三.戦禍の記憶 二
文字数 4,748文字
あの聖騎士ユディートのご高説、『女を護る用心棒の在り方』は、概ね三時間を費やしたのち、ユディートの帰宅とともに終わった。
しかし三時間、ひたすら教説し続けられる彼女の体力と気力には、ほとほと恐れ入る。高位の聖職者には、そういう才能も必要なのだろう。
だがまあ嬉々としたユディートの顔を見られるなら、それはそれで良しとするべきかも知れない。
夜も更け、しんと静まり返った白鷺庵のサロンにいるのは、俺独りだ。静かに天井を仰ぎ、俺は揺らめく車輪状の灯りを眼球に映す。腐敗した脳、それに固まった鼓膜の中に、ユディートの去り際の言葉が幾度も繰り返される。
『“
彼女の励ましを噛み締めつつ、俺は思考を巡らせる。
あの太った中年男の豪商アンフォラは、俺のメダルを見て『マノ大尉』と呼んだ。しかも『死んだはず』とまで言ったのは、マノ大尉と面識があり、しかも死の経緯も知っているのだろう。
もしかしたら、それは俺の死にざまかも知れないのだ。そしてそのいきさつは、俺の『贖罪』とも……。
俺は往くべき途を思い、胸の内をため息に満たした。
その時、背後から高く澄んだ声が聞こえてきた。
「あの、どなたですか……?」
それだけで声の主はすぐに知れる。俺の異形が見えていない少女に間違いない。俺は俺以外には出し得ない、怪物めいた声を絞り出す。
「エス、テル……?」
「あ、マノさん」
俺の声にも怖気づく様子はなく、平然と答えたエステル。俺が振り向くよりも先に、彼女はゆっくりとした足取りながら、するりとテーブルを避けて、俺の向かいに座った。
「器用、ダナ……。危ナク、ナイカ……?」
「ありがとうございます」
エステルが、白い両手で口を覆い、くすっと笑う。
「わたしの目はほとんど見えませんが、明るいか暗いかは分かります。それに、どこに何があるのか、マイスタさんが教えてくれましたから、白鷺庵の中は不自由ありません」
穏やかに答えたエステルは、相変わらずほっそりとした小柄な身を、扇情的な黒いドレスに包んでいる。だがスッと伸ばした背筋、膝に重ねた白い両手は、やはりこの少女の育ちの良さを暗示するものに他ならない。
続けてエステルは、曖昧な翡翠の瞳を曇らせて、すまなさそうに深々と頭を下げた。
「あの、わたしの“用心棒”、本当にごめんなさい。ご迷惑をおかけしてしまって……」
「ユ、ディー、ト、カ……?」
俺の掠れた問いに、エステルがこくりとうなずく。
「はい。ユディートさんが帰る前に、わたしのお部屋に来て。マノさんが、わたしの用心棒を買って出てくれた、って。マノさんなら強面だから、誰も近付けないから大丈夫だと……」
エステルがもう一度、膝に額が付くほどに首を垂れる。
「ごめんなさい。それに、ありがとうございます……」
確かに俺のこの顔なら、誰も近付いて来ないのは間違いない。『強面』とは、ユディートもよくもまあ言ったものだ。
心の中で苦笑を洩らす俺に、エステルが聞いてきた。
「あの、ところでマノさんのご出身は?」
「シュッ、シン……?」
俺の意識に、灰色の波紋が広がった。思考が停止しかけた俺に気付かない様子で、エステルが続ける。
「ふと、昔のわたしの家で聞いた話を思い出して。わたしの家にも、確かマノさん、という軍人さんが何回か来ていたみたい。そのマノさんは、確かルカニアの首都ミロから来たって聞いた記憶があって」
「ミ、ロ……」
俺の記憶が渦を巻く。脳内の霞みに浮かび上がるのは、どこか街の風景のようだ。
石の建物。
行き交う人々と、数十人の兵士たち。それに、落ち着いた造りの大きな邸宅。
どこかで見た屋敷だ。
幻に視界を占められる俺の前で、エステルがうつむいた。悲しみに覆われつつも、気丈に口元に笑みを留め、言葉を続ける。
「わたしは、生まれも育ちもケルヌンノスの街でした。でもケルヌンノスは、焼け落ちてしまって。今はもう、地図からも消されてしまったとか……」
「ケル、ヌン、ノス……! 焼ケ、落チ、タ……!?」
『ケルヌンノス』は、あの『識別表』にも書かれていた名前だ。街の名前だったのか。だが『焼け落ちた』とは……?
