五.贖罪の行方 四

文字数 4,606文字

 夜空を飾る無数の星と、澄み切った湖の水。
 宵闇の中に白く浮き彫りになるユディートの裸身が、俺の目には余りに眩しい。
 すらりと締まった肢体、形の整った胸と尻。
 非の打ちどころなど、一つも見つけられない。

 だが、もはや彼女に迫れる手足も、反応する一物もなく、ただただ彼女を見つめるしかない俺だった。

 もちろんユディートは、そんな俺の事情など隅々まで知り抜いている。
 その上で、俺をからかっているのに違いない。

 ……本当に酷い聖騎士がいたものだ。
 不届きとしか言いようがない。

 ぱしゃっ、と水を跳ね上げて、ユディートが俯せに身を浮かべた。
 岸辺の草に両肘を着いた彼女は、頬杖で左の視線を向けてくる。
 その細めた左目の煌めきは、いつにも増して蠱惑的で幻想的で、そしてやはり小悪魔的だ。

 ふふーん、と甘ったるく笑って、ユディートが指先まで隙なく綺麗な両脚を、交互にゆらゆらさせる。
「だいぶ動揺してる? ダメだねえ、トバルくん。こんなことで焦っちゃうなんて、まだまだ修練が足りてないなあ。動じない心について、後でじっくり教え諭してあげないとね。ひいひいひい……おばあさまの名において」

 ……今度はついに説教か。
 やれやれだ。

 とは思いつつも、俺はもうそんなユディートに、抗い難く絡め捕られている。
 苦笑を抱きながら、受け容れる覚悟を決めた俺だった。

 ユディートが湖面を揺らして仰向ける。
 その身の美しい丘陵に湖水に漂わせ、満天の星々を眺める彼女。
 俺はそんな彼女を飽くことなく見つめる。
 憧憬と驚嘆、それに役立たずの劣情がほんの少し。
 それが今の俺の全てだった。

 どのくらいの時間が過ぎた頃か、仰向けに浮いたままのユディートが唇を開いた。

「ねえ、一つ聞いてもいいかな? トバルくん」

 仰け反る彼女の顔が、逆さに俺に向けられる。
 その表情は、これまでとは打って変わって真摯で、そしてどこか寂しげだ。

「本当の体を取り戻したとして、キミはこれからどうしたいのかな……?」
 ユディートの短い問いが、俺の意識の奥深くまで突き刺さった。
 雷にも匹敵する激しい衝撃に、俺の視界が白く塗り潰される。

 ……俺は体を取り戻して何がしたいのか?

 ユディートの根源的な問いが、俺の脳裏に響き渡った。

 ――体を取り戻す――

 それが俺の一番最初の目的だった。
 だが、それは何のためなのか、俺はこれまで一度も考えてはこなかったのだ。
 
 取り戻した体で、俺はどこへ行き、何をしたらいいというのだろう……?

 俺が生まれ、護り、そして護れなかった故郷ケルヌンノスは灰燼に帰した。
 俺の百人の仲間たちも、あの峠の戦いで全員が命を失ったのだ。
 もとより、俺に家族はいない。

 体を取り戻したところで、帰る家と迎えてくれる仲間たち、その全てを失った俺に、帰る場所など、もうどこにもありはしない。
 仮に軍人なり冒険者なり、庶民として、別天地に生き始めたとしよう。
 確かに、新たな場所では、俺の過去を知る人物に会うことなど、ほぼ皆無だろう。
 だが自分だけは、自分の身に刻まれた記憶だけは、欺くことが叶わない。
 その記憶は、『贖罪』の行方には関係なく、事あるごとに俺を苛むに違いないのだ。

