二.花街の少女 七
文字数 5,001文字
その途端に、目の前で胡坐の少女、聖騎士のユディートから怒りの声が飛ぶ。
「ほらそこ、よそ見しない! ちゃんと真面目に聞く!」
そして俺はびくんと顔を上げ、不機嫌なユディートへと視線を戻す。
ユディートが延々と続くお説教を始めて、三時間あまり。うんざりした俺がうつむくたびに、彼女は俺に鋭く突っ込む。そんなやり取りを、俺とユディートはもう幾度となく繰り返している。
よく飽きないものだ。
生に対する死の優越、それにこの世の男の身勝手さについて、何時間も似たような話を聞かされ、同じやり取りをもう十数回も繰り返した俺とユディート。
俺の方はもう呆れたを通り越して忍耐の限界だが、彼女の方は全く集中が途切れない。
そう言えば、“
俺の乾きかけた眼球が下を向き、ユディートの左目が睨むような半眼になったとき、どこかで重厚な鐘が鳴り響くのが聞こえてきた。恐らく正午の鐘だ。
もうあと少し辛抱すれば、女医ハーネマンがここへ現れる。そうなれば、このユディートのお説教だかご教説だかからも、解放されるだろう。
そう考えた次の瞬間には、ユディートの不機嫌な言葉が容赦なく俺の耳に突き刺さった。
「ねえキミ、もしかしてあたしの話がもう終わると思ってたりする……?」
低く抑えた声で、念を押してきたユディート。とんでもない勘の鋭さ。冴え冴えとした上目遣いの左目が、恐ろしくも蠱惑的だ。
「ちょっとキミ聞きなさい! ”
苛立たしげなユディートの言葉も終わらないうちに、開け放たれたままになっていた聖廟の出入口から女の声が聞こえてきた。聞き覚えのある、しっとりとした声だ。
「ユディートさん、いるかしら?」
「あっ、待ってたよ!」
弾んだ声を聖廟の壁に反響させて、ユディートが跳ねるように立ち上がった。
彼女の左目が見つめる先には、戸口に立つ女の姿がある。純白のローブの上から、臙脂色の外套を羽織った、年増の眼鏡美人。結い上げた赤っぽい髪に、外套と色を合わせたベレー帽を乗せている。身なりには気を使っているようだ。
「早かったね、ハーネマンさん」
ユディートが、戸口に立つハーネマンへと歩み寄ってゆく。
鴨居の下で静かに微笑む女医ハーネマン。左の肩から下げた大きな黒革のカバンが、まさに彼女の職能を物語る。その落ち着きつつ、どこか隠しきれない陰のある佇まいは、憂いを帯びた女神を思わせる。
まさに俺を拷問から救済してくれる救い主だ。
そんな思いが俺の頭に浮かんだ瞬間、ユディートの左目が俺を肩越しにじろりと睨む。思わず頸椎と脊椎とをぐきぐき鳴らし、仰け反った俺だった。
ユディートには俺の考えが聞こえるのだろうか。恐るべき勘の鋭さだ。
しかしすぐにたじろぐ俺から目を逸らし、彼女がハーネマンの腕にそっと手を添えた。
「診療室の方は大丈夫? 患者さん、いたんじゃない?」
するとハーネマンが、ふふっと柔らかに笑った。
「急患のひとはいないから大丈夫。午後からユディートさんの神殿に行くって言ったら、みなさん納得してくれたから」
そう言って、ハーネマンがカバンのがま口をパチンと開いた。立ったままの女医が中から取り出したのは、薄茶色の紙に包まれた丸いもの。鼻を転がすような甘い匂いが、ふんわりと漂ってくる。
紙包みをユディートに差し出すハーネマンの微笑に、ふと陰が差した。
「今日のお母さんから。ユディートさんへのお礼だって」
「そんなの気にしなくていいのに。あたしの役目なんだから」
ユディートの顔が、切なげに綻ぶ。黒い目をわずかに細めて、彼女が受け取った紙包みを開いた。中から出てきたのは、赤い林檎だ。磨かれていない林檎は、どこか靄った風合いを見せている。しかし手を加えていないその素朴さが、却ってその林檎を贈る気持ちの純粋さを伝えてくる。
