五.贖罪の行方 九
文字数 4,450文字
まさに俺の頭を鼻先から両断するかと見えた、その刹那だった。
俺の顔に黒い影が差したかと思うと、すぱん、とコルクでも切られるような、軽く不吉な音が響いた。
俺の視界を覆っていた影が、ふらふらと俺から離れてゆく。それが何なのか、はっきり分かった俺は、驚きに眼球を剥いた。
魔獣アメットだ。
黒髪の頭頂から兎の脚が生えた股間まで、真っ二つに一閃された復讐の代行者にして、公平な裁きの主催たる、古代の魔物。
何故、俺を守ったのか……?
疑問と負い目に、眩暈さえ覚える。そんな俺の発酵し切った脳内に、文字が並んだ。
共通文字だが、古めかしく厳めしい言葉だ。
――赦されたる者は、害され得ぬべし。是非に及ばず――
その身を右と左に両断されながら、アメットの体はだんだんと色を失い、元の小さな彫像へと戻っていく。
そして見えた。無機物へと還る魔獣の双身の間から、傲然と屹立する巨躯の戦士が。手入れの余りよくない大剣を無造作に提げた、奇妙な大男。
だが漂う濃厚な殺意と、射すくめるような憎悪の視線は、戦士のものではない。その背後に半身隠れた女屍師パペッタこそが、ひたすら邪視と邪念を俺に注ぐ敵なのだ。
そのパペッタの両手が、ハープを弾くかのように妖しく蠢いた。同時に、彼女の十本の指から伸びた銀の糸が煌めき、白い巨躯の戦士が無骨な大剣を構える。
よくよく見れば、剣士の体は無数の白骨から作られている。
倒壊した
文字どおり、巨骨の傀儡(くぐつ)の糸を曳く、女屍師パペッタ。その両手が、舞うように動いた。
白骨の傀儡の腕が大きく振られ、大剣が宙を薙ぐ。ぎんっ、と金属が唸り、光の刃が刀身から放たれた。なす術のない俺に、二撃目の白い斬波が猛然と迫りくる。
閉じる瞼さえない俺の目に、傀儡の放った光刃が映し出された刹那、俺の頭はサッと抱え上げられた。
……ああ、ユディートだ!
寸でのところで俺を小脇に抱え、傀儡の放った光の白刃からひらりと身をかわした聖騎士の少女。首だけの俺を左手に抱いたまま、踊るような動作で骨の戦士を操るパペッタを凝視する。
「ねえ、ちょっとどういうつもりかなあ? トバルくんの贖罪は終わってるはずなんだけど。自分で喚んだアメットまで、自分で始末して。キミの狙い、本当は何? トバルくんの浄罪をそこまで認めないのは、どうしてかなあ?」
しかしパペッタは答えない。ガラスの目に無言の怒りを溜め込む女屍師が、両手の指先に摘んだ操り糸を大きく動かす。
主の動きに応じ、ユディートの倍近くはありそうな骨の戦士人形が、大剣を片手で振り上げた。
ユディートが小さくため息をつく。
「公平じゃないなあ、パペッタは。仕方がないねえ……」
ユディートの不満そうなつぶやきも終わらないうちに、傀儡の大剣が宙を斬った。耳を衝く金属音が聞こえ、生み出された光刃が猛然と床を滑ってくる。あのアメットを両断した光の斬首刀だ。まともに食らえば、恐らく即死は免れまい。
だがユディートの余裕は全く崩れない。自分の能力と“
左手で俺を小脇に抱え、背中の弓鋸の柄を右手で握ったまま、ユディートがするりと身を反す。たんっ、と床を蹴った彼女の体が、横向きにくるりと鮮やかな円を描いた。抱えられた俺の視界も、ぐるんと周回する。
すらりとした両脚だけで側転した聖騎士の背面を、光刃が空しく通り過ぎてゆく。
素晴らしくも美しい身のこなし。さすが、ユディートだ。
「あっ!?」
傀儡の背後から糸を操るパペッタが、初めて焦りの声を上げた。女屍師の腕の動きが激しくなり、それに反応した巨骨の大剣が、むやみに振り回される。
ぶんっぶんっと、重く風を切り巻く巨大な刀身が幾つもの光の刃を作り出し、ユディートめがけて続けざまに放たれた。
とん、と着地したユディートが、それでもにんまりと笑う。
両手が塞がった不利な状態のまま、ユディートは疾走してくる斬首刀の群れを脚だけの側転の連発で掻い潜り、大剣を振り回す傀儡との距離を着実に狭めてゆく。
ユディートが美麗な側転を決めるたびに、俺の眼球もぐるりと天地がひっくり返る。そんな不安定な俺の視界だが、彼女が人骨の傀儡に近付くにつれ、その太刀筋と特徴がだんだんと見えてくる。
大きく開いた間合いから光刃を放つ剣技、それに剛腕の威力は、脅威としか言いようがない。
だが落ち着いて観察してみれば、大剣を一閃するごとに、その足元が微妙にふらつくのが分かる。この傀儡は、上半身の打撃しか考慮されておらず、それを支える下半身の安定が
巨像の弱点は、まさにそこにある。
人骨の傀儡を創り上げたパペッタは、魔術については途方もない力量の持ち主なのは間違いない。だが人と人とが刃を交わすに実戦に関しては、ほぼ素人だと断言できる。
ユディートのふふーん、という甘ったるい笑いが聞こえてきた。
光刃を乱発する傀儡を見据えつつ、彼女がつぶやくように言う。
「ありがとう、トバルくん。キミの見立て、よく分かったよ」
俺の分析は、思念波を通してユディートにしっかり伝わっていたようだ。何だか頬が熱くなった気がした俺だった。柄にもない……
そんな想いの揺れまで察したか、ユディートが、ふふっと柔らかく笑った。
「それじゃあ、そろそろ全ての幕を下ろしに行こうか、トバルくん」
すぐに彼女の顔から感情は消え、あの冷厳な仕事師の面差しへと変わった。
間断なく襲い来る光刃を脚だけの側転で軽くよけながら、ユディートが傀儡へと肉薄してゆく。
見上げるような傀儡まで、あと三歩。この距離は、巨像が翳す大剣の間合いの内側だ。
それを見て取ったパペッタが、傀儡の背後から叫んだ。
「斬り捨てなさい!!」
そんな金切り声の指示を飛ばしつつ、パペッタが両手に掴んだ銀糸をくいくいと引く。
この至近距離では、さしもの巨像も自慢の斬波を放つことはままならない。すぐに大きく上体を捻ったかと思うと、ユディート目掛けて鈍い大剣を横一閃に斬り払う。
しかし微塵の動揺さえ窺わせず、彼女はスッと腰を落とす。錆の浮いた大剣が、ユディートの黒髪の先を、ぶんっ、と掠めた。
次の瞬間、再びスッと背を延ばしたユディート。
何を思ったか、頭だけの俺を両手で掴むと、急いで傀儡の操り糸を手繰るパペッタに、素っ気ない声を掛けた。
「ねえ、パペッタ? ほらっ」
そう口にするが早いか、ユディートが俺をパペッタに向かってぽいっ、と放り投げる。
ああ!? この小悪魔、一体何を……!?