 ……俺には、往くべき処も、戻る場所も亡くなった。
 体を得ても、俺のいるべき場所はない。
 もうどこにも……。

 気が付くと、俺の目から零れた涙が、腐った頬を伝っていた。
 言葉には尽くせない虚しさと悲しさ、それに空虚な恐れが凝縮された、濁った涙だ。
 
 とぷん、と水の揺れる音が聞こえ、ユディートが湖から上がってきた。
 
 濡れぼそった蠱惑の裸身を布で拭いた彼女が、その布を肩に被ったまま、俺の前に膝を屈める。

 静かな笑みを玉の唇に湛え、左目で俺を見つめるユディート。
 その彼女が、俺の思念を読み取って、静かに告げる。

「あたしが死ぬ日はね、トバルくん。トバルくんがキミの人生を最後まで生きて、それを五回繰り返した最後の日と、だいたい同じくらいかな」
 裸の彼女が、そっと俺を岩の上から持ち上げた。
 両手で持った俺の顔を見つめ、彼女がふふっと淋しげな息をつく。

「あたしは”樹精人(アルボリ・アールヴ)”で、キミは”人間(ホムス)”。”異人(デモス)”同士のあたしたちは、お互い最後までは一緒にはいられないの。寿命が違い過ぎるから……」

 ユディートが左目を切なげに伏せる。

「キミが体を取り戻しても、残りの人生は、あたしのためには使わないで。ごめんね、トバルくん」

 ……できるならユディートとともに生涯を終えたい、そんな俺の淡い期待は潰えた。
 だが彼女の言うことは正しいと思う。
 それが自然なのだから……。

 俺を持ったまま、裸体のユディートが草の上に胡坐をかいた。
 ゆったりと岩にもたれ掛かり、彼女は俺を小股の間に抱く。

「少し休んだらいいよ、トバルくん。あたしも、このままちょっとだけ休むから。見張りはゼテスがしてくれるもん、大丈夫」

 静かに囁いて、ユディートが俺の頭をそっと撫でる。

 ……すごくいい気持ちだ。
 主人の膝の上の猫、というのはこんな気分だろうか。
 いや、この温かさと切ないまでの安心感は、母親の胸の中のようだ。
 ああ、もう一度、その時まで戻れたら、俺はきっと……。

 譬えようもない安らぎに満たされて、瞼のない俺の眼球は何も捉えなくなり、俺の意識もどこかへと沈み込んでいった。
 俺の意識を引き戻したのは、東の空の仄白さだった。
 気が付けば、空も心なしか夜色が抜け、星々も色あせてきているようだ。
 
 夜明けが近い。

 いつの間にか、俺は平らな岩の上に戻されていた。
 ひんやりとした岩の感覚が、顎の下に敷かれた布を通して伝わってくる。

 眼球をぐるぐるさせて辺りを見回す俺の目に、ユディートの姿が映った。
 黒い霊馬ゼテスに寄り添い、何か語りかける彼女は、もう身支度を終えている。
 黒い衣装に焦げ茶色のコート、それに背中の弓鋸。
 昨日の白く目映い裸身は、すでに彩りのない衣服に覆い隠されてしまっていた。

 俺の眼球の動きに気が付いたのか、ユディートが俺の方へと歩み寄ってきた。

 白んだ夜を背に、ユディートの左の瞳が星々のように煌めいている。

「おはよう、トバルくん。起きたみたいだね。気分はどうかな?」

 前屈みに身を乗り出してくる彼女に、俺は眼球を上下させて応える。
 ユディートも、微笑を湛えたまま、小さくうなずく。

「よかった。ゆうべはすごく悩んでたみたいだったから、ちょっと心配しちゃった。それでね、トバルくん……」
 ユディートの左目から笑みが消え、真顔になった。
 その引き結んだ玉の唇から、彼女が囁くように俺に訊く。

「もうこのまま一気にアリオストポリまで突っ切って、パペッタの久遠庵に乗り込んだ方がいいと思う。ゼテスが全速力で翔ければ、今日の夕方にはアリオストポリには着けるから。キミはどう思う? もう少し考える時間が欲しい?」