その瞬間、俺の眼球が裏返った。俺の脳裏が、新たに沸き起こった別の幻に塗り替えられる。
やはり紅蓮の炎だ。
煌々たる焔が焼き尽くすのは、一つの街。逃げ惑う人々、同じ旗印を掲げながらも、互いに殺し合う兵士たち。何故、仲間同士で戦っているのだろう……?
外れるばかりに顎を開き、俺は声にならない声で絶叫した。
もちろん、この不潔極まる、血も凍る顔は、エステルには見えていないはずだ。それでも、何か異様な空気を醸していたのだろう。エステルが気遣わしげに俺の顔を覗き込む。
「大丈夫ですか? すごく具合が悪そうな感じ……」
ふっと我に還った俺は、ぴきぴきと首を横に振る。
「大、丈夫ダ……。アリ、ガ、トウ……」
俺が胸の奥底へとため息を流し込んだ、その時だった。サロンの中にノックの音が密やかに響いた。
コンコンコンコンコンコン、強く響き過ぎないように加減された音が、続けて六回。その特徴的な音を聞くなり、エステルがソファーからハッと立ち上がった。
「カイファ……!」
居ても立っても居られない様子で、エステルが玄関先へと急ぐ。
用心棒の俺が遅れる訳にはいかない。
俺も慌てて両足を突っ張らせ、ソファーから立ち上がった。だが俺がようやくソファーから離れた時には、エステルは自分で玄関の扉を開けてしまっていた。
四角く切り取られた深夜を背にして戸口に立つのは、一人の若者だ。
地味だが仕立てのいい上下の服を着た、長身の青年。年は二十代前半だろうか。高い鼻筋に黒縁の丸眼鏡を引っ掛け、理知的ながらどこか悪戯っぽさを留めた翡翠の目。柔らかな麦わら色の髪が夜風に揺れている。
なかなかの好青年だ。
その花街には不似合いに真面目そうな、浮ついたところのない青年を見て、俺はピンと閃く。
ユディートが言っていた『マイスタの認めた男』とは、彼のことだ。間違いない。
「こんばんは、エステル。遅くなってごめんね」
戸口をくぐった青年が、エステルにそっと言葉を掛けた。エステルも、静かに玄関の扉を閉じながら、どこか寂しげな笑みで応える。
「来てくれてありがとう。嬉しい……」
そうして二人は、どちらからともなく堅く抱き合う。情熱の籠る、若く熱い抱擁だ。
だが数秒と経たずに若者がエステルから離れた。
「でも、けじめは付けないとね」
それだけエステルに告げて、青年はサロンの中を見回した。誰か探しているのだろうか。
と、そこで初めて彼は、突っ立つ俺に気が付いた。途端に一瞬、びくんと仰け反った青年。
息も鼓動もない俺だ。気配がないから、気が付かないのも無理はない。
そんな驚く青年の側で、エステルが口に両手をあてて、厭味なくくすっと笑う。
「あの方はマノさん」
「……マノ、さん?」
エステルの言葉を繰り返した彼の翡翠の瞳に、一瞬灰色の曇りが覗いた。
あれは警戒と、何か敵意にも似た色だ。もちろん、エステルは彼の変化には気付けない。喜色を隠さずに、頬を染めたエステルが説明する。
「ユディートさんのお友達で、リベカ先生の患者さん。ここの警備もして頂いてるの」
「ああ、それじゃあ白鷺庵の方、でいいのかな?」
青年の目から、瞬時に曇りが消えた。エステルの言葉に、全幅の信頼を寄せているようだ。
俺の風体にも怯むことなく、青年が穏やかな笑みを浮かべた。
「マイスタさんがおられないようなので、あなたにお渡ししておきますね」
