五.贖罪の行方 五
文字数 4,666文字
滑るように霊馬が進む街道は、いつしか石畳へと姿を変え、行き交う人々も目に見えて増えてきた。徒歩の商人、仲間と連れ立って歩く冒険者の一団、それに何か荷物を満載した何台もの馬車。これはいよいよ王都に近付いてきたようだ。
天頂を過ぎ、下降に転じた日輪も、その色を白金色から黄金へと少しずつ変化してきている。
夕刻が迫りつつあるのだ。確実に。
俺がそう実感した時、ユディートの小さなつぶやきが聞こえた。
「見えてきたね」
俺も布の下から眼球をひん剥いてみた。と、遥か先に、褐色の建造物が小さく見えてきている。どうやら城壁と城門のようだ。まだまだかなり離れた位置にあるようだが、この距離を隔てて見えるということは、かなりの規模の城門だ。
俺の腐敗した脳漿に、素朴な疑問湧き上がってくる。
あの遠くに見える城門は、間違いなく王都アリオストポリのものだ。まだ結構な距離があるとはいえ、たどり着くのが日没後になるとはとても思えない。何故ユディートは『閉門に間に合わない』、などと言ったのだろう?
俺が訝る間にも、空を突っ切る霊馬ゼテスの俊足は、アリオストポリ城門までの道のりを猛然と削ってゆく。そして褐色の石の門も、その威容を次第に明確に見せてくる。高さといい横幅といい、ほとんど城砦にも等しい巨大な門だ。そのてっぺんで蟻よりも小さく蠢く点は、城門の守備兵たちだろう。昨日アープへ入国した時の検問所の門とは、比較にならない規模と迫力、それに重量感を誇る。さすがは王都の門だ。
黄金の太陽も、だんだんと地表に近付きつつある。この楕円を帯びてきた日輪が彼方の森の梢へ墜ちるまで、あと小一時間というところだろうか。
この調子なら、霊馬ゼテスも何とかアリオストポリの閉門には間に合うことだろう。
そう思った途端、いきなりゼテスが前脚を振り上げ、制動を掛けた。
ゼテスとユディート、それに俺の姿は、やはり街道を行く人々の目には見えていなかったのだろう。いきなり出現した馬と聖騎士へのどよめきが、後ろの方から聞こえてきた。
「おお!? 何だ何だ……!?」
「どこからこんな騎馬が……!? 危ねえなあ……!!」
「すげー……! いい馬にいい女……!!」
ユディートの胸に下げられた俺には、後ろのことは分からない。だがゼテスの目の前の何かが、この霊馬の疾駆をここで躊躇わせたのは確かだ。
布越しにゼテスの鼻先を改めて正視した俺は、ようやく気が付いた。
ゼテスの行方を遮ったもの、それは旅人たちの後ろ姿が作る人垣だった。ぼんやりと佇む者、バックパックを椅子代わりに座りこむ者、苛ついた様子で天を仰ぐ者。態度はいろいろだが、不規則ながら横一列っぽく並んだ人々は、俺たちに背を向けたまま、不機嫌に黙りこくっている。
これは一体何なんだ? 連中は何をしているのだろう? 何かを待っているようだが……。
首を捻る俺の耳に聞こえたのは、ユディートの苦笑にも似たため息だった。
「やっぱり詰まっちゃったね、ゼテス」
ぶふっ、と鼻息を噴き、不服そうに前脚で地面をしきりに掻く霊馬ゼテス。文字どおりの鼻白んだ様子の神の馬に、俺の脳裏にも苦笑いが湧いてくる。
それにしても、この群衆は何なのか?
