履きの両足を駆使し、ベルトから床へと落としたナイフから鞘を外す。そして俺は、抜き身のナイフを片足で踏ん付けたまま、立つ位置をずりずりとずらしてゆく。
目当ての場所は、暴風が倉庫の中央辺りへ移動させた道具の側だ。冷たく照らされる不吉な調度に異常がない事を確かめて、俺はナイフを踏みしめたまま、その道具の正面に立つ。
仕込みを終えた俺は、カイファの方へと眼球を向けた。
俺の十歩先に、魔術師レーヴェの背中が見える。そこからさらに十数歩隔た位置には、白い光の手に護られたカイファと、彼にまとわりつく妖火の渦炎がいる。
俺とレーヴェとカイファ。三人が一直線に並んだのを見て取り、俺はカイファに向かって背伸びしつつ、思いっきり眼球を剥き出した。呼びかけられる声と、大きく振れる腕。その両方を失った俺に取れる、最大の表現がこれだった。
しかしこんな心もとない手段でも、カイファの視線が俺の眼球を捉えた。気付いてくれたようだ。
そこで俺は大げさな身振りで、頸椎をくいくいと斜め上の方へと何度も動かす。
俺の意図が、カイファに通じるか……?
カイファの表情が変わった。眼鏡の奥から俺を見据え、口元をキッと結んだ彼が、こくりとうなずく。そして彼は、おもむろに踏み出した。俺の方、つまり魔術師レーヴェに向かって、まとわりつく妖火を引き連れたまま。
俺の意図どおりに動いてくれたカイファ。間違いなく通じている。
近付いてくるカイファ、いや、迫ってくる妖火を見て、レーヴェが悲鳴を上げた。
「くっ、来るなぁっ!! こっちへ来るんじゃないっっ!!」
視線をカイファと妖火に釘付けたまま、色を失って、おたおたと後ずさってくるレーヴェ。
俺の読みのままだ。レーヴェの反応も、その動きも。
正気も冷静さも失った魔術師レーヴェの哀れな姿。印の形に固着した両手を無意味に振り回し、危うく不確かな足取りで、レーヴェは背中から俺の方へと向かってくる。
その歩数を数えて待ち構える俺に、この男はまだ気付かない。レーヴェにあるだけの注意も意識も、全ては自分に向かってくるカイファと妖火に集中している。
「ひっ、ひいぃぃぃ……!!」
背中から悲鳴を上げたレーヴェが、よたよたと一歩、また一歩と俺の方へと後ろ向きに逃れてくる。
そして十秒。
レーヴェの後頭部が目の前に迫った瞬間、俺はぎちっと膝を折り曲げ、床に身を屈めた。
「あ」
ひと声あげたレーヴェのかかとが、俺の体に引っ掛かる。
後ろ向きに蹴躓き、そのまま姿勢の崩れたレーヴェの砕けた腰と背中が、俺の後ろに置かれていた調度の上へと落ち込んだ。
ぐさり、そんな気色の悪い音が、俺の後ろから聞こえてきた。刹那、総身の毛もよだつ絶叫が、レーヴェの口からほとばしる。
俺は床に腹這い、踏み付けていた短剣の柄に齧りつく。あらん限りの力で柄を噛み締めたまま、あり得ない素早さで片膝を立てた。そしてすっくと身を起こして立ち上がり、ゆらりと背後のレーヴェへ向き返る。
無数の棘が植え付けられた拷問椅子と、その上に深く腰掛けた魔術師レーヴェ。彼の太腿も尻も背中も、無数の棘に根元まで串刺しにされている。刺し傷からじわじわと流れる血が、拷問椅子の脚を伝って床を赤黒く染めてゆく。
白目を剥き、小刻みに震える魔術師のだらしなく開いた口からは、こぽこぽとあぶくが噴き、血の混じった赤い涎がとめどなく滴る。
惨たらしいレーヴェの姿を前にして、しかし俺の心は、霜の降りた墓標のように冷厳として、微塵も揺らがない。
今までレーヴェたちが、どれだけの人々をこの椅子に座らせてきたのか、俺は知らないし、知りたくもない。だがエステルとハーネマンを座らせるつもりが、自分が座って果てていれば、世話はない。因果応報とはこのことだ。
俺は大きく体を斜めに仰け反らせた。眼球だけを哀れなレーヴェに注いだまま、短剣を銜えた頭を天へと向ける。
……終わりだ。
俺は渾身の力を込めて、レーヴェへ向けて首を振り下ろす。歯の間からすり抜けた短剣が、過たずにレーヴェの胸板を捉え、投身の根元まで深々と刺さり込んだ。
その
「は……」
レーヴェの泡を噴く口から洩れたのは、息とも声ともつかない、かすかな音だった。同時に血みどろの拷問椅子に預けた体は、弛緩したのかほんのわずかに沈み込み、動きの全てを止めた。呼吸も鼓動も、それに半ば閉じられた虚ろな視線が向く先も……。
……殺ったか。
魔術師レーヴェの絶命を確信した俺の内に、ふと薄い陰が差す。
軍人だった頃に幾度となく味わった、人を殺した時の言い知れない後味も、生き延びたという甘い実感も、今の俺には湧いてはこない。苦いため息も、乱れては緩む胸の鼓動も、今の俺にはないのだから。そして、敵とはいえ全力で散ったレーヴェに敬礼を手向ける両腕も……。
そういう人間らしい感情が嫌になったことも、一度や二度ではない。 だが、そんな感情からも見放された屍者になり果てた今の俺には、それさえ眩しく思えてくる。
……我ながら、勝手なものだ。
黄昏れた俺の背に、誰かの手が触れた。振り向くと、まだ肩を粗く上下させるカイファだった。
「トバル隊長……」
胸に紫に光るユディートの祝福の証を浮かび上がらせた彼が、複雑な表情で俺を見ている。その翡翠の目が帯びるのは、哀しさ、心苦しさ、それに感謝とが綯い交ぜの潤んだ光だ。彼の前で人を惨殺した非難や嫌悪の想いが、カイファの顔や態度には一切見て取れない。
彼が漂わせる感謝と労りの雰囲気。それがレーヴェを殺した俺にとっての、唯一の慰めだった。
カイファとうなずき合った俺の鼓膜に、がりがりという奇怪な音が齧りついてきた。
ハッと向き直ると、数歩離れた場所で静止した妖火の竜巻が、ぱりぱりと真紅の火花を散らしている。
レーヴェが拷問椅子に掛かった時点で、妖火はその場で止まっていたようだ。けたたましい人外の哄笑を上げながら、緑の渦炎は丸い提灯のように膨れ上がってくる。
妖火の変容を目の当たりにする俺の中に、召喚された魔物の噂話が蘇る。
召喚者が死ぬと、呼んだ魔物はその支配から解かれる。だが言い換えるなら、それ魔物を抑える者が居なくなったことを意味する。魔物はもともと自分がいた領域へ還る前に、邪魔になる自分の体を分解して爆散させる、そんな噂だった。
俺の傷み切った背中が、ぞわぞわと委縮する。
……これは爆発する!! 早くしないと……!!
俺とカイファは鋭く視線を交わした。その間にも、レーヴェの支配を逃れた妖火は、むくむくと大きさを増してゆく。
俺たちは、そんな妖火をぐるりと避けて、とうにカイファが鍵を開けていた特別保管室へと急いだ。そして開け放たれた鋼鉄の戸口へ跳び込むなり、カイファが恋人に向かって呼びかける。
「エステル! もう大丈夫! ハーネマン先生も、急いでここを……!」