四.審問 一
文字数 3,918文字
テーブルを挟んだ向かいのソファーから、若い商人カイファがうなだれた俺を見つめている。
俺から翡翠の眼差しを逸らさずに、彼が静かに問うてくる。
「カルヴァリオ隊長、なんですよね……? トバル=ルッカヌス=カルヴァリオ隊長。生きていたんですね……?」
俺はわずかに眼球を上げ、カイファの表情を窺う。彼の顔に浮かぶのは、一抹の懐かしさと、深い憐憫の情、そして自らへの悔悟の念だ。
瞼のない眼球を上目遣いにカイファへ注ぎ、俺はかすかな仕草でうなずく。
記憶のほとんどを取り戻した今、カイファの問いを否定はできない。
俺はトバル=ルッカヌス=カルヴァリオ。
ケルヌンノス山岳猟兵を束ねる隊長であり、マルーグ城砦陥落のためのマノ大隊第三中隊長。
そして、その大隊潰滅を招いた男だ。
死んだ体に魂がある以上、生きていると言えるかどうかは、微妙な状態だが……。
湧き上がる自嘲的な苦笑を、俺は胸郭の内側へと溜め込む。
カイファが低く抑えた口調で、そんな俺に囁くように、確かめる。
「……どうしましょうか? あなたがカルヴァリオ隊長だということは、伏せておいた方がいいですか? それとも……」
思慮に富んだ聞き方だ。さすがと言うべきか。
俺はかすかにうなずいて見せる。
「伏セテ、クレ……。折リヲ見テ、俺ガ、言オウ……」
「分かりました。お任せします。あなたのことは、今までどおり『マノ』さんとお呼びしますね」
応えたカイファの顔に、固い微笑が浮かんだ。
今この街に、灰燼に帰したというケルヌンノスの住民がどれだけいるのか、それは分からない。だがそのケルヌンノスを守るはずの山岳猟兵がマルーグ峠で全滅し、ケルヌンノスは守備するもののないままに、焦土と化したのだ。今さら、山岳猟兵の隊長だけがおめおめと名乗り出たところで、一体誰が快く受け容れるだろう……?
恐らく、カイファも同じ疑問を抱いたはず。
だが、彼は敢えて直截な聞き方はせず、持って回った言い方で、判断を俺に委ねたのだ。そういう優しい心根が、エステルの想いを射止め、マイスタの眼鏡に適ったのに違いない。
それにアープ人のサーラにも、深く信頼されていたのだろう。
俺はかくかくと身を起こした。
人間離れした仕草の俺を、カイファが曇りのない翡翠の目で見つめ、ふふっと淋しげに笑う。
「でも、カルヴァリオ隊長が生きていると分かって、少しほっとしました。ずっと遺体も見つからなくて、みんな気にしていましたから」
「済マナイ……」
心なしか、ルディアでの初対面の時よりも、記憶をほぼ取り戻した目で見るカイファの顔は、どこか鮮やかに映る。
そんな彼の顔に、純粋な疑問の色が浮かんだ。
「でも今まで、どこで何をされていたんですか……?」
だがその部分だけは、記憶が封印(ロック)されたままのようだ。だから俺には、こう答えるより他にはない。
「分カラナイ……」
何かの言葉が、俺の最後の記憶の封印(ロック)をこじ開けるとは思うのだが。
ここで俺は、向かいに座るカイファを正視して、彼を促す。
「エステル、ガ、待ッ、テ、イル……。モウ、行ッ、テ、ヤレ……」
「あ……? あ、はい」
ちょっと気まずそうに顔赤くして、カイファがソファーから腰を上げた。そわそわとした素振りも若々しい彼を見上げ、俺はぴきぴきと頭を下げる。
「イロイロ、ト、教エ、テ、クレテ、アリガ、ト、ウ……」
「あ、いえ、僕の方こそ、あなたのことを明かして下さって、ありがとうございます」
カイファの笑みに、ふっと陰が差した。自責の念が、彼の翡翠の目を暗く染める。
「……マルーグ峠の戦いは、元々はサーラの不始末が原因です。使用人の不始末は、雇い主の不始末なのだから、本当はマイリンク商会ではなくて、ミザール商会が贖罪を果たすべきだったのに」
……『贖罪』。
その言葉に心を戦慄かせつつも、俺は立ったままのカイファに疑問を投げてみた。
「タダイ、ト、サーラ、ノ、コトガ、何故、分カッ、タ……?」
「それは二通の手紙から知りました。一通は、店から黙って去ったサーラが残した置き手紙。もう一通は……」
カイファが目を伏せた。眼鏡の奥で、目元がわずかに光ったように映る。
「峠で戦死したタダイの懐に遺された、僕宛ての手紙です。検死に立ち会った軍医の方が、後でこっそりと届けてくれました。書いてあったのは、自分が何をしたのかと、サーラを庇う言葉だけ、でした。言い訳のようなものは、何一つ……」
「ソウ、カ……」
うつむくしかない俺に、カイファが言葉少なく、そっと告げる。