馬上の高い位置から見下ろす人々の群れは、モザイク模様の長大な帯のように、王都の城門まで延々と続いている。
俺の疑問を感じ取ったユディートが、ふふっと笑った。その響きは諦念と同時に、何か善からぬ企みを予感させる。
「この大行列はね、トバルくん。アリオストポリへ入るための検問待ちなの」
……驚いた。これだけの人数が検問の順番待ちとは。一体どれだ念入りに、王都へ入る者を調べているのだか。
なるほど、ユディートが『閉門に間に合わない』と危惧した理由が、ここにきてようやく身に沁みた俺だった。
「アリオストポリは、他の国の王都と比べても、警護はとても厳重。来訪者ひとりひとりをじっくりと調べるから、検問に時間がかかるの」
確かに、このまま群衆の流れに乗っていては、いつユディートの順番が回ってくるのか見当も付かない。下手をすれば、時間切れで翌日に回されてもおかしくはない。
ユディートが、ふふーん、と甘ったるく笑った。
「運よく検問の順番が閉門前に回ってきても、ここの警備兵は本当に熱心だもん。あたしも持ち物もゼテスも、それにキミも隅々まで調べられるから。すぐにキミなんて“
以前にも聞いたユディートの脅し文句。さらに彼女は、ねっとりとした口調で付け加える。
「あ、ここの検問は、昨日の国境みたいに緩くないよ。あたしもキミのこと、説明しきれないから」
……それは、何かあっても俺を守れない、という開き直りなのか?
思念波を通じてユディートに聞いた俺。
だが返答はない。返ってきたのは、ひひっ、という小悪魔の笑いと、ちろっと舌を出す気配だけだった。
むっつりと思考を閉じた俺に構うことなく、ユディートがゼテスへと呼びかけた。
「それじゃあ、お願いするね、ゼテス。もう時間がないし」
彼女の言葉どおり、ここで少し待ったつもりだけで、もう陽は大きく西へと傾いている。日没ももう目前だ。検問を閉門までに終えるのは絶望的だろう。仮に検問を受けても、そこで俺が終わりになりそうだ……。
陰鬱な気分に襲われた俺に耳に、ゼテスのぶふっという鼻息が聞こえた。どういう訳か、非常に楽しそうに響く。
同時に、何を思ったかユディートが手綱を手放した。全てをゼテスに任せるという意図の表われだろう。
ついに小悪魔と霊馬の結託が発動するようだ。何をどうするつもりなのだか……。
不安しか感じない俺、それに鼻歌さえ交える余裕のユディートを乗せたまま、ゼテスがくるりと向きを変えた。軽快な蹄の音を立てながら、この霊馬は何を思ったか、群衆を押しのけて行列の最後尾へと戻ってゆく。
すぐに検問待ちの行列は途切れ、俺たちが列の最後尾へと下がった。それからさらに十歩ばかり街道を踏んだゼテスが、再びおもむろに行列へと向き返る。
と、思った瞬間、霊馬ゼテスは群衆の只中へ向かって、猛然と翔け出した。
……ぶつかる!!
