四.審問 三
文字数 4,816文字
聞こえるものは、木立を通る寒風の悲鳴だけだ。他には何も、耳には届いてこない。ひとの声はおろか、鳥の囀りも、獣の遠吠えも。
赤土がむき出しの峠道。
それが、今俺の立つ場所だ。
左右の小高い土手には、針葉樹の巨木が乱立している。だがその木々は、幹も枝も見るも無残に焼け焦げ、一本の葉も残ってはいない。
仰いだ梢は、まるで魚の小骨で編んだ黒い天蓋のようだ。
流れ下る雨水に浸食され尽くした地面には、下草の一つも生えてはいない。
もう長いこと人も通っていないのだろう。
ただ砂利と砕けた木炭が、道とはかけ離れた態の道を覆っている。
しかし、よくよく足もとに注意を払ってみれば、散乱する小石と炭との中に混じって、無数の金属片が見て取れる。
乾いた血糊のように赤く錆びついた鏃、折れた短剣、甲冑の欠片。細かな骨片や人の歯さえ、この峠の道には幾つも転がっている。
俺は、ここを知っている。
――マルーグ峠の交戦――
ルカニアのマノ大隊、それにアープ側の山岳猟兵たちが凄惨な戦いを繰り広げた、戦場の跡だ。
この場所で、マノ大尉も、少年兵タダイも、その命を散らせていった。幸運なエノス、それに俺を含めたほんの一握り以外には。
俺はふと気が付いた。
数歩先に、何か平たい金属の板が落ちている。
近付いてみると、それは地面に半分埋もれたハチェットの頭だった。柄はとうに失われ、真っ黒に錆びついた鋼の斧だけが、赤土に包まれて深い眠りに就いている。斧の表面に浮かび上がる赤い線刻は、何か角の生えた獣の横顔のようだ。
ケルヌンノス山岳猟兵隊の象徴だった、魔獣の文様。
山岳猟兵の一員だったこのハチェットの持ち主も、この戦場で命を落としたのだ。
マノ大隊がこのマルーグ峠への進軍を開始する前夜。
ケルヌンノス山岳猟兵隊の隊長だった俺は、百人の猟兵のうち、主だった十数人を集めた。そのうちの一人が、忘れられたハチェットの主だった。
その時の光景が、俺の内側に、ありありと映される。
――ケルヌンノスの街にあった山岳猟兵隊の駐屯所。
出陣を翌朝に控え、俺は小部屋に隊の小隊長や班長を集めた。いずれの男も、腕にも人品にも、俺が深い信頼を置く猛者ばかりだ。その中には、あのタダイの身柄を預けた小隊長も含まれた。
彼らを前に、俺は俺の胸中の全てを吐き出した。
マルーグ城砦の陥落計画が、アープ側に洩らされていること。
だから計画が成功する見込みは薄いこと。
それでも中央から来たマノ大隊長は計画を実行する気でいること。
だからこそ、マノ大隊第三中隊長として編制された俺は、例え負け戦だと分かっていても、ここで逃げる訳にはいかない。俺は最期まで大隊と運命を共にするだろう。
だが山岳猟兵たちを素知らぬ顔で死地へ送り出し、むざむざと犬死にさせる訳には、いかなかった。
俺は何とか口実を付け、第三小隊の行軍を遅らせて、山岳猟兵たちに離脱の機会を作ってやる、十数人の猛者たちにそう提案したのだった。
ところが彼らの答えはただ一つ。『否』、だった。
何故だ?
