二.花街の少女 一
文字数 5,697文字
意志どおりに動かない両腕と両足を無理やりに折り畳み、体を暗く狭苦しい間隙の奥へと這いずらせる。固まった全ての関節が、小枝を折るようにぱきぱきと鳴った。
だが、痛みは感じない。緑色の皮膚をおろし金のように削る、岩肌の感触さえも。
俺が隙間の奥深くに身を潜めたのと同時に、この大岩の周りは幾つもの苛立たしげな足音と、殺気を孕んだ息遣いに取り囲まれた。
しつこく俺を追ってきた、”冒険者”どもだ。
「確かにこっちに逃げてきてるはずなんだがな……」
冒険者どもの訝しげな声が聞こえる。
俺は岩の隙間にべたつく体を張り付けて、時が過ぎるのを待つ。身じろぎ一つせずに。
もう鼓動も呼吸もなくなった死体の俺だ。じっとしてしまえば、一切の気配は消え失せてしまう。
「あいつは“
「屍器にしちゃあ、妙だったぞ。普通の屍器は逃げたりしないからな。知能ゼロだから」
「じゃあ、さっきのあれって、まだ知能が残ってる、ってこと? やだ、気色悪い」
「厄介だな。知能を残した
「でも屍師はこんなところにいないし、逃げたりしないでしょ? 下手したら、こっちが先に殺されてる」
などと不穏な会話を交わしながら、冒険者どもがこの大岩の周りをしつこくうろついている。
と、いきなり俺の首筋に違和感が走った。ぐりぐりと、何か細く鋭い物が首の中へと刺し込まれてくる。
これは槍だ。
ご丁寧にも、冒険者が俺の隠れた岩の間に、手槍をねじ込んできたらしい。
だが今の俺には痛みは無力だ。しかも上げる声さえない。死んだ体で良かった。
すぐに槍は引き抜かれ、不審そうな男の声が聞こえた。
「いないか。まあ仕方ない。始末しておいた方が無難だが、人里は遠い。放置してもそれほどの危険はないだろう」
「そうよね。日が暮れるまでには、ルディアの街に着きたいわ。ベッドでゆっくり寝たい」
「ああそういや、ルディアにはいい花街があるんだよな。久しぶりに気持ちいいことしてえ……」
「女の前でそれ言う? 全く、これだから男って生き物は……」
「まあそう言うな。とにかくルディアはここから道沿いに二時間くらいだ。急ごう」
くだらない話をしながら、冒険者連中は大岩から離れていった。
辺りはもう黄土色の斜陽に包まれている。人の姿はない。
忘れていた安心が、俺の爛れ切った全身に広がってゆく。
……疲れた、ような気がする。
よろよろと崩れるように下草の上に座り込み、俺は岩にもたれかかった。
だが俺の体は、何の感触も覚えない。ここまで逃れてきたごつごつの砂利道も、柔らかなはずの下草も。
この『疲れた』という感覚それ自体が、やはり俺の気のせいに過ぎないのだろう。
やはり俺の体はとうに腐りはてた死体に過ぎない。呼吸も鼓動も、この体からは一切生じない。
何とも言えない、突き放されたような寂しさと虚しさが、俺の内に重苦しい。ため息の一つでも出れば、我と我が身を憐れむ気分にも浸れるだろう。だが今の俺には、それさえも許されてはいないのだ。
心の中で自嘲的な笑いを思い浮かべてから、俺は改めて周囲を見渡した。
ここは、どこか山林の只中だ。
人気のない小道と、俺が隠れていた大岩だけがひっそりと存在している。鳥も鳴かない静けさに身を置いて、俺は心の中で吐息をつく。
一体、俺に何が起きているのか?
そもそも、俺は何なんだ?
その答えを求めて、俺は今までのことを思い返してみる。
――気が付いたら、俺は浅い穴の底に転がされていた。暴かれた墓穴だ。
文字どおり、墓穴から這い出た俺が見たものは、鬱蒼と生い茂った藪の中にぽつり、ぽつりと頭を出した、十数基の石碑。
あるものは倒壊し、あるものは摩耗しきった墓碑だった。
そこは打ち捨てられ、荒れ放題に荒れた共同墓地だったようだ。地面に散乱した大腿骨や肋骨、それに髑髏は、何かの野獣が食い荒らした跡なのだろう。もう百年は放置された、そんな荒涼とした場所だ。
腐りきった死体の俺が旅立つには、ふさわしい場所ではあった。
しかし俺はどこへ行って、何をすればいいというのだろう?
『因果の呼ぶ方へ行け』?
『贖罪』?