 俺は考える。

 ……ユディートの提案は正しいと思う。
 道すがら思い悩んだところで、結局あの女屍霊術師(ネクロロジスト)パペッタが、素直に体を返すのかどうかも分からないのだ。
 それなら、とっとと久遠庵に乗り込んで白黒付けた方が、悩みが膨れ上がらなくて済むだろう。
 悶々としていたところで、どうしようもない。

 俺の腐った脳の出した答えが、ユディートにも伝わったのだろう。
 わずかに口元を綻ばせ、彼女が俺の頭に片手を触れた。
 俺を見る左の瞳に、悲母にも似た光が宿る。

「よく分かったよ、トバルくん。それじゃあ、もう休みなしに久遠庵まで突っ走ってもらうから」
 そう告げたユディートが、俺を昨日と同じように黒い薄布に包み込んだ。
 そうして、俺の頭を自分の首に結わえ付け、彼女は街道に佇んで待つ黒馬ゼテスへと歩み寄ってゆく。
 
 彼女の胸元に揺られる俺の後頭部は、温かく、そして柔らかい。
 劣情とは少し違う、何か懐かしい気分に囚われる俺だった。

 そんな俺の視界がゆらりと大きく揺れ、ふわりと浮き上がる。
 ユディートが、ひらりとゼテスに跨ったのだ。
 しっかりと手綱を握り、ふっ、と一息置いた彼女が、霊馬に向かってかって小気味よく告げる。

「お願い、ゼテス! アリオストポリまで、一気に連れていって!」

 ぶふっ、と鼻息で応えた霊馬ゼテス。
 ゆるゆると首を左右に振り、わずかに前脚を振り上げた。
 と、次の瞬間、この黒い霊馬は放たれた矢さえ超える勢いで、街道を翔け出した。
 ぶふっ、と鼻息で応えた霊馬ゼテス。
 ゆるゆると首を左右に振り、わずかに前脚を振り上げた次の瞬間、この黒い霊馬は放たれた矢さえ超える勢いで街道を翔け出した。

 まだ明け切らない街道を滑るように疾駆する、黒い霊馬。
 夜闇の優勢な僻地の道には、旅人の姿は見えない。
 まさに無人の野を驀進するゼテスだ。

 やがて太陽が東の森の梢から、プラチナシルバーの太陽が今日の誕生を果した。
 生命力に満ちた産声のように、朝の光が夜を追い払ってゆく。

 湖水を離れてどれくらい経っただろうか。
 代わる代わる現われてくる深い森と、清らかな湖水、それにまだ目覚めきらない小村を幾多も踏み越えて、霊馬ゼテスは疲れも見せずに駆け抜けてゆく。

 日が高くなり、街道に旅人の姿が見え始めた。
 見えない風になって疾駆するゼテス、それに騎乗する聖騎士ユディートの姿は、やはり誰にも見えてはいないようだ。

 同時に、周囲の景観が変化を見せ始めた。
 ここまでの道のりの大半を占めた森林と沼沢地は、きちんと区画の整理された田園が取って代わり始めた。
 街道筋の村や街も、その間の距離がだんだんと短くなってきている。

 間違いなく王都に近付いていると、実感する。
 アリオストポリまで、もうそれほど遠くはない。
 実体のない霊馬ゼテスの手綱を握ったユディートが、前を見据えたまま、布の中の俺に囁く。

「アリオストポリに着くのは、ちょうど日没と同時くらいだね。閉門に間に合うかな? どうしようかなあ……」

 そこで何を思ったか、ユディートがゼテスに視線を落とした。
 そして首を真っ直ぐ前へ伸ばしてアープの領土を翔ける霊馬に、彼女が短く問いかける。

「ねえ、ゼテス。キミはどう思う?」

 精悍な頭を進む方向へとぴたりと定めたまま、ゼテスの青白く光る眼だけが、一瞬ユディートを上目づかいに見遣る。
 続けて返ってきたのは、ぶふっ、と噴き出された霊馬の鼻息。
 それを聞き、ユディートがにんまりと笑った。