問うた俺に、十数人の猛者たちは異口同音に、こう答えた。
『こう見えても、自分たちは軍人だ。中央からいきなり乗り込んできた大隊は、正直言って気に食わないが、編制された以上は上官の命に従う。仮に今回の作戦が洩れていたとしても、自分たちはそのことを知っている。只では死なない。もし死ぬのなら、みんな一緒だ。自分たちだけは、最期まで隊長についていく』、と。
誰が計画を洩らしたのか、問うことも責めることもなく、ただ己の置かれた状況に、正面から立ち向かおうとする俺の部下たち。この時ほど、俺の部下たちが輝いて見えたことはなかった。
最後の残照ほど、美しいものはない。
猛者たちの決意は堅く、俺がかける情けなど、もはや道化の戯言にも等しかったのだ。
そんな彼らの気持ちに、俺も全霊で応えなければならない。だから俺も、彼らと共に散ることを選んだ。
だがそうはさせないように、彼らの命を全身で護ることも、隊長たる俺の役目だったのだ。
十数人の小隊長と班長は、それぞれに幾人かの部下を抱えている。だがそのすべてが、上官と同じ志を持っているわけではない。
陥落計画の漏洩を部下たちに明かすか、それとも最期まで秘匿するか、それは猛者たちに一任した。
その翌朝。
俺たちケルヌンノス出身の第三中隊は、マノ大尉の指揮に従い、マルーグ峠に赴いた。
そして俺たちを含むマノ大隊は、計画どおり、城砦に向かう五十人のアープ兵を包囲し、攻撃を仕掛けたのだ。
だが蓋を開けてみれば、あの元戦友のエノスが語ったとおり、包囲されていたのは俺たちの方だった。
正確な数は分からないが、我々の計画大隊六百人に対し、恐らくアープ側はその半数程度だったろう。
しかし戦場は傾斜した山林だ。地の利は、圧倒的にアープ側にあった。
何故なら、マノ大尉の率いる第一中隊は首都防衛隊に過ぎない。敵軍との実戦は、これがほとんど初めてだっただろう。
エノスがいた第二中隊は、本来は西方の辺境警備の軍勢だ。ルカニアの西の国境は広大な平原となっていて、戦闘自体の経験は豊富でも、山林での局地戦には不慣れだった。
それに対し、俺たちが包囲したアープの五十人、そして俺たちを逆包囲したアープ軍は、森林での攪乱戦に長けた山岳猟兵主体の部隊だ。
そう、この戦況にまともに適応できたのは、俺が率いた第三中隊、つまりケルヌンノスの山岳猟兵隊だけだったのだ。
木々や下草が生い茂り、入り組んだ足場の悪い地形に適応した山岳猟兵は、一撃離脱あるいは真逆の密着戦を得意としている。
射程は短くとも有効射程は長い石弓。狭い場所でも振り回せる戦鎚。それに接触状態から急所を狙う短剣。
平地での戦闘とは全く異なる武具と戦術に翻弄され、剣と槍が主体の第一中隊、斬撃を重視した長柄中心の第二中隊は、じわじわとその数を減らしていった。
日没が迫る頃、兵数の激減した俺たち大隊と、アープ勢の戦力はほぼ拮抗することとなり、我々は峠道の只中で完全に包囲された。
第一、第二中隊の兵士たちは、そのほとんどが既に亡く、俺たち第三中隊も、その多くが命を散らせていった。あのタダイも、身柄を預かった小隊長とともに、物言わぬ亡骸と化していた。
ひとかたまりとなった俺たち数十人の中で、生き残っていたマノ大尉が、ここに至って初めて告白した。
『この計画は、事前に洩れていた』、と。
マノ大尉のこの言葉が、大隊の生き残りたちを打ちのめした。彼は、この事実を最後の最期まで、伏せていたのだ。
絶望して崩れ伏す者。
怒り狂ってマノ大尉、それに俺をも罵る者。
達観と諦念に囚われて自刃する者。
それでも死地を拓こうと、敵が潜む樹林へと踊り込む者。
六百の兵員から成っていたはずの計画大隊は、もはや数十名足らずの烏合の衆に成り果てていた。もはや指揮も命令も機能せず、陣形などとうに崩れ去っている。ただひとりひとりが、敵に、おのれの死に、むやみに抗うばかりだった。
だがその最後の数十人の全てが、軍人の矜持を忘れた訳ではなかった。
傷を負いながら、まだ立ち続ける大隊長のマノ大尉。
この上ない絶望と、深淵の後悔に塗れた表情を見せる指揮官を、軍人である以上、この死地から最後まで守らなくてはならないのだ。
思いを同じくした俺と数人の兵が、マノ大尉の周りをぐるりと囲んだその時。俺の左肩に焼け付くような激痛が走った。
見るまでもない。アープ兵が放った石矢だ。
肩を貫通していないところを見ると、有効射程ギリギリから放ったものだろう。そう判断し、石矢を折ろうと手を延ばした俺の鼻先を、一陣の風が吹き抜けた。
ハッと向き直る俺の目に、濃緑色のマントを頭から被った兵士の姿が映った。
アープの山岳猟兵だ。
そう認識した次の瞬間、俺の側頭部をガツンと激しい衝撃が襲った。火の消えるように意識が落ち、俺は膝から崩れるように倒れ伏した。
そして顔に降りかかる冷たい雨が、俺の意識を引きずり起こしたのだ。
酷い頭痛と肩の痛みに苛まれ、すぐには身を起こせない俺だったが、濃厚に漂う異臭は嗅ぎ取れた。
焼け焦げる木々と肉と髪の臭い。
誰かが火を放っていたのだろう。
それに咽返るほどの濃厚な鉄錆の臭気は、霧雨に塗れた無数の武器と、そしてこのマルーグ峠に流された夥しい量の鮮血以外には、あり得なかった。
やがて降り頻る小雨と、山道を黒ずんだ朱に染めた血とに塗れつつ、俺は立ち上がった。
薄い雨雲が覆い被さる峠の戦場は、すでに夕闇に呑まれかけていた。
だが、俺の目にははっきりと見えた。
峠道を折り重なって覆い尽す、千にも届くほどの死体。無数の石矢に射貫かれ、四肢や首を失った戦死者たちの中に、生きた者は誰一人として見つけられなかった。
動くものといえば、くすぶる立ち木や倒木からゆらゆらと立ち昇る、白い煙だけだったのだ。
生き残ったのは俺独り。そうとしか思えなかった。
累々たる死屍を前に、俺は立ち尽くした。結局、俺は誰一人として守れなかったのだ。上官に当たるマノ大尉も。俺を信頼してついてきてくれた、百人の部下たちも。
言葉には尽くせないほどの、傷や痛みなど気付かないほどの悲しみが込み上げた。
自分の無力さ、無能さがどうしようもなく呪わしかった。
敵も味方も、ことごとく死に絶え、生き延びたのは自分独りなのだ。
死せる者には、紛う方なき悲劇で惨劇だ。しかし、俺だけが生き残ったこの状況は、安っぽい喜劇でなくて、何だというのか。
胸の底の闇から込み上げかけた狂った笑いは、不意に消失した。
代わりにぞわぞわと俺の正気を侵食したのは、漆黒の恐怖だった。
ケルヌンノスの山岳猟兵隊で、生き残ったのは俺だけだ。
だが俺には身内はいない。反対に、戦死した百人には、みな家族が、友人が、それに恋人もいたのだ。散っていった猟兵たちの遺された身内に、俺は、何をどう伝えればいいのだろう?
いや、それ以前に、たった独り残った俺が、どの面を下げてケルヌンノスへ帰れるというのか。
生きた俺を見つければ、遺族たちはこぞって俺を指弾するだろう。これ以上ない蔑んだ目で、俺を汚物のように見下すに違いないのだ。
俺には、それが例えようもなく怖かった。
だから、俺は逃げたのだ。自分がいた場所から、それに自分の所業の結果から。
逃げよう。逃げるしかない。
追い立てられるように、死体の海から逃れる俺は、視界の端に見た気がするのだ。
惨劇の幕切れが済んだばかりの血腥い峠の只中に、誰か佇んでいたのを。
頭から黒い布を被った、線の細い人物。
一輪の白百合を手にしていた気がする。
だが俺は、その人物にそれ以上注意を払うこともなく、マルーグ峠から遁走したのだ。
それからの俺は、どうしようもない獣に成り下がっていた。
身も心も荒み切ったまま、あちこちの貧民窟を転々とし、酒と喧嘩に明け暮れ、その日その日を無為に過ごす。それもこれも、マルーグ峠の惨劇と、そこに関わった自分の所業を忘れるために他ならなかったのだ。
やがて、風の噂にケルヌンノスが謎の大火で焼尽したと聞いた。
だが俺になす術などあるはずもなかった。
そして時が流れ、気が付けば、俺は屍者にされていた。
パペッタと名乗る、あの