五.贖罪の行方 六
文字数 4,176文字
そんな俺の耳に、聖騎士ユディートが何か唱える声が聞こえ、俺の眼球の前に彼女の両手が翳された。その細い指の四角形が作る、薄桃色の光の膜。それを透かして、俺には見えた。目の前の扉を素通りして、さらにその奥へと延びている、一筋の銀の糸が。
……ここだ。
間違いない。この久遠庵の扉の奥に、俺の体がある。そして
久遠庵の玄関を凝視する俺の目がゆらりと揺れて、視線がぐんと下がった。次の瞬間に大写しになったのは、黒い霊馬ゼクスの精悍な顔だった。
「ここまで本当にありがとう、ゼテス」
感謝と労りに満ちたユディートの声とともに、彼女の繊細な手がゼテスの頬に添えられた。霊馬の黒い毛並みを愛おしげに摩りながら、彼女が静かに続ける。
「キミには、ホント感謝しかないよ。樹の上のひいひいひい……おばあさまにも、よろしく伝えてね」
そう告げた彼女が、ザックの中から林檎を取り出した。不思議な色の林檎だ。大きさは普通の林檎と同じくらいだが、その表面はねっとりとした蜂蜜のような黄金色に光っている。
漂う芳香も、普通の林檎を百個も煮立ててギュッと凝縮した、そんな想像をさせるほどに濃く、まろやかだ。
「“
途端に活き活きと眼を輝かせ、ピンと立った耳を落ち着きなく動かすゼテス。黒い霊馬は、即座にユディートが差し出す金の林檎に食いついた。
霊馬もなかなか現金だ。
ゼテスの青みを帯びた瞳が、ふと苦笑を覚えた俺の視線を捉えた。その刹那、鼻の奥に鋼の探り棒を突っ込まれたような、妙なむず痒さが俺の意識を突っ突く。
だがくしゃみのでそうなその刺激はすぐに消え、ゼテスが首を小さく上下に振った。その眼に怒りのようなものは見えない。むしろ同情とか憐れみに近い色が浮かぶ気がする。
ゼテスは何を言いたいのだろう?俺に何をしたのか……。
だが霊馬の意図など、俺に分かる訳もない。黄金の林檎を口に銜えたまま、ゼテスが大きな顔をユディートの頬に擦り付けた。
彼女もくすぐったげに笑いながら、ゼテスに頬ずりを返す。
「じゃあまた何かあったら、その時はよろしくね、ゼテス。じゃあね」
ユディートが黒い霊馬から一歩離れると、ゼテスの精悍な体が粉塵の煙のように揺らめいた。
そう見えた次の瞬間、ぱちっぱちっと全身のあちこちから白い火花が散り、霊馬の姿は大気に解け込むようにして消え失せた。後に残ったのは、辺りに漂う濃密な甘い林檎の香り、だけだ。
おかしな違和感を覚え、ついぼんやりしてしまった俺の前に、ユディートが銀の円盤をぱちんと開いた。
……死すべき者を精確に指し示す、死の女神の神具。俺は眼球をひん剥いて、回転する羽根を凝視する。だが銀の羽根は、勢いよく回り続けるばかりで、止まる様子はない。
羅殯盤がぱちんと閉じられ、ユディートが、ふふーん、と甘ったるく不敵に笑う。
「今夜も異状なし、だね」
羅殯盤をしまい込んだ彼女は、ふっと小さく息を整えた。
「じゃあ行くよ、トバルくん。キミの本当の体に会いに」
短く告げて、ユディートが久遠庵の扉を押し開けた。
開け放たれた戸口から目を凝らしてみると、その奥には深く濃い闇が詰まっている。俺を首から下げたまま、ユディートが闇の中へと踏み入ってゆく。
一歩、二歩、そして三歩。
そこでキキッ、というわずかな軋みが聞こえ、ユディートの背後で扉が独りでに閉じた。
上も奥行きも、足下さえ全く見通しの利かない、閉じた闇。それでもスッと立つユディートの息遣いが、布を通して俺の腐った肌にも伝わってくる。
じっとりとべたつく暗闇に、低い含み笑いが響いた。高いトーンの女の声だ。怪しく重苦しい雰囲気に圧され、腐敗した皮膚にぞわぞわとしわが寄る。
しかしユディートの凛とした声が、闇の中を通り抜けた。
「キミなのかな? トバルくんの体を奪って、『贖罪』を課したって云うのは」
ふふふ、と楽しそうな女の笑う声が聞こえ、ぽっぽっと闇の中に光の玉が幾つも浮かび上がった。青、黄色、緑、白、それに赤。どの色にも、確かに見覚えがある。
そしてそれらの光に囲まれて、フッと二つの目が闇の中に開いた。青いガラス玉を思わせる、感情も瞬きもない作り物のような左右の目。
間違いない。あの女だ。
「キミが噂のパペッタ? キミは“
ユディートの超然とした、重ねての問いに、幾つもの鬼火をまとった両目が、闇に溶けたまま答えてくる。
「そう。私がパペッタ。この久遠庵の主にして、“女屍師”。そして彼を“
