三.戦禍の記憶 一
文字数 5,093文字
その裏返った声に当てられた俺も、突っ立ったままに顎を落とした。
……『マノ大尉』?
俺の脳裏に霞の緞帳が下がり、遠い戦火の幻影が映し出される。
闇の黒と燃え盛る炎の朱色に塗り分けられた、宵の山林。
木立に反響する兵士たちの怒号と、断末魔の叫び。
『マノ大尉!』
『マノ隊長!』
『ユステーヌ!』
それは、本当の俺のことなのだろうか……?
遠退きかけた俺の意識が、ユディートの明瞭な声に繋ぎ留められる。
「確かにこのひとは、“マノ”って呼ばれてるけれど、キミが言ってる『マノ大尉』かどうか、あたしは知らないから。キミの人違いでしょ」
彼女の言葉に、俺はぐらつく頸椎をぐっと支え、眼球をユディートへと向けた。この聖騎士の左の瞳が俺の視線を捉えた刹那、俺の腐敗が進んだ脳内から、白い靄が消し飛んだ。それを察したのだろうか。ユディートがにんまりと笑いかけてくる。どこか含みのある、それでいて何かを期待している、そんな眼差しだ。
漂う俺への信頼感が、何となく嬉しい。
いきなりだが、俺はエステルの用心棒、ということになったのだ。それらしく振る舞うべきだろう。恐らくユディートの表情も、そこを俺に期待していることの表れだ。
そう判断した俺は、ぴきぴきと関節を鳴らして胸郭を反らし、大げさにマントを揺らして肩甲骨を開く。片方の小指がちぎれた腕をこれ見よがしに組み、アンフォラを凝視した。
アンフォラが立ち尽くしたまま、肥え太った体を震わせて、俺に疑いのまなこを向けてくる。その茶色の目に澱んだ疑念と恐怖は、まるでぐつぐつと煮立てられたダークベリーのジャムのようだ。
「お、お前、本当に、マノ大尉じゃないのか……!?」
怖々と問いを投げてきたアンフォラ。その血の気の退いた顔を見て、俺はわざと人減離れした掠れた笑いを、歯の間から洩らしてやる。
「キ、ヒ……」
アンフォラの血走った両目が皿のように大きくなり、髪の毛がざわざわと逆立った。弛んだ頬も、ぶつぶつと粟立つ。
辻強盗さえ卒倒させた屍者の声だ。ただの中年の心胆など、一瞬で凍り付く。
アンフォラが情けなく眉を下げた、泣きそうな顔をユディートに向けた。当のユディートは、満足そうににんまりと笑うばかりだ。
そんな彼女に、目を剥いたアンフォラが早口に捲くし立てる。
「こ、こいつ
血相を変えて噛みついてくるアンフォラを前にしても、ユディートは涼しい顔だ。
実に気怠そうな態度で、中年男から視線を逸らす。
「あたしは”
適当な調子で軽く返したユディートが、細くくびれた腰の辺りから何か薄い物を取り出した。
「疑うなら、証拠を見せてあげるから」
俺が首を伸ばし、そううそぶいたユディートの手元へ視線を向けると、彼女が持っているのは銀色の円盤だった。掌に載るほどのその円盤は、コンパクトとかいう化粧道具によく似ている。
そんな銀色のコンパクトを左手に持ったまま、ユディートが右手で俺を差し招く。当然、いつものにんまり笑顔も一緒だ。
正直、彼女の手招きは危険な匂いしかしない。が、拒否はできないのもいつものことだ。
諦めの吐息を胸郭に溜めながら、俺は肩を怒らせた姿勢を保って、ユディートへとずるずる歩み寄る。
彼女から二歩開けて立ち止ると、ユディートが銀のコンパクトをぱちんと開いた。その中からスッと立ち上がったのは、小さな銀色の金属箔だ。淡い燐光を放つ燻し銀の欠片は、一枚の羽毛を象ってある。
コンパクトからわずかに浮き上がった銀の羽根は、すぐに軸を中心にしてくるくると回り始めた。
それを見て、アンフォラが悲鳴にも似た声を上げた。
「な、何だ!? それは……!!」
「“
ユディートが羅殯盤なる道具に、細めた左の目線を注ぐ。
