五.贖罪の行方 七
文字数 4,380文字
その脇に立つ黒衣の
「さあ、もう体の方はなくなってしまったようだけれど、頭を天秤に載せて頂けるかしら? カルヴァリオ隊長。まさかユディートさんも、拒否はしないでしょう……?」
「もちろんだよ」
ハッキリと応えたユディートが、両手を首の後ろに回し、俺を包む布を解く。そして彼女のたおやかな首から下ろした俺を、包む布ごと骨の天秤の片方へとそっと載せた。
途端に天秤の平衡は崩れ、俺が載った側の皿が、ぐぐぐ、と少し上昇する。
聞こえてきたのは、パペッタの低い含み笑いだ。恐ろしく愉しげで、酷く残酷に響く、まさに魔女の笑い、としか言いようがない。にわかに不安に陥れられ、俺の厚ぼったく傷み切った舌が縮み上がった。
……まずい気がする。
しかし、つい縋るように見上げたユディートの顔には、にんまりとした笑みが浮かぶ。いつもどおりの泰然とした、それでいてどこか挑戦的な笑顔だ。そう感じた刹那、彼女の玉の唇が、わずかに動いた。
――大丈夫だから――
それだけ告げて、ユディートが俺を覆う布をゆっくりと取り払う。裸の眼球がユディートの左目の笑みに触れたその途端、俺の内から不安の靄が消えてゆく。
と、同時に俺を載せた皿が、すうっと下降し、再び秤のつり合いが元へと戻った
骨の皿の上で露わになった俺の死体顔を前に、パペッタが無遠慮な声で嘲笑う。
「相変わらず、汚らしい顔ね。それでも私が予想していたよりは、まだ崩れていないみたい。本当、驚きだわ」
そんな罵倒にも似た言葉を俺に浴びせ、パペッタが俺を凝視する。
「では、始めましょうか……」
真鍮のベルを振るような、高く響くパペッタの宣言。そしてパペッタは、俺とは反対側の天秤の皿に、袖の中から取り出した物をことり、と置く。
ワイングラスを思わせる、透明なガラスの器だ。本体は、掌の間に包めるほどの大きさだろうか。てっぺんをすっぱり切り落とした卵の形の器を、燻し銀の一本足が支えている。形自体には、それほど奇矯な印象はない。
そんな空の器の口へ、パペッタがどこからか取り出した銀の水差しを傾けた。その細い口から器へと、透明な液体がとくんとくん、と注がれてゆく。一見、ただの水のようだが、恐らくはそんなものではないだろう。
俺の疑問を見透かしたのか、天秤に架けられた器に液体を注ぎつつ、パペッタがふふふ、と意味ありげに笑う。
「これはお産で死んだ妊婦の羊水。死霊と親和性が高いのよ……」
屍霊術を行使する女の不吉な言葉に、なくなったはずの俺の肝までもが竦み上がる。
だが骨の皿の上の俺には、もはやパペッタに抗う術はない。この女屍師のなすがままなるより、他はないのだ。ユディートの『大丈夫だから』という囁きを、堅く信じて。
パペッタが羊水の盃と、頭だけの俺が架けられた天秤からスッと離れた。両手の指を奇妙な形に組み合わせ、パペッタはぼそぼそと詠唱し始める。
禍々しく響く、邪まな誦詠。その低く奇妙な抑揚を帯びた声が、俺の不安と恐れを煽る。
女屍師の魔力を受けて、その周りを漂っていた鬼火たちが、一層色鮮やかに燃え上がる。
血の気を全て失った肌のような青。
乾き切った粘液を思わせる黄色。
腐肉の光沢にも似た緑。
燃え尽きた灰の如き白。
それに流された鮮血の赤。
そんな悍ましくも煌々と燃える数十の鬼火たちを前に、それまで黙って様子を見ていたユディートが、不意に口を開いた。
「赤紫は?」
何故かパペッタの詠唱が一瞬途切れた。
さらにユディートが平坦な口調で女屍師に問う。
「赤紫はどうしたの……?」
俺には全く意味不明の問いだが、パペッタはユディートの意図を分かっている風に見える。
しかし女屍師はユディートの謎めいた質問を無視して、再び呪文をつなぐ。やがて詠唱を終えたパペッタが、スッと右手を挙げて叫んだ。
「”イーア! オルベーテ!”」
その奇妙な言葉を合図に、色とりどりの鬼火たちは、天秤に載せられたガラスの器へと次々に飛び込んでゆく。
器を満たす死女の羊水に鬼火が溶け込むたびに、グラスは毒々しい極彩色の光を吐息のように放つ。
同時に、天秤の平衡が崩れ始めた。
鬼火を溶かしたガラスの器が、徐々に下降してゆく。反対に、俺が載せられた皿は少しずつ上がってゆく……。
下がりつつある俺の視界の中で、肩を揺らして嘲笑うパペッタ。
「あの
女屍師のガラス玉の両目に、仄白い陽炎が宿る。
「その重みを、今こそ思い知るがいいわ……」
パペッタの呪いの言葉のとおり、俺の脳漿に、俺が犯した過ちの全てが、ありありと映し出されてくる。
少年猟兵タダイの裏切りへの安っぽい温情。
マノ大隊長、それに猛者と部下たちへの説得の失敗。
その帰結、誰一人として生き残れなかった、マルーグ峠の惨劇。
そして、生き残ってしまった俺の、酒色に溺れる無為で自堕落な日々……。