「僕は失礼します。また明日にでも……」
「ア、ア。オ、ヤス、ミ……」
カイファは恋人が待つ二階へと上がり、俺の孤独につきまとう静寂が、このサロンを支配した。しじまの中に、カイファが吐露した言葉が残響するようだ。
――贖罪――
カイファは、使用人のサーラがマルーグ城砦陥落の計画を洩らしたことが、自分の贖罪するべき不始末だと言った。
それならば、俺が贖罪しなければならない罪業は何なのか?『マノ大隊長』としてではなく、中隊長カルヴァリオとして。
軍律に背き、恋人に秘密を託した少年兵タダイを処断しなかったこと。
マノ大尉を説得しきれず、失敗が分かっていた戦いに計画大隊を追い込んだこと。
その結果、計画大隊はタダイも含めて、そのほとんどが戦死したこと。
あの生き残った西方兵士のエノスさえ、非情な境遇に置かれてしまったのだ。
さらには、計画を洩らした責任を負わされたケルヌンノスは焼き払われ、住民たちは暮らしの全てを失ったこと。
そして、マイリンク商会は私財をもって住民たちを救おうとし、さらにはエステルまで娼婦へと身を堕としたこと……。
指折り俺の罪業を数えた俺は、絶望するしかなかった。この数え上げた罪科の背後には、数えきれないほどの犠牲者が横たわっているのだ。
一個の死体にしか過ぎない俺が、何をどうしたら、これほどの罪を贖えるというのだろう? パペッタは、俺に何をさせたいのだ? あの女屍霊術師に会えば、贖罪の方途は本当に分かるのだろうか……?
打ちひしがれる俺の脳裏に、一つの言葉が浮き上がってきた
『苦悩、それ自体が贖罪の一部なの。挫けないで』
女医ハーネマンに託された、聖騎士ユディートの言葉だ。
俺はきちきちと、首をもたげた。
恐らく、ユディートは“贖罪”とはそもそも何なのか、その本質を理解している。俺が思い出したすべてを彼女に明かし、素直に教えを乞うなら、俺が何をなすべきなのか、何をすれば贖罪たりえるのか、往くべき途を示してくれるかも知れない。まあ、その時にくっついてくるだろう彼女の説教が、数時間で済むとは思えないが……。
だが俺は、初めて心の底から思った。
ユディートに逢いたい。得体の知れない、異人の少女の唇から綴られる箴言を、直接聞きたい。
しかし、もう夜も更けてきた。異人(デモス)とはいえ、深夜に女性の許へ押しかけるのは気が引ける。それに夜陰に乗じて徘徊するのは、動く死体そのものだ。冒険者連中や、噂の『第零局』の餌食にならないとも限らない。
それに何よりも、マイスタがまだ戻らない以上、留守番を放棄するわけにはいかない。やはりマイスタの帰りを待って、明日の早朝に、あのユーデット聖廟を訪ねるのが正解だろう。
そこで俺はふと思う。
そういえば、老人マイスタも不思議な人物だ。花街というものは、ここに限らず、複雑な因習やしきたりが幾つもあると聞く。マイスタは、この連れ込み宿、白鷺庵の主人だというが、そんな世界で一つの宿を所有するばかりか、娼婦たちや娼館からも頼られる男だ。
さらには他の娼婦からすれば、あり得ない特別待遇のエステルを抱えるなど、やはり何か特別な人物なのだろう。
程なく、サロンに詰まった静けさは、ガツンガツンというノックの音で破られた。
さらにガツンと鳴らされた音で、俺は確信する。
ぎこちなく玄関口に向かい、片手で扉を開けると、そこにはやはりマイスタが立っていた。
「いやー、遅くなって済まんかったねえ」
サロンに入り、後ろ手に玄関を閉じながら、マイスタは実に申し訳なさそうに謝ってくる。
「娼館組合の会合のほかに、ちょっと他の組織網の寄り合いも入っちゃってさー。待たせちゃって悪かったねえー、マノさん……」
まだ俺を“マノ”と呼ぶ、好漢マイスタだ。それをあえて否定せず、俺はぴきっと軽くうなずく。
「気二、スルナ……」
「本当にごめんねえ」
マイスタが、もう一度詫びを重ねた。
この好々爺の顔を見ると、彼を詮索しようという気が全く失せてしまうのが、実に不思議だ。間違いなく、マイスタからは何か滲み出ている、と思う。
そんなマイスタが、俺に人好きのする笑顔を見せた。
「そうそう、今夜もカイファさんが来てるじゃろ? 明日は朝一番にハーネマン先生がお嬢さまを診に来るって、さっき外で聞いてきたよ。わしが一日ここに居るでね、マノさんは気にせんでいいでね」
「明日、出テ、来テ、モ、イイ、カ……?」
「ああ、構わんよー。でも……」
快くうなずいたマイスタが、用心深そうに付け加えた。
「十分気を付けてね。この街じゃ見かけない怪しい連中が、花街をうろうろしとるでねえ……」