焦りに焦りながらも、鮮やかな放物線を描き、くるくるとパペッタの方へと投げ渡される俺。
だがそれ以上に狼狽えたのは、パペッタの方だった。
「えっ!? あっ!!」
ユディートの奇行は、さすがの女屍師も予想していなかったのだろう。パペッタの両手が、自分の方へと飛んでくる俺の頭へと、反射的に延ばされた。
女屍師の注意は全て俺へと逸らされ、傀儡を操る手が留守になる。白骨の巨像も、大剣を振り切った不安定な姿勢のまま、全ての動作が一瞬停止した。
パペッタが、ぱしっと俺の頭を受け止める。それもごく自然な、全く意識しない動作で。
不意に名前を呼ばれたことで、パペッタの意識は向かってくる俺の頭にだけ集中したのだ。
ユディートの左目が、きらりと煌めいた。
女屍師と傀儡の隙を耽々と狙っていた彼女が、背中の弓鋸“
わずかに身を屈めたユディートが、背中を丸め、脚を縮めた姿勢のまま、左手で傀儡の骨盤に飛びついた。
巨像の股間の骨を片手でグッと握り、骨盤にぶら下がった彼女は、振り子のように、するりと傀儡の脚の間を潜り抜ける。
と、その瞬間、ぴしっと乾いた音がかすかに響き、ユディートの弓鋸は、傀儡の両足首を過たずに切断した。
さすがのユディートの剣技だ。
ぐらりと前のめりに傾く、白骨の傀儡。その巨躯の背面から伸びた銀糸が、ぴんっ、と真っ直ぐに引き延ばされた。操り糸の先は、頭だけの俺を受け止めたパペッタの指先につながっている。
その恐ろしい事態に気付いたのか、パペッタが悲鳴に近い叫びを上げた。
「ああっ!!」
だが、もう遅い。
前向きに倒れる傀儡に引っ張られ、パペッタの両手がびんっ、と無防備に前へと伸ばされた。その反動が、頭だけの俺をパペッタの手から引き剥がし、くるくると真上へと弾き飛ばす。
空中で回り続ける俺の視界の中に、傀儡の股の下から背後へと回ったユディートの姿が映った。
と、その刹那、俺の目にプラチナシルバーの閃きが走り、パペッタの指と傀儡をつなぐ操り糸がぷつん、と全て断ち切られた。一筋と残さずに。
ずしん、と倒れ、完全に動きを止めた人骨の傀儡。
ふらふらと二、三歩退き、その場にへたり込む黒衣のパペッタ。
その女屍師の喉元に、キッと弓鋸を突き付けて立つ、聖騎士の少女ユディート。
そして落下に転じた頭だけの俺は、うなだれるパペッタを見下ろしたまま、スッと軽く持ち上げたユディートの左手の上に、すとんと収まった。
何から何まで、完璧な計算だ。腐った舌を巻くより他はない。
俺の無言の賞賛が届いたのか、ユディートがにんまりと笑う。
「ねえ、パペッタ。これで終幕、ってことで、いいかな?」
息の乱れも心の動揺も、全く感じさせないユディート。女聖騎士の凛とした佇まいを目の当たりにして、座り込んだままのパペッタが、ため息にも似た仕草を見せた。
「……私の負けね」
ぽつりと洩らし、女屍師が両手で顔を覆う。白くて滑らかで、不自然な光沢のある手だ。
「カルヴァリオ隊長の贖罪、成就したことを認めるわ。認めたくはないけれど……」
ユディートが俺を小脇に抱え直し、弓鋸を背中の鞘にするりと収めた。細めた左目をじっと床の上のパペッタに注ぎ、静かに問う。
「ねえ、キミがトバルくんの贖罪を頑なに認めないのは、どうして? 何か深い理由があると思うんだけど、どうかな……?」
「それは……」
パペッタがわずかに顔を上げた。
「カルヴァリオ隊長は、私からとても大切な物を奪っておきながら、今の今まで知らない振りを決め込んでいたからよ。そう、私にとって、かけがえのなかったものを……」