五.贖罪の行方 十一
文字数 4,512文字
左右の壁に、ちろちろと赤い炎の舌が揺らめく。
「こちらへ……」
俺たちの前に佇む後ろ姿のパペッタが、振り向くこともなく短く告げた。おもむろに回廊を歩き始めた女屍師を追って、俺を小脇に抱えたユディートも、足を踏み出す。
点々と灯る赤い灯火を浴びながら、俺とユディートは、パペッタに着いて奥へと進む。このパペッタが導く先に、ここまで俺が求めてきた、俺の本当の体があるのだろう。ついに、俺の『贖罪の旅』が終わる時が来たのだ。
それなのに、この虚無感は一体何なのだ?
ユディート、リベカ、マイスタ、エステル、カイファ、それに大勢の人に助けられ、やっとの思いで、俺はこの
そして失われた百人の仲間の力を借りて、俺に贖罪を課した女屍師パペッタから、生きた体を取り戻そうとしているというのに……。
達成感も喜びも、欠片ほどの安堵感さえ、俺の内には湧いてこないのだ。代わりに込み上げてくる、不安と虚しさ、それに寂しさと悲しさ。
それもこの回廊を進み、一歩また一歩と俺の体に近付くにつれて、俺の中の割り切れない思いばかりが、やり切れないほどに膨れ上がってくる。
やるせなく戦慄く俺を、ユディートがそっと胸元に抱き直す。
俺のどうしようもない苦しさが、思念波を通して彼女にも伝わっていたのだろう。両腕で強く抱きしめられた俺に、わずかばかりの嬉しさがじわじわと広がってくる。だがそれも、熾った炭火に投げ込むひと匙のラム酒のようなものに過ぎない。
やがて、前を行くパペッタが足を停めた。初めて振り返り、女屍師がガラス玉の両目を俺へと向けてくる。
「どうぞ、お入りなさい」
キッ、とわずかな軋みが聞こえ、目の前の闇をスッと青白い光が縦に一閃した。その光はゆっくりと左右に広がり、すぐに開け放たれた戸口へと姿を変える。
小さくうなずいたユディート。
苦悩する俺を抱いたまま、聖騎士の少女が戸口をくぐった。戸口の内側に入るなり、彼女の脚が止まった。同時に、俺の剥き出しの眼球も、さらに見開かれる。
古い伝説に語られる墓室を思わせる、八角形の部屋。
扉や窓は見当たらない。奥行きは二十歩ばかりだろうか。かなり広い部屋だ。壁も床も磨き上げられた水晶のように、厳かに光り輝く。
その落ち着いた透明な光は、天井から降り注ぐ。だが天井は計り知れないほど高く、光源は見て取れない。部屋というよりは、奈落の竪穴の底、のような印象が強く漂う。
聖騎士の少女と女屍師が逆さに映る床には、不思議な魔法円が刻み込まれている。
そして、その大きな円の中心に、横たえられた、一人の裸の男。筋肉質の全身を無数の傷に覆われた、三十路絡みの男だ。焦げ茶色の髪、剛情そうで、それでいてどこか皮肉っぽい顔。目を閉じ、まばらに髭の伸びたその顔、俺は決して忘れ得ない。
くふふっ、と笑いを洩らしたのは、ユディートだった。
小脇に抱えられたまま、ちらりと彼女の顔を上目に窺うと、何を考えているのか、にんまりと笑っている。
「これが、本物のトバルくんなんだね? なかなかいい顔してるじゃない」
こくこくと小さくうなずく、小悪魔ユディート。
「確かに偉大な戦士の相だよね、トバルくんの顔は。うん、百人の軍団を最後まで率いた、っていうのも、分かる顔だよ」
心なしか、頬を赤く染めたように見えるユディートが、俺をそっと床に置いた。そして幾度も耳にした呪文を唱え、彼女は両手の指で四角いアングルを作る。
薄桃色の膜が張った手指の小窓から、俺と横たわる体を覗き込み、ユディートは、ふふっと笑う。
「“
聖騎士の左目が、すうっと細められた。
「……間違いない。その体が、トバルくんの本当の体だよ」
よくよく見れば、俺の胸板はゆっくりと上下を繰り返している。死んではいないようだ。
ユディートが、傍らに佇む女屍師パペッタに視線を注いだ。
「さあ、それじゃあトバルくんの魂、元の体に戻してもらえるかな?」
「いいでしょう。約束は守ります」
無感情な返答とともに、軽くうなずいた女屍師。
俺の知らない言葉で聞いたことのない呪文を口ずさみ、パペッタが右手を頭上に掲げた。全身から、何かどす黒い気がゆらゆらと立ち昇り、ガラスの両目が奇怪な蛍光を宿す。
彼女の人差し指と中指、それに親指が、怪しい薔薇色の光を帯びている。邪術で光らせたその三本の指は、血に塗れた猛禽の鋭利な爪のようだ。
この圧倒的な存在感と、揺るぎない害意。間違いない。パペッタのこの姿は、蘇った記憶の中に黒々と灼き付けられている。
あのマルーグ峠の惨劇、そしてケルヌンノスの焼失からの逃避の日々の果てに、俺の前に立ち現れた黒い影。
その光る爪の一撃で、俺の魂は体から抉り抜かれたのだ。
パペッタが、俺に左手を向けてきた。その掌から放たれる見えない力が、頭だけの俺を床から押し上げる。ゆるゆると胸の辺りの高さにまで持ち上げられた俺を、正面に立つパペッタが正視した。
「……いくわね」
どこまでも無機的を装った女屍師の言葉が聞こえた刹那、風が唸り、俺の眼球に三条の三日月が閃く。同時に落雷を遥かに超えた衝撃が俺を襲い、この身が粉々に砕け散るのを確かに感じ取った。
そんな途轍もない苦痛は一瞬で消え去り、ふわふわとした奇妙な心地よさが、俺を包みこむ。
手を下ろした女屍師パペッタ、それに佇んだままじっと俺を見守る聖騎士ユディート。だがその姿や息遣いは、眼球や鼓膜を通して見たり聞いたりしたものではない。肉の感覚器を通さずに、何かこう、“そのように感じている”ものだ。
つまり、俺は屍者の体も全て失って、もう魂だけの存在になったということに他ならない。しかし今の俺が死人と決定的に違うのは、俺にはまだ還るべき体がある、ということだ。
――還るべき――
その一言が、わずかな俺の安堵と歓喜を、瞬時に打ち砕く。
還るべき体がここにあったとして、俺の還るべき“場所”は、どこにあるというのだろう?