「もう死んでる者と、次の日没までに死ぬことが決まってる者を指し示す道具」
ユディートの説明を聞いて、俺の全身が不安に打ち震える、気がする。
俺は”
だがユディートは、動揺する俺に構うことなく、手の上の羅殯盤を俺に近付けた。びくんと腐った体が反応してしまった俺、それにふうふうと息を乱して見守るアンフォラの前で、彼女の手の中の羅殯盤は、くるくると回り続けている。
意外だ。ユディートは羅殯盤が俺を指さないことを見越していたようだ。
「これで分かったでしょ? アンフォラくん」
密かに嘆息を胸郭に洩らした俺の前で、彼女が冷淡な微笑を中年男に向けた。
「今ここに死人なんて誰もいないんだから。ああ、ついでだから……」
彼女の微笑みが、にんまりとした魔性の笑みに変わった。意味ありげな流し目を俺に寄越しつつ、アンフォラにねっとりと告げる。
「キミが明日の日没まで命があるか、見てあげようかなあ……」
そう言いながら、ユディートがこれ見よがしに羅殯盤をアンフォラへと近付ける。
同時に、俺はマントの内側に手を入れた。あの辻強盗からせしめた短剣の柄を逆手に握り、腰の鞘からゆっくりと引き抜く。とうに死んで、さして握力もないこの手だが、奇妙にも短剣の柄は掌に吸い付くように収まってくれる。頭ではなく、この手が武器の使い方を覚えているのだろう
研ぎ澄まされ、ぎらぎらと筋状の照り返しを刻む刃を、俺は胸の辺りにゆるゆると翳す。
途端に、顔を引き攣らせたアンフォラが悲鳴を上げた。
「や、やめろ!!」
でっぷりとした全身の肉を震わせて、アンフォラがざざっと玄関口にまで飛び退った。脅え切った負け犬の目を俺とユディートに代わる代わるに注ぎ、いかにも悔しそうに言い放つ。
「お、俺は諦めないからな! このままじゃ済まさないぞ!」
そんな安っぽい捨て台詞を残し、中年男のアンフォラは白鷺庵から逃げ出していった。
元の落ち着いた静謐を取り戻した白鷺庵。
ユディートが玄関の扉を閉ざす傍らで、俺も短剣を鞘に収めた。ふう、と小さく息をついた彼女が、羅殯盤をぱちんと閉じた。左の目にいかにも面白そうな色を浮かべ、俺を見上げる。
「なかなかやるじゃない? キミ。あたしの見込んだとおり」
彼女の漆黒の瞳に、珍しく柔らかくも涼やかな光が宿る。
「キミ、自分の記憶は隠されていても、魂に刻まれた心の力は、かなりのものだから。胆力も、心意気も」
自覚は特にないが、こんな腐った他人の体でも、俺の性格はそれほど変わっていないような気はする。
それだけ言うと、ユディートは俺の右肩にちょっと指先を触れてから、無人のソファーにお尻をぼふんと落とした。
俺もローテーブルを挟んだ彼女の向かいに、ぎこちなく腰を下ろす。正面に見えるユディートの表情は、何事もなかったかのようだ。ただその伏しがち切れ長の左目と、ほんのりと綻んだ唇に、わずかな笑みの切れ端が残る。
何だか俺自身も、ちょっとした英雄にでもなったような気分だ。悪戯を成功させた腕白小僧が、ちょうどこんな気持ちだろうか。
ここで俺はユディートを真っ直ぐに見つめた。サロンでのこの出来事の間、ずっと抱いていた疑問を彼女に投げてみる。
「アレ、ハ、誰、ダ……?」
「ホセア=アンフォラ。この地方でも有数の豪商、“アンフォラ商会”の今の会頭よ」
ユディートが即座に答えた。感情を抑えてはいるようだが、左目の放つ光は険しい。
「もともとアンフォラ商会は、この地方最大の“マイリンク商会”の傘下にあった、一商店に過ぎなかったらしいの。でも……」
ユディートが憂鬱そうにため息をつく。
「そのマイリンク商会の頭目だったマイリンク家が没落して、アンフォラ商会がマイリンク商会を乗っ取った、って話。あたしがルディアに赴任してくる少し前のことみたい」