パペッタが嘲るような哄笑を上げた。
「でも思ったよりお早い到着ね。驚いたわ。さぞ強力なお仲間が、あなたをここまで導いたのでしょうね、トバル=ルッカヌス=カルヴァリオ隊長さん」
この女屍師、俺の名前を知っていた。やはりパペッタの仕打ちは、俺が何者で何をしてきたか、全てを熟知した上でのことだった、ということか。
十歩ばかり先に立つはずのパペッタだが、その曖昧な視線は、何を見ているのか判断が付かない。だが俺に向けられていたパペッタの言葉の先が、ユディートへと移された。
「それで、あなたは何者なのかしら? 勇敢な女冒険者さん」
余裕たっぷりに問うパペッタ。答えるユディートも、ふふーん、と小悪魔めかして甘ったるく笑う。
「あたしはユディート。ユディート=ユーデット=サイラ。屍師なら、もう分かるよね? あたしが何者なのか」
彼女の名前を聞くなり、闇に浮かぶパペッタの両目が、びくりと後ろへ動いた。恐らく仰け反ったのだろう。かなりの動揺を窺わせる反応だ。
「“
このパペッタは、ユディートの素情に気付いたようだ。さすがと言うべきか。
だが色とりどりの鬼火に囲まれたパペッタは、すぐに元の嘲笑的な態度に戻った。
「でもあなたには、私をどうすることもできないわ。女屍師の私を傷付けることは、誰にもできないもの。たとえ
「うん、まあそうかもね、パペッタ」
ユディートも、パペッタの挑戦的な言葉を否定しないまま、ふふーんとまた笑う。
「じゃあキミも分かってる、ってことでいいかな? キミの方も、あたしをどうこうすることはできない、ってこと」
十歩足らずの距離を挟み、対峙する聖騎士ユディートと女屍師パペッタ。重苦しい沈黙が、二人の間に蟠る。
視線をかち合わせる、凄腕の女二人。軍人の俺でもたじろぐほどの、異様な雰囲気が辺りに漂う。腐った俺の肌もピリピリとひりついてくる、近付き難い空気だ。
だが、うふふ、というパペッタの含み笑いが、恐ろしい静寂を打ち破った。同時に闇が薄暮に変わり、この空間の様子が露わになる。
久遠庵の扉の内側は、途方もなく広大な空間だった。見渡す限り、真っ平らで茫漠とした白い床が、遥か彼方まで延々と続いている。
正面に立つ、頭からすっぽりと黒いローブを引っ被ったパペッタ。布に覆われた顔に、横一本のスリットが開いている。そこから覗くガラスの両目が、じっと俺を凝視する。
そして、闇に包まれて見えていなかったパペッタの足元も露わになった。
彼女の周りの床に、何か黄色みを帯びた白い物が無数に転がっている。俺にはそれが何なのか、すぐに分かった。
……人骨だ。
何人分なのかは分からないが、パペッタの周りを取り巻くのは、乾き切った骨。腕、脚、骨盤、脊柱、そして頭蓋骨。どれもバラバラに分解されてはいるが、人の骨に間違いない。
そんな骨に囲まれて佇むパペッタが、ぶつぶつと呟き始めた。やはり俺には、パペッタの唱える言葉の意味は、全く理解できない。しかしその詠唱が、何か俺に関わる呪文だということだけは、ひしひしと感じ取れる。
パペッタが俺に何をするつもりなのかは、分からない。だが、どんな仕打ちでも敢えて受ける覚悟を決めた俺の前で、詠唱を終えたパペッタがスッと右手を挙げた。
すると、彼女の周りに散らばる人骨が次々と宙に浮く。
旋風に巻かれる木の葉のように、無数の骨がパペッタの周りをひゅんひゅんと飛び回る。轟轟と音を立てて吹き荒ぶ竜巻が、佇むパペッタの横に、カチャカチャと骨を何かの形に組み上げてゆく。
一本の支柱で支えられた二本の腕。パペッタの背丈よりもずっと高い、一体の案山子のようにも見える。
女屍師が、黒い袖の中から何かを取り出した。円環型にまとめられた糸のようだ。彼女がその糸を竜巻の中に投げ入れて、数秒。
すうっと竜巻が消えた時、この女屍師の横に現れたのは、人骨で形作られた大きな天秤だった。
見上げるような支柱の頂上には三つの髑髏が三方を睨み、大腿骨や上腕骨を束ねたような左右の腕が、細い糸で皿を吊っている。その皿を構成するのは肩甲骨や肋骨、それに骨盤の一部だろう。
黄色みを帯びた白骨の天秤は、てっぺんの髑髏で俺たちを眺めつつ、皿を吊った左右の腕をゆらゆらと交互に上下させている。
そんな不吉な天秤の横に立つパペッタが、低く笑った。
「……さあ、それでは量りましょうか、ケルヌンノスのカルヴァリオ隊長。あなたの“罪業”と、あなたの“償い”を」
彼女の真っ白な指先が、骨の天秤を指し示す。
「この“因業の