暗澹とした罪悪感が、俺の脳裏を重苦しく占拠する。
万力に挟み込まれたような痛みが、腐った頭ばかりか、幻の心臓までをもぎりぎりと締め上げ、俺の意識は遠退いてゆく。
女屍師が、肩を揺らして嗤っているのが視界の下端に映る。
「もう少し、あと少しね……」
パペッタが低く呻いた。ぶつぶつと呪文を唱えながら、女屍師が袖の中から取り出した物を床に置く。
象牙だろうか。白い素材を刻んだ、奇妙な動物の小さな彫像だ
だがその彫像は見る間にむくむくと大きくなり、すぐに犬ほどの大きさの奇怪な獣へと姿を変えた。猟犬のように長く締まった前脚と、兎のように短い後脚。ワニを思わせる長く裂けた鼻面には、口からはみ出した鋭い牙が並ぶ。頭を覆うのは、きちんと切り揃えられた女性の髪を思わせる、漆黒の鬣。その背中には、白い斑のある猛禽の翼が生えている。
奇妙なその怪物は、両翼を羽ばたかせて宙へと舞い上がると、二回、三回と円を描いて、天秤のてっぺんに留まった。
猫のように姿勢を正し、金色の眼で俺をじっと見下ろす獣を注視して、パペッタが抑えきれない様子で含み笑いを洩らす。
「可愛いでしょう? この獣は、古代の
陶器のように白いパペッタの指が、おもむろに俺を指し示す。
「あなたを載せた天秤の腕が上がり切った時、あなたの薄っぺらな贖罪など何の意味もない事が証明され、あなたの霊魂はアメットに貪り食われるのよ。カルヴァリオ隊長」
パペッタが隠し切れない憎悪が溢れる言葉を、俺に低く投げかける。
「そしてあなたの喰われた霊魂は、輪廻の環から外れた暗黒の虚空に繋がれるの。永遠に、ね……」
抗いようのないほどに、圧倒的な存在感をもって迫る、パペッタの呪詛。その迫力に気圧されて、俺の意気は萎え、眼球がくらくらと眩む。
持ち上げられる視界の上の方に、アメットとか云う魔獣が映る。俺の霊魂を狙って、アメットのワニの口が、舌なめずりをしている。
……もう駄目か。この天秤が上がり切ったら、俺はもう……
絶望しかけた俺の耳に、今まで黙っていたユディートの声が突き刺さる。
「ねえ、トバルくん! キミ、ここまできて諦めるつもり……!?」
びくんと眼球の泳いだ俺に向かって、ユディートが強い言葉を投げてくる。
「もっと自信を持ちなさい、トバルくん! 峠では、キミは確かに無力だったかも知れないし、一度は自分から逃げだしたよね。でも今は違う。キミは自分の過去に、きちんと向き合ってる。そのうえで、キミはエステルとハーネマンさん、それにまだ生まれていない命を助けたの。キミの体を犠牲にして」
ユディートの凛とした声が、言葉が、俺を鼓舞する。
「だからもっと自信を持つの! 罪悪感なんてものに、耳を貸す必要はないんだから! さあ、胸を張りなさい! エステルと、ハーネマンさんと、まだ生まれていない子を想って!」
俺の脳裏から、冷たく重い暗黒の靄が消えてゆく。
……そうだ。俺は自分の体と引き換えに、エステルたち二人、いや、お腹の子の三人を、第零局の魔手から奪還したのだ。これだけは、誰にも文句は言わせない……!
俺が自分を取り戻したその時、俺を持ち上げる天秤の腕が動きを止めた。と、思う間もなく、天秤の腕がわずかずつ、下がってゆく。
どうやらこの『因業の天秤』は、罪悪感を覚えれば覚えるほど上昇し、自分の行いに自信を持つほど下がる仕組みのようだ。
パペッタの狼狽の叫びが響く。
「そ、そんな莫迦な……!! この期に及んで、天秤の腕が下がるなんて……!?」
顔色を失った態で戦慄く女屍師に、ふふーん、と甘ったるく笑ったユディートが、ねっとりと告げる。
「ねえ、パペッタ。このイカサマ審判、もう終わりにしたいんだけれど、いいかなあ?」
「イ、イカサマですって……!?」
反感を剥き出しな態度で、鋭く向き直ったパペッタ。濃厚な殺意と悪意が、女屍師の黒いローブからゆらゆらと立ち昇る。
だが、腕組みのユディートは、前のめりに身を乗り出し、挑戦的ににんまりと笑う。
「鬼火になった死者は、その色で死因が分かるんだよね。青は自然死、黄色は自殺、緑は事故死、白は死因の自覚がない幼児。それに赤は殺人の被害者。じゃあどうしてキミは、赤紫の鬼火を喚起してないのかなあ? 戦死者たちの霊魂を。トバルくんは、元軍人なのに」
「……!!」
びくんと肩を揺らしたパペッタ。
何か痛いところを衝かれたのだろうか。女屍師は口を閉ざしまま、ユディートの問いには答えない。
ユディートは不敵に細めた左目を、立ち尽くすパペッタから天秤の上に座る魔物へと移した。彼女は両手を広げ、堂々と古代の魔物に呼びかける。
「ねえ、復讐の代行者にして、公平な裁きの審判者“アメット”。あたしはトバルくんの証人たちを喚ぶけれど、いいよね? トバルくんの贖罪が成就したって、証明してくれるひとたちを……」