ケルヌンノスの街は既になく、俺の家族とでもいうべき百人の山岳猟兵たちも、もうこの世の者ではない。それも全ては俺の不甲斐なさから生じた罪業なのだ。
他の誰が赦したとしても、贖罪の成就を認めたとしても、結局は俺自身が、今のこの生にある限り、本当の意味で俺を赦すことは、最期まであり得ないだろう。
そんな昏い想いが隅々まで浸透した俺を、不意に凄まじい衝撃が襲った。例えるなら、数十階建ての塔から地表へ向けて、巨大な投石帯で叩きつけられたような気分だ。
しかし次の瞬間、何かにぶつけられてぺしゃんこに潰れた俺は、ばうん、とその何かに跳ね返された。
続けて感じ取れたのは、パペッタの緊迫した声だった。
「……魂が戻らない!?」
「えっ!? どうして!?」
ユディートの驚きに満ちた問いに、パペッタの焦りと不審の言葉が短く返される。
「霊魂が拒否しているのだわ。元の体に還るのを……!」
水晶の壁面に映った、虚空を漂う金色の小さな光球。どうやら、それが魂だけになった俺らしい。
その俺に、ユディートが手を差し伸べてくる。
「トバルくん……」
霊魂の俺を、細めた左目で見つめるユディート。眉根を切なげに寄せ、漆黒の瞳が水面のように揺らめいている。哀しさと淋しさ、それに非難めいた色が、彼女の眼差しに渦巻く。
こんなユディートの表情は、初めてだ。
苦しげで、憐れみつつも咎めるような棘を含む、蠱惑の眼差し。
ああ、ユディート。そんな目で俺を見ないでくれ……。
心の底で嗚咽する俺に、悲母のような面差しのユディートが首を横に振る。
「キミの抱える重圧が苦しいのは分かってる。あたしも、何とかしてあげたい。でも、やっぱりムリなの。自分で決めてきた第二の誕生日を変えることは……」
深く沈んだ吐息を洩らし、ユディートが腰の辺りから銀色の円盤を取り出した。
聖具“
彼女はパチッと開いた羅殯盤を、漂う霊魂の俺へと向けた。銀の円盤の上に浮き、くるくると回る銀箔の羽根。だが、すぐに静止したその羽根の軸が指し示したのは、他でもない、霊魂となった俺だった。
「ええっ!?」
ユディートが上げた、狼狽の裏声。俺が初めて聞く、ユディートの慌て声だ。
「ちょっと、どういうこと!? さっきまで、誰も指し示さなかった羅殯盤が……」
見開いた左目で、金色の俺と、銀色の羅殯盤を何度も見比べるユディート。震える口元を片手で覆い隠し、彼女が呻く。
「生まれる前に自分で決めた第二の誕生日を変えられるのは、ひいひいひい……おばあさまへ願いの届いた者で、それに
ユディートがハッと顔を上げた。その不審げな視線は、どこか虚空の一点を見据えている。
彼女の疑念と、俺の推測が同調した。
……そうだ。きっとそうだ。
これは、あの……
俺の内側に浮かんだ言葉が、驚きを隠せない彼女の唇からも洩れて出る。
「ゼテス!? まさか、あの子が……!」
”
俺とユディートを久遠庵まで運んでくれた、
元来た世界へと還るゼテスが、去り際に俺の中から探っていった苦悩と願いを、死の太母に伝えてくれたのに違いない。そして死の太母は、ゼテスの伝えるままに、俺への慈悲を垂れたのだろう。
深いため息とともに、ユディートの華奢な両肩が、がくりと力を落とした。伏しがちな彼女の左の瞳に映るのは、幾つもの色が綯い交ぜられた、複雑な微笑。哀しさ、労り、わずかな非難と、それに諦念……。
ユディートは、俺が本来の体を得て、力強く生きていくことを望んでいたのかも知れない。だが俺に彼女の期待に応えられる器は、なかったのだ。
彼女の期待を全て裏切ってしまった、そんな後ろめたさと悲しみが、俺の中に深く濃い影を落とす。
それでも、俺を見つめるユディートが静かに微笑む。それはまさに、過ちを犯した息子を見つめる母親の、深く広く、温かな笑みだ。
「キミは、何もあたしの想いなんて裏切ってないよ、トバルくん」
ふふっと小さく笑い、彼女が俺に向かってこくりとうなずく。
「キミはここまで、本当によく頑張ったよ、トバルくん。恐れにも、それに自分にも負けないで。でも、もうさすがに疲れちゃったんだね」
ユディートが滲んだ左目を伏せた。微かに震える唇から、聖騎士の少女が職務に准じた言葉を綴る。
「第二の誕生日、おめでとう。あたしが、ユーデットひいひいひい……おばあさまの許へ、送り届けてあげるから……」