脳裏に俺の叫びが響いた。
が、霊馬にすでに実体はなかった。目に見えない風と化した霊馬ゼテスは、旅人たちの肉体を素通りしながら、一直線に城門へと突っ走ってゆく。
ああ、そうだ。
二人は霊馬の特性を最大限に利用して、検問を突破するつもりなのだ。そういうことなら、確かに検問それ自体が無意味になる。ありがたい反面、やはり不安は拭いきれない。
しかし、この無法が聖騎士と神の馬のやることなのか? それに本当に、見つからないまま城門を突破できるのか……
霊馬ゼテスに全てを任せきった態度のユディートが、ふふーん、と嘯く。
「ひとの体は密度が薄いから、ゼテスは通り抜けられるよ。でも鋼鉄はどうだったかなあ。もしぶつかったら、あたしとキミは、そこで木っ端微塵かもね」
俺がぞわりとする間にも、ゼテスと城門との距離は、ぐんぐんと狭まってくる。あれよと言う間もなく、ゼテスが順場待ちの最前列へと躍り出た。
折しも、鋼鉄の巨大な城門は、ぎりぎりと唸りつつ、俺たちの目の前で閉じられてゆく。
ゼテスがさらに加速した。ぎんっ、という金属音が響き、俺とユディートの身が、風圧と過重に後ろへと流される。
そして三秒。
門扉がぴっちりと閉ざされる寸前、ゼテスはそのわずかな隙間をすり抜けて、城門の内側へと滑り込んだ。
茜と紺がせめぎ合う空の元、霊馬ゼテスは警備の衛兵が気付くより先に、何食わぬ顔をして街路を歩き出した。蹄鉄の音も軽やかに、いかにも得意げな足取りで、閉じた城門からそそくさと離れてゆく。
ようやく手綱を取り直したユディートが、ふふっと笑った。
「ありがとう、ゼテス。キミにお願いして正解だったよ。あとで美味しい林檎をたくさんあげなきゃね」
……ああ、ついにここまで来た。俺たちは、ついに到着したのだ。アープの王都、アリオストポリに。
俺の脳に、万感の思いがはち切れるばかりに膨れ上がる。
ルカニアの打ち棄てられた墓地から、“屍者(エシッタ)”として歩き出した俺。
冒険者に追い回され、辻強盗に襲われ、這う這うの体でルディアにたどり着いた。
そこで好漢マイスタ、女医ハーネマン、薄幸の少女エステルとその恋人カイファ、それに誰よりもこの聖騎士ユディートとの出逢いに恵まれた。
そして
しかしそれでも、俺はユディートと霊馬ゼテスの力を借りて、ようやくここまで来たのだ。俺にこの『贖罪の旅』を課した、女屍霊術師(ネクロロジスト)パペッタに会い、俺の本来の体を取り戻すために。
気が付くと、ゼテスは薄暮の街路の只中に立ち止まっていた。
広い石畳の道には、もうほとんど人の姿は見えない。城門からかなり離れたらしく、警備兵たちも追ってきてはいないようだ。
そこでユディートが、そっと霊馬に囁きかけた。
「もう少しだけ力を貸してね、ゼテス」
そう告げたユディートが、何か知らない言葉を唱え始めた。意味はさっぱり分からないが、聞き覚えはある。指で作った長方形で、俺の”銀の
「キミなら普通にみえるよね? ゼテス。この頭だけのトバルくんから出てる、“銀の緒”が。この“銀の緒”をたどってもらえないかな? あたしたちは、そこへ行きたいの。お願いできないかな?」
すると間髪を容れず、ぶふっと鼻息を噴いたゼテス。黄昏の中に悍馬の息と大きな目が、青白く光った。そして『容易いことだ』とでも言いたげな仕草で首を上下させ、この黒い霊馬はゆっくりと歩き出した。
確か噂では、この王都アリオストポリは、王城と広場を中心に、運河と居住区を交互に配置した同心円状の街だ。
その情報を裏付けるように、宙の一点に視線を固定したゼテスは、たくさんの角を曲がり、幾つもの橋、それに巨大な鋼鉄の跳ね橋を渡って、大きな広場の前にたどり着いた。
数百歩はあろうかという広大な敷地の向こうに、城郭の陰が宵闇よりも黒く浮かび上がる。これが王宮前の広場だろう。月に一度、バザールが開かれると聞いたことがある。
だがゼテスは広場へは踏み入らず、脇の通りを目指してゆく。
建物の合間を縫うような、込み入った裏路地を行くこと数分ばかり。狭苦しい袋小路の奥で、霊馬の脚が止まった。
左右を古めかしい塀で挟まれた、人の匂いが全く漂わない、うら寂しい空間。しんと静まり返った幅十歩もないの路地の突き当りに、一軒の建物がある。
飴色の壁に、白い石で組まれた玄関口。どこにでもありそうな、質素な佇まいだ。その鴨居の上には、小さな板が打ち付けてある。
再び歩き出したゼテスが、玄関の正面に立った。
わずかに見上げた鴨居の銅板には、共通文字でこう刻まれている。
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