二.花街の少女 六
文字数 4,976文字
女医ハーネマンと女聖騎士ユディートの、何か重大な意味のありそうなやり取り。だがその内容など、俺には全く分からない。
結局俺は困惑を抱えたまま、ユディートに連れられて女医ハーネマンの診療室から離れた。
両腕で小さな包みを抱くユディートは、俺の先に立って路地の奥へと進んでゆく。
無言のまま、俺の崩れた歩調に合わせてくれる彼女。ハーネマンと会って用事が済んだのか、時間的にも気分的にも少し余裕があるようだ。しなやかな黒猫を思わせるその背中では、鞘に収められた神のノコギリが、ユディートの歩みに合わせて揺れている。
そんな彼女の足は、街の城壁の方へと向いている。
この辺りは倉庫のような無人の建物が多いのか、人影もほとんど皆無に近い。
そうして十数分。
ずりずりと足を引きずってたどり着いたのは、城壁沿いに確保された、恐ろしく細長い区画だ。路地と敷地とは、頑丈な黒い鉄柵で厳重に分けられている。
俺は黙ったままのユディートの後について、鉄柵沿いに路地を行く。
鉄格子を思わせる柵の向こう側を覗いてみると、その内側は土がむき出しの地面だ。畑にも思えるが、煉瓦や石で敷地を区切り、緑の庭木や花を植えて庭園風に仕立ててはある。しかし人の姿は見えず、ぽつりぽつりとたたずむ石碑の影が見える。
墓地だろう。人の姿がないのも道理だ。
すぐにユディートは、長い柵の一角に設けられた鋼鉄のアーチをくぐり、敷地の中へと踏み入ってゆく。俺も遅れないように彼女の後を追う。
遊歩道風の径(こみち)を通り抜け、彼女と俺は敷地の奥にひっそりと鎮座する建物の正面に立った。
「はい、到着」
それだけ口にしたユディートの隣で、俺は目の前の建物を見上げた。
白い大理石で造られた、円い平屋だ。
屋根は二段のドーム型、緑色の陶板を魚鱗状に葺いてある。窓はない。俺たちの三歩前の壁には、アーチ形の両開き扉が付いている。ノブは鈍色の鉄環、鴨居には『ユーデット聖廟』という共通文字の板額が掲げてある。
俺は女医ハーネマンの言葉を思い出した。縮んだ肺を膨らませ、俺は短く問いを吐く。
「ココ、ガ、聖、廟、カ……?」
「そう。ここがルディアの”ユーデット聖廟”。ひいひいひい……おばあさまと