五.贖罪の行方 二
文字数 4,228文字
楕円に歪んだ真紅の日輪が、西の地平へと墜ちてゆく。のしかかる宵闇に、地の底へと押し込まれてゆくかのようだ。
そんなルカニアの大地に横たわるのは、一筋の街道だ。大勢の人々が永きに亘って踏み固めてきた、黒土の広い道。
この隣国アープへと延びる街道を、一頭の黒馬が疾駆する。
手綱を執るのは、聖騎士の少女ユディート。そして頭だけの俺は、その首から下げられた布包みの中にいる。
黒い布を通しても、ユディートが駆る霊馬ゼテスの俊足さは、肌で分かる。
猛烈な速度で眼前に立ち現れては、一瞬で消え去る周囲の風景。それに今まで俺が感じたことさえない、凍れる向かい風の途方もない圧力。布に包まれていなかったら、俺の耳は千切れ飛んでしまいそうだ。
……なるほど。
『ゼテスに乗ったひとはバラバラになる』、というユディートの脅しも、あながち法螺でもないのかも知れない。しかも、これだけの速さで全力疾走しているゼテスの背は、ほとんど揺れることがない。おまけに蹄鉄の音さえもなく、疾風のような馬というよりは、むしろ風が馬の形に化けて、街道の上を滑空しているのだと思えてくる。
実際、逆風に歯向かって眼球を剥けば、ちらほらと目に付く旅人や行商人、それに冒険者どもも、黒く精悍な霊馬にも、騎乗する美しい聖騎士にも無関心だ。まるでその姿が見えていないかのように。
俺の疑問と驚嘆を読み取ったのか、手綱を握るユディートが前を注視したまま、ふふーん、と笑う。
「凄いでしょ? この子は“
そこでユディートが遥か西を望んだ。
潰れかかった赤い太陽が、平坦な稜線に接地しようとしている。
大抵の場合、城や街の門は日没とともに閉ざされる。
確かルカニアとアープの国境の門も、例外ではなかったはずだ。一抹の不安を覚えた俺に、ユディートが柔らかな口調で静かに言う。
「大丈夫。この子の脚なら、あと少しで国境まで着けるから。アープに入ったら、どこかで一緒に夜を明かそうね」
……何という蠱惑的な誘いだろう。
柄も年甲斐も、さらには頭だけの屍者という自覚さえ忘れ、つい心をざわめかせた俺。
だが、ふふーん、という甘い笑いに続いて、ユディートの心底楽しそうな声が俺に宣告した。
「今までのキミ、それにこれからのキミのこと、じっくりと教え諭してあげるから。ひいひいひい……おばあさまの名において。大丈夫。時間はたっぷりあるんだもん」
ああ、そう来たか。まあ、そうだろうな……。
『お説教』。
この光り輝く言葉が、腐った脳裏に大写しになった。そう、俺にとってはこの上ない苦行だが、ユディートが活き活きと煌めく時間でもある。
しかし隠し事ができない頭で、それ以上のことを考えるのは、危険過ぎる。彼女から中身丸見えの頭に何を思えばいいのか、途方に暮れた俺だった。
程なく、街道の前方に何か見え始めた。どうやら石で造られた壁のようだ。
ゼテスが疾駆する黒っぽい道は、ほぼ真っ直ぐにその壁まで続いている。
ユディートがゆっくりと手綱を曳いた。黒馬に制動を促しながら、彼女が小さくつぶやく。
「国境だね」
ゼテスが徐々に歩調を緩める。同時に、今まで聞こえていなかった霊馬の蹄が刻むステップが、小気味よく辺りに響く。
程なく、ゼテスはわずかに前脚を浮かせ、歩みを停めた。
途端に、国境の方から歩いて来ていた幾人かの旅人たちが、ぎょっと顔を上げた。
折しも黄昏時に近い。幽霊にでも出くわしたかのような、魂消た面持ちだ。きっと街道をゆく旅人たちの目には、黒い馬と少女が忽然と現れたように映ったことだろう。
しかしユディートは涼しい顔だ。
いつものように泰然とした表情のまま、ひらりとゼテスの鞍から飛び降りた。切れ長の左目に溢れる感謝を込めて、黒い霊馬の頬にそっと片手を添える。
「ここまでありがとう、ゼテス」
そう静かに告げたユディートに、ゼテスがぶふっ、とうなずいた。乗り手と同じく、どこか超然とした霊馬だ。だが、彼女を見る大きなゼテスの目は、至極優しく見える。
そんな悍馬の手綱を右手で曳きながら、左手を布の上からそっと俺の頭に添えた。
「それじゃあ、行こうか、トバルくん。見えてると思うけど、国境の検問はもうすぐそこだから」
そしてユディートは、宵闇の迫る街道を歩き始めた。黒土の道が続く先、どっしりと腰を据えた門構えへと向けて。
まさに閉門時間ぎりぎりなのだろう。行き交うまばらな旅人の歩調は、一様にせかせかいしている。門へと向かう旅人の表情は焦り気味、門の方から来る商人は安堵の顔だ。
そんな往来の人々は、颯爽と往く聖騎士の少女と、彼女が曳く精悍な霊馬の姿に、一瞬歩くのさえ忘れ、感嘆の視線を注いでくる。