何故かユディートの肩からがくりと力が抜けた。
「だから背景は知らないけれど、お金と暇だけはあるのよ。あのアンフォラくんは。それでアンフォラくん、この白鷺庵に身を寄せるエステル=マイリンクに日々ご執心なのよ。全く、男って生き物は……」
呆れ切った調子で彼女が口にした名前に、俺の耳が遅れてぴくりと反応した。
「『エ、ステ、ル=マイ、リン、ク』……?」
「気付いた?」
一言だけ返したユディートが、哀切の漂う微笑を浮かべる。
「今、この白鷺庵に身を寄せてるエステルは、元をただせばマイリンク家の独り娘なの」
聖騎士の意外な告白に、俺は眼球を剥き、顎をだらしなく落とすより他にない。そんな俺の緩んだ顔を見ながら、ユディートが静かに続ける。
「マイリンク家は何かの理由で、全ての私財を投げ打ったの。それでも足りなくて、エステルは身売りをしたらしいのよ」
ということは、ああ見えてエステルもやはり娼婦、ということか。それにしては、娼婦という雰囲気が余りにもなさ過ぎる。一体どういう訳なのか……。
俺の疑問が聞こえたのだろう。ユディートが左の目線をテーブルの上へと逃がす。
「詳しいことは、あたしも聞けてないけれど、この白鷺庵の持ち主のマイスタさんは、マイリンク家と縁があったひとらしいの。だからマイスタさんが娼館の組合に掛け合って、この白鷺庵の専属の娼婦として保護してるのよ。異例のことらしいけれど」
「ココ、ハ、何ダ……?」
これも俺の根強い疑問だ。
この『別館 白鷺庵(アネクサム・カーサ・アルデア)』は、娼館とは少し違うようだが、恐らく似たような施設だろう。俺の推測に、ユディートは小さくうなずく。
「“連れ込み宿”。四部屋しかないけれど。そのうちの一つに、エステルを専属の娼婦として置いてるの。でも……」
そこでユディートが意味ありげな苦笑を洩らした。
「エステルに充てるお客は、マイスタさんが厳しく選んでるから、あたしが知る限り、エステルの客は常連が一人いるだけよ。マイスタさんの認めた男が、ね」
ユディートの表情が、不意に険しくなる。
「キミも聞いたでしょ? エステルは目が見えないの。そんな女の子が娼婦になったら、身勝手な男どもに何をされるか、分かったものじゃないのよ。特にあのアンフォラくんみたいに、暇を持て余した厭らしい男にはね」
……なるほど、エステルはそういう不幸な事情を抱えた少女だったのか。
もっと詳しい話を聞いてはみたいが、たぶんユディートはこれ以上の事情を知らないのだろう。もしかしたら、エステルのことを気にかけている女医ハーネマンなら、もっといろいろなことを知っているかも知れないが。
くきくきと独りうなずく俺に向かって、左目を細めたユディートが強い口調で力説する。
「これで分かったでしょ? エステルには、しつこい男が横恋慕してるの。だからマイスタさんやあたしがいない時、目の見えないエステルを護る用心棒が、実際に必要なのよ。そう言う訳で、今日からキミはエステルの用心棒なの。分かった?」
強引に宣言した彼女。
この白鷺庵に世話になる以上、俺も何かの役には立ちたい。確かに俺のこのご面相なら、大抵の男は見ただけで逃げ出してくれるだろう。それだからこそ、用心棒は俺にうってつけの役目だ。
もう一度深くうなずいた俺を、ユディートが憤然と指差した。
「分かったら、姿勢を正してちゃんと聞く! あたしが用心棒の心得をしっかりと教え諭してあげるから! いい? マノくん!」
ああ、またユディートの長いお説教が始まるのか。何だか彼女の欲求不満のはけ口にされている気がしないでもない。だが俺に拒否する権利は、認められていないようだ。
途端に、ユディートがぎろりと俺を睨んだ。
「ほらそこ! よそ見しない! 真面目に聞く!」