頼るには、余りにもあいまい過ぎる言葉だった。唯一、あのパペッタとかいう怪しい女が口にした具体的な地名が、『アリオストポリの
アリオストポリ、聞いたことがある気もするが、今の俺の腐れた脳に、確かな記憶は見つからない。
ああ、何が何だか分からない。だが俺の本当の体、生きた体がそこにあるのなら、行くしかないのだ。
今いる場所がどこで、目指すべきアリオストポリがどこなのか、何も理解できないまま、俺は山中に打ち棄てられた共同墓地を出た。
とにかく人里を目指し、アリオストポリへどう向かえばいいのか、情報を得なければならなかった。
だが今の俺は、動き出した腐った死体。
言ってみれば、一匹の“
山道を彷徨ううちに、不覚にも流しの冒険者たちに見つかってしまった。連中からすれば、今の俺はいい獲物だ。腕試しにもなるし、酒場でのちょっとした武勇伝や名声にもつながる。
しかし距離があったため、追い付かれる前に岩の間に隠れ、何とか連中をやり過ごした。
だが冒険者など、世間ではありふれた連中だ。これからも幾度となくこういう目に遭うと想像すると、先が思いやられる。
パペッタの嘲笑めかした忠告『退治されないように気を付けろ』。それが、今さらながら身に染みた――
そこまで思い返し、俺は滲み出る腐汁に塗れた両手で、髪もまばらな頭を抱える。
『贖罪』、とはどういうことだ?
俺が何をしたというのか?
俺はさらに記憶を辿る。あのパペッタに逢った暗闇のその前に、俺の知りたいことがあるはずなのだ。
それなのに、思い出すことができない。鏡で死体の俺と対面した、その時以前の俺を。霧がかかっているとか、見えない壁があるとか、そういう感覚とは違う。
空隙なのだ。あたかも俺など存在していなかったかのように。
だから糸口さえ掴めない。俺が本当は何なのか、俺の名前さえも。
それだからこそ、行かなくてはならない。女屍霊術師パペッタの待つ、アリオストポリの久遠庵へ。自分の体と、自分自身を取り戻すために。
夕闇の迫る中、俺はゆらりと立ち上がった。事あるごとに固着してしまう膝と肘が、ぴきぴきと音を立てる。
同時に、俺の手からポロリと左の小指がちぎれ、地面に落ちた。
岩の隙間に潜り込んだ時に、岩肌に押し付けて過ぎて、折れていたのかも知れない。
他人の死体にいる俺だ。痛みなどはないし、小指を惜しいとも思わない。
だがこの小さな出来事は、間違いなく俺に告げている。
俺に与えられた時間は、この腐乱死体が崩壊するまで、だということを。
それまでに、アリオストポリの久遠庵へ辿り着かなければ……。
俺は山道を下り始めた。
背の高い木々に囲まれた林道は、夜闇が迫りつつある。血の色をした最後の残照が、山林の中に幾重もの赤い襞を張っている。
間もなく陽が沈む。夜になれば、山をうろつく冒険者など、ほぼいなくなるはずだ。
夜は人外の時間。いかに手練の冒険者でも、無用の危険を冒す愚か者は、長生きできない。
俺は、さっきの冒険者どもが言っていた『ルディア』の街、とやらへ向かうことにした。恐らくは、そのルディアがここから最も近い街なのだろう。ここから二時間なら、住民が完全に寝静まってしまう前には到着できるはずだ。
枯れ枝のような両脚を斜面に突っ張らせ、山林のうねうねとした坂道を下りきったころには、すでに日没を迎えていた。
月はない。ただ夜空を彩るのは、細かな砂金を振りまいたかのように映る銀河だけだ。
夜天を二分するその大河の星々も、本当は一つ一つ色が違うのだろう。赤、黄色、白、青と。だが今の俺の濁った眼では、どれも同じ真鍮色に見えてしまう。
……どうでもいいことだ。
無駄な感傷などやめて、俺は山裾の平坦な街道へと踏み入った。
星明りが照らす街道は、無人の原野を一直線に突っ切る、枝道などない細い道だ。
まだ宵の口だとは思うが、人の姿はない。
考えてみれば、俺が一旦目指すルディアは、あの冒険者どもの健脚で二時間、ということなのだろう。この杖にも劣る脚では、二時間での到着は無理かも知れない。
だが俺は歩き続ける。動きの悪い、朽ちかけの脚だが、逆に疲労感など皆無だ。おまけに空腹感も、死体の胃袋には無縁のもの。ただひたすらに、俺の腐った体は、街道の先にあるというルディアの街へと向かう。
どのくらい経った頃か、不意に後ろから人の声が飛んできた。