そうして数分と経ずに、ユディートと黒馬ゼテス、それに彼女の首に下げられた布包みの俺は、ルカニアと隣国アープの境目を隔てる石の門の前へとたどり着いた。
藍色の夕闇を背負った目の前にそびえ立つのは、どっしりとした石の角柱。恐ろしく巨大で頑丈な一枚岩らしい。高さも、ユディートの背丈の三倍くらいは、優にありそうだ。その二本の柱の前には、ぱちぱちと燃える篝火の鉄籠が細い三本の脚で支えられている。
門柱の左右に続くのは、延々と延びる石の壁だ。その向こう側に広がる森林の梢が、壁の上に黒々とギザついた稜線を描く。
赤い炎が映える巨柱が支える鋼鉄の門扉は、今しも閉ざされようとしていたのだろう。
ひと一人が通れる隙間を開けて、辛うじて静止している。
この国境の門を守る兵士たちが、俺たちの周りに集まってきた。手槍を携え、鉄兜と革の鎧に身を固めた男たちだ。尖った頭頂部と鼻先まで延びた突起が特徴の兜には、百合と薔薇をあしらった優雅な紋章が刻まれている。
アープ王室の紋章。
この国境の門は、隣国アープ側が設営したものだ。当然、この門を警護する検問の兵士も、アープ勢ということになる。
だが、この検問を護る兵士たちからは、戦時特有のぴりぴりした緊迫感は感じられない。やはりルカニアとアープとの緊張状態が解かれたからだろう。ユディートと霊馬の周りに集まる兵士の眼差しも、実に緩い。右目を隠した異人の少女、それに神々しいほどの黒い霊馬を物珍しげに眺め回す。
ざわつく兵士たちの中から進み出てきたのは、壮年の兵士だ。
部隊長を表わす星を肩当に光らせて、ぐっと胸を張った兵士が、ユディートの正面に立った。
「我らがアープ王国へようこそ。見たところ、
問われたユディートも、誠実に兵士に答える。
「あたしは”
おやおや。
普段の小生意気で人を食った態度はどこへやら、こういう時はやはりそれなり振る舞えるようだ。と心に苦笑を洩らした瞬間、頭のてっぺんに何か尖った杭のような圧力が突き刺さってきた。
……おっとっと。無くなった頸椎を、ついもぞつかせた俺だった。
そんな俺に構うことなく、ユディートは泰然と続ける。
「入国の目的は、ひとに会うため。招待を受けているの。王都アリオストポリにある、久遠庵のパペッタというひとに。
「ああ、なるほど……」
部隊長の表情が微妙に変わった。
何やら痛々しい腫物を見るように眉根を寄せ、髭のある口元を難しく曲げている。これは、あからさまに関わりを避けたい顔だ。俺を屍者へと変えた、あのパペッタという
気の進まなさそうな部隊長の目線が、ゆるゆるとユディートの胸元まで下がってきた。
俺を包む布を通して、士気の低い部隊長の眼差しが、俺の視線とかち合う。だがもちろん部隊長は気付かない。
「念のために伺うが、あなたの身分を裏打ちする証票はお持ちかな?」
ユディートが腰の辺りをもぞもぞと探る。
すぐに彼女の取り出した物が、部隊長にずいと示された。彼女がその手に握っているのは、銀の細い鎖。その先端では、奇妙なペンダントがゆらゆら揺れている。
沈みゆく紅色の太陽を象ったような、不思議な紋章だ。その太陽の中心には、ユディートの右目の刻印と同じ模様が見える。
視線を上げた部隊長が、こくりとうなずいた。
「確かに“沈む日輪”は、ユーデット聖廟騎士団の紋章と聞く。それと、その胸の包みの中身は……?」
ユディートが何と答えるのか、俺の腐った頭皮の端までも、不安と緊張、それにわずかな好奇心がもぞもぞとざわめかす。
息を詰めたつもりになって待つ俺の耳に、ユディートのふふーん、という自然に甘ったるい笑いが聞こえた。
「
途端に、彼女の取り巻く兵士たちが、ざわっ、と半歩退いた。部隊長も、苦い顔で仰け反っている。
あまりに直截で、正直過ぎるユディートの答え。拍子抜けしかけた俺だったが、ハッとそこで思い留まった。
何とは言っても、得体の知れない彼女のことだ。ああ見えて、何か深い考えがあるのかも知れない。と、一瞬、何かひんやりとした怖気を感じた俺だった。
だが彼女が語ることに、俺も素直に耳を傾けてみる。
「布に包んだこの屍者の頭、パペッタに呪われた男なの。その呪いを解く方法を知っているのは、パペッタ本人だけ。知りたかったら久遠庵まで来い、というから、それに応じるところ」
俺は心の中で小さく唸る。
……なるほど、当たらずと言えど、遠からず。ユディートの言うことは、あながち間違いではない。そんな俺の耳に続けて聞こえてきたのは、彼女のねっとりとした、挑戦的な問いだった。
「それで、あたしは入国を認めてもらえるのかな? それとも呪われた屍者の顔、確かめてみたかったりする……?」