「うん、分かった。ゼテスに任せるね」

 ゼテスとユディートのやり取りが、俺の不安を掻き立てる。

 ……ユディートは、ゼテスに何を任せるつもりなのだろうか?
 得体の知れない少女と、体の見えない霊馬の結託。
 何か嫌な予感しかしないのだが……。

 途端に、俺の頭には二つの不機嫌な視線が突き刺さってきた。

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登場人物紹介

「俺」


”女屍霊術師《ネクロロジスト》”パペッタに魂を抉り抜かれ、他人の腐乱死体に押し込められ、動く死体の”屍者《エシッタ》”にされた男。

ほぼ全ての記憶を封印《ロック》されており、自分が何者なのか、どうして屍者にされたのか、分からないままに贖罪の旅へと送り出される。

女屍霊術師《ネクロロジスト》パペッタ


「俺」を動く死体の”屍者《エシッタ》”に仕立て上げ、”贖罪の旅”を強要する謎の女。

アリオストポリにあるという久遠庵《カーサ・アンフィニ》という店の主人でもある。

何故「俺」に贖罪を科したのか、その狙いは何なのか、「俺」に心当たりはない。

マイスタ


地方都市ルディアの歓楽街、通称”花街”に住む、気のいい老人。

人懐っこく誰にでも親切な老人で、誰からも頼られる存在。

歩く死体の「俺」に対しても親身に世話を焼く。

ただし、「俺」が”屍者(エシッタ)”だとは気付いていない模様。

ユディート=ユーデット=サイラ(Illus.紅音こと乃さま)


”死の女神モリオール”の小神格”死の太母(マーテル・マカブレス)”に仕える聖騎士の少女。

身分は”ユーデット聖廟騎士団筆頭従士(プライメット・エスクワイヤ)”。

見た目は十六、七の少女だが、人間ではなく”樹精人(アルボリ・アールヴ)”のため、実際の年齢は不明。

小神である”死の太母”の直系の子孫。武芸も祭文(魔術)の腕も、これ以上ないほどに確か。

捉えどころなく映りつつも、時には年頃の少女らしい一面も覗く。

武器は、背中に背負った弓ノコギリ”神鋸:年代記(クロニクル)”。死の太母から代々受け継がれている。

リベカ=ヴィラフランカ=ハーネマン


ルディアの花街に診療室を構える女医。

表と裏から娼婦たちの健康を守る、花街に欠かせない人物の一人。

赤い髪を清潔に結い上げ、しっとりと落ち着いた、眼鏡の美女。

ユディートとは姉妹のように仲がいい。

実は既婚者だが……。

エステル=マイリンク


マイスタが花街に所有する施設”別館 白鷺庵《アネクサム カーサ・アルデア》”に身を寄せる少女。

身分的には娼婦として、白鷺庵の中に個室を持つ。

不幸な経緯から娼婦となったが、実質マイスタの庇護下にあり、彼女の客はごくごく限られる。

ある不自由を抱える薄幸の少女でもあるが……。

ホセア=アンフォラ


ケルヌンノス地方の最大商家、アンフォラ商会の現在の会頭。

かつてはマイリンク商会の傘下にあったが、その没落とともに、屋台骨を乗っ取った。

小心で傲慢。エステルにご執心だが、マイスタが彼女には頑として会わせない。

ユディートを内心ひどく恐れている。

カイファ=ミザール


ケルヌンノス地方の有力な商家、ミザール商会の幹部。

まだ年若いが才覚を認められ、幾つかの商流(流通ルート)の采配を任されている。

ミザール商会もかつてはマイリンク商会の傘下にあった。

しかしその没落後も、マイリンク商会の姿勢を受け継ぐ、気骨のある豪商として知られる。

エステルとは恋仲にあり、マイスタが認めた「客」として、「娼婦」のエステルと逢瀬を重ねる。

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