ポケットに手を入れながら、青年が俺に歩み寄ってくる。
俺の周りには悪臭が漂うはずだが、顔色を変える様子はない。穏やかな物腰に丁寧な口調。そこに秘められた真っ直ぐで勝気な心情が、俺に確かに伝わってくる。
これはなかなかの胆力だ。
感心する俺の前に立った青年が、ポケットから出した物を差し出してきた。
彼の締まった掌には、銀貨が一枚と金貨が二枚載っている。朝までの部屋代、それに“花代”だろう。しかし金貨二枚の花代は、破格な気がする。恐らくこれは、エステルの境遇を慮った青年の気遣いだ。
俺は素直にコインを受け取ると、青年に聞いてみた。
「部屋ハ……?」
あらゆる生者が怖気付く屍者の声にも、青年はわずかに口元を曲げただけだ。眼鏡の奥で含みのない笑みを浮かべ、彼は俺に答える。
「エステルの部屋を借りるので。一晩お世話になります」
律儀に頭を下げた青年は、俺から離れ、静かに待つエステルへと歩み寄った。
そうしてお互いに温かな笑みを交わすと、仲睦まじく腕を組み、二階への階段を昇っていった。
再びサロンに独りになった俺は、またソファーへと利かない足を向けた。
と、同時に暖炉脇のドアが開き、見慣れた老人が姿を見せた。白鷺庵の気のいい老主人マイスタだ。
彼はサロンの中に入ってくるなり、にこやかな顔で俺に聞く。
「ああー、今カイファさんが来たね?」
俺も預かった貨幣をマイスタに手渡しながら、ぴきぴきとうなずく。
「来タ……。分カッタ、カ……?」
「うん。さっきカイファさんの音が聞こえたよ。そろそろ来る時間だとは思ってたけどねー」
俺はソファーへ腰を落とす前に、金貨と銀貨を無造作にポケットへしまい込むマイスタに聞いてみた。
「アレ、ハ、誰、ダ……?」
するとマイスタが目尻を下げた。彼の顔に浮かぶのは、温かな満面の笑みだ。
「カイファ=ミザールさん、っていう商人だよー。あの子は“ミザール商会”の幹部の一人でね。穀物と香辛料の売り買いを任されてるんだよ。なかなかの遣り手でねー」
確かに、俺が見る限りでも、若い割には結構な傑物のようだ。俺はさらにマイスタに聞いてみる。
「ミ、ザール、商会、トハ……?」
「ああー、ミザール商会はね、この地方ではアンフォラ商会と並ぶ豪商でねえー」
答えたマイスタが、深いため息とともに、白いものの混じる眉根を寄せた。実に辛そうな表情だ。見ている俺の方まで、息が上がりそうな気がしてくる。
そんな憂鬱で苦しげな表情を留めたまま、マイスタがのそりのそりとソファーへと歩み寄り、ゆっくりと腰を下ろした。
「もともとは、アンフォラ商会もミザール商会も、マイリンク商会の下にあった商店だったんだよー」
しわくちゃの顔を両手で擦りながら、彼が深いため息を交えて低く呻く。
「それが、マイリンク商会が没落してしまうと、アンフォラ商会がマイリンク商会の屋台骨を乗っ取ってしまってねえー。マイリンク商会傘下の商店を配下に収めてしまったんじゃよー。でも、もともとマイリンク商会の中で二番手だったミザール商会は、頑としてアンフォラ商会とは手を組まないで、マイリンク商会のやり方を貫いてる、気骨のある商家でねー」
マイスタが顔を擦る手を止めて、深く憂いに満ちた吐息を洩らした。
「それもこれも、“マルーグ峠の戦い”が原因でねえー……」