「おい、お前」
俺にも理解できる言葉だ。共通語だろう。同じ男の声が、背後から乱暴に命じてくる。
「止まれ。止まってこっち向け」
言われたとおり、俺は立ち止った。だがそれ以上は、腐乱した体が俺の意志について来られない。振り向くことができず、死体の俺はもたもたと立ち往生した。
ふらふらと芯もなく立ち尽くす俺の背後から、あからさまに不愉快そうな舌打ちが聞こえた。
次の瞬間、背中から何者かに掴みかかられたかと思うと、ざくっ、という鈍い音と振動が、俺の脇腹を襲った。
瞼のない目線を下げてゆくと、何か刃物が俺の脇腹に突き立てられている。
……ああ、そうか。“
そう気付いた俺の腹の底から、奇妙な可笑しさが込み上げてきた。
無一文の腐った死体から、こいつは何を奪おうというのだろう? 命だって、今の俺にはないというのに。
悲しいのか滑稽なのか、複雑に絡み合った妙な感情が、俺の固まりきった肺を大きく広げた。気管から押し出された濁った空気が、笑いにも似た音を立てる。
「キ、ヒ……」
自分でも呆れるほどに、人間離れした音だ。もうとても声とは言えない。
俺を捉えた辻強盗の手が、ぶるぶると震えはじめた。マントを鷲掴みにした指から力が抜け、その手が下へとずるずる落ちてゆく。続けてどさりと何かが地面に落ちた音が聞こえ、俺の体は自由になった。
ようやく振り返ってみると、一人の男が俺の足もとにへたり込んでいた。
星の光を浴びた、地味な身なりの痩せた男だ。黒い頭巾に白い覆面。顔を覆う布の隙間に見開かれた目が、絶望的な恐怖をありありと湛え、俺を見上げている。
俺は腰の少し上あたりに刺さった刃物の柄を握り、ずるりと引き抜いた。粘ついた黄色い腐汁の曳く糸が、傷口と刃をぬるりと結んでいる。
星明りに刃をかざしてみると、しっかりと研ぎ澄まされた、なかなかいい短剣だ。生きた人間なら、ひと刺しで殺されていただろう。
俺は短剣を手にしたまま、瞼のない両眼を揃え、辻強盗の目を斜に見下ろす。
その途端、路上に座り込んだ辻強盗は、びくんとすくみ上った。
「は、た、助け……」
引き攣った呻きを洩らし、皿のような目がぐるんと裏返ったかと思うと、辻強盗は仰向けに倒れて動かなくなった。
脅すつもりはなかったが、短剣を持つ腐った顔の死体に、剥き出しの目玉で睨まれたのだ。さすがに恐ろしかったと見える。
俺は関節をぴきぴき鳴らし、辻強盗の横に膝を着いた。
半開きの白目で倒れたままの辻強盗の男。胸は上下していて、小癪にもまだ息がある。
さて、どうしたものか……。
これから街へ入ろうという俺だ。まず何よりも、辻強盗さえ気絶するほど醜い俺のご面相を、何とかしなくては。この腐乱した、鼻も唇も、瞼もない死体の顔では、お話にもならない。
俺はぶっ倒れた辻強盗の頭に、小指の欠けた手を延ばす。頭巾を脱がせ、男の顔から覆面を引き剥がした。辻強盗の覆面は、細長い包帯のような布だ。これを顔に巻いておけば、怪我人のように見えるだろう。俺は即座に爛れ切った顔に包帯をぐるぐると巻き付けた。
まだ辻強盗は目覚めない。
次にその体から短剣の鞘とベルト、それに革のブーツを奪い取った。腐った皮膚の下に浮き出た腰骨の上にベルトを締め、短剣を鞘に収めると、くたびれたブーツに足を突っ込む。
最後に、俺は仰向けた辻強盗の懐から配布を拝借した。手には軽く、中身はさしてなさそうだが、死体の俺に食い扶持は無用だ。万一の時に、少し用立てばいい。
俺はぎこちなく立ち上がった。
地面に伸びたままの辻強盗を見下ろしながら、思考を巡らせてみる。
……今の状態なら、この辻強盗を殺してしまうのは、死んでいる俺でも容易いことだ。普通の人間なら即死の刺し傷はもらったものの、何か盗られたわけでは訳ではない。逆にこちらがこの男の命まで奪うには、忍びない。
放っておこう。
野獣か怪物に食われるかもしれないが、食われないかも知れない。これ以上は俺の知ったことではないのだ。
この男も、これが初めての辻強盗でもなさそうだ。仮にここでこの男が死んでも、それが応報というものだろう。
そう決めた俺は、辻強盗に背中を向けた。
その時、マントを揺らす夜風に乗って、鈴を振るような女の笑い声が聞こえたような気がした。
だがそんなことは気にも留めず、俺は夜の街道をふらふらと歩き出した。