「あたしの好物なんだよね、林檎。みんな知っててくれて……」
「ユディートさんは、母になれなかったひとたちの心の支えだから。産めなかった子が、いつかもう一度、この世に戻って来られるって」
しんみりとした言葉の空隙が、聖廟を覆う。
俺も胸郭の中に重苦しい閊えができたような気がして、うなだれかけた。
だがすぐにハーネマンの気丈な声が響いた。
「それで、あのひとの様子は?」
「ああ、屍者くんね」
しゃりっと爽やかな音を立てて、ユディートが林檎にかじりつく。
「そこにいるよ」
しゃりしゃりと林檎を頬張るユディートの左目が、にんまりと細められる。まるでネズミをいたぶる猫のような、嗜虐的な眼差しだ。ユディートの意味ありげながら、何か意図不明な悪意を秘めた笑みは、神経の死んだ俺の体をぞわぞわと怖気づかせる。
やっぱり得体の知れない少女だ。
「しっかり診てあげて、ハーネマンさん。それでこれからどうするか、ハーネマンさんとも相談して決めたいから」
そううそぶくユディートの横で、ハーネマンも俺を見ている。
女医は女医で、真剣そのものの眼差しを俺に注ぐ。
「分かったわ。このひと、かなり特殊な状態のようだから、医師の私に分かることは少ないかも知れないけれど、かなり興味深いのは確かね……」
カバンの中から薄い手袋を取り出しながら、女医ハーネマンが座ったままの俺の方へと寄ってくる。
「さ、楽にして下さいね……」
座り込んだ俺の前に、女医ハーネマンがゆっくりと両膝を着く。わずかに眦の下がった蒼い目が、眼鏡越しに俺を注視している。その視線には、一切の感情がない。仕事に徹する、いわば職人の眼差しだ。
繊細な両手に手袋をはめ、鼻から下を白い布に覆ってから、ハーネマンが目深に被ったフードへと手を延ばす。
そっとフードをめくりあげ、後頭部へと脱がし遣った女医。俺が無造作に巻いた顔の布をそっと剥がしてゆく。膿んだ皮膚に貼り付いた布が、ぺりぺりと音を立てる。程なく、瞼も鼻も唇も欠け落ちた俺の死人の顔が白日に晒された。
しかし女医ハーネマンは落ち着いたものだ。眉ひとつ動かさない。
彼女の後ろから俺を眺めるユディートに至っては、薄気味悪い微笑で林檎を齧り続けている。よく食欲を失わないものだ。どういう神経をしているのだろうか。
途端に、林檎に白い歯を立てたまま、じろりと俺を睨んだユディート。俺は慌てて眼球を床に逃がす。
そんな俺の顔に、ハーネマンがそっと手を触れた。眼窩の周り、鼻孔の上下左右、それに頬と顎。いわゆる触診というやつだろう。
俺の首の左右を揉むように確かめて、女医が俺の左の手首を両手で取った。目を伏せて、じっと何かに聞き入っていた風なハーネマンが、ふっと小さく息をついた。
「……ないわ」
「やっぱり?」
細い糸巻状にまで林檎を齧り尽したユディートが、ふふーんと甘ったるく笑う。床に膝立ちのハーネマンと立ったままのユディートが、顔を見合わせている。
不審げな女医と、妙に楽しそうな聖騎士。彼女たちを見比べながら、俺は問いを吐き出す。
「何、ガ、ナイ……?」
「あっ!? しゃべった!?」
さすがに驚きの声を上げたハーネマンに、ユディートがにんまりと笑って言う。
「そう、この屍者くん、しゃべれるの。それだけじゃなくて、思考力を残してる」
いきなり真顔に戻ったユディートが、膝を屈めて俺の顔を注視した。
「ねえ、ハーネマンさんはどう思う? 診立てはどんな感じ?」
「うーん、そうね……」
冷静さを取り戻したハーネマンも、俺をじっと見ながら、真摯な口調でユディートに答える。
「脈なんか、なくて当然ね。私の検死の経験では、やっぱり死後一か月半程度。まだ原形は保っているけれど、あと一か月もすれば、股関節と上腕の関節は外れてしまうかも」
淡々と俺の死に具合を語る女医ハーネマン。
「年齢は三十代くらいの男性。
彼女が俺のマントをめくり、汚らしくべたついた胸に右の掌をあてた。
「心機能は停止中。肺機能も失われてる。でも話せるし、一応横隔膜の機能は残ってるみたい。それでも生体機能はほとんどなくなってるから、”死体”とみなして間違いないわ。外傷はなさそうだから、死因は窒息死または中毒死。目立った病巣もなさそうだから、病死じゃないわね。でも……」
ハーネマンの眼鏡の奥で、蒼い瞳に困惑の影が広がってくる。
「このひとの眼球は、きちんと機能していて、死んでないの。これは死人の目じゃない。これ以上は医術の領分を超えるから、私に分かるのはここまで。ここから先は、ユディートさんたち“
「そうだよね。うん、そう思う」
ここまで黙っていたユディートが、小さくうなずいた。左の目を細め、ユディートが俺を手招きする。
「さあ、立ってもらえる? 屍者くん……」
もちろん選択肢はない。
俺は肋骨の内側に、ため息の雰囲気を溜め込んだ。座っているうちに固まりかけた関節をぽきぽきと伸ばし、俺はぎこちなく立ち上がる。
その俺の正面に、ユディートが立った。不敵で曖昧な笑みを浮かべ、この聖騎士の少女は俺を見つめる。
左目が細くなり、口角が上がってきた。ユディートのにんまりとした薄笑い。
ここまで笑顔が怖く思える少女も、そうそういないだろう。
と思いかけて、俺は慌てて思考を閉じる。
へへっと声を洩らしたユディートが、芯だけの林檎を横向きに咥えた。そんな状態のまま、彼女は両手の人差し指と親指で矩形を形作ると、そのアングルの中に俺の顔を捉える。
ユディートが指で作った四角形越しに見える左目が、大きく見開かれた。そして林檎を咥えたままの唇で、何かふにゃふにゃと詠唱を始めた。
こんないい加減なことでいいのか、と疑う俺の目の前で、彼女が指で作った矩形の中に、薄桃色の光の膜が張った。
同時に、その手を横からのぞき込んでいたハーネマンが、あっと小さな声を上げた。
ユディートの左目が、細くほくそ笑む。
「やっふぁりね」
俺の体に何の変化もないところを見ると、何かの術を掛けた訳ではないようだ。
女医ハーネマンも、ユディートの指のアングルを凝視している。その魔術の薄い膜を通して、何かが見えているのだろう。
「何、ガ、見エ、ル……?」
俺が聞くと、ユディートが指の四角を保ち、林檎の芯を咥えたままで俺に答える。
「“銀の緒(ひルわー・コーろ)”。魂ろ体をむふぶ紐が、ひミの体から外へ延びへる」
俺に瞼があれば、俺の視線も半眼になっているところだ。こんな子の行使した術が、きちんと効果を顕わすとは。ユディートの能力はよほど高いのだろうか。
さすがに見かねたのか、ハーネマンが苦笑交じりにユディートの口から林檎の芯を取り上げた。
「このひとの頭から、どこかへ銀色の糸が延びてるのは私にも見えたけれど、それはどういうことなの?」
「それはね、屍者くんの魂と元々の体が 、まだつながっているってことなの」
ユディートの左目が細くなり、漆黒の瞳に蒼い光が宿る。笑うのかと思いきや、至極真面目な表情になったユディート。その彼女が、ゆっくりと告げる。
「屍者くん。キミはね、やっぱり本当の意味で、まだ死んでいないの」
ユディートの口元が、ふっくらと不気味に綻んだ。
「ここでもう一度、あたしの最初の質問。キミを創ったのは、どこの誰? 何のために、キミを屍者にしたの? それに本当のキミは、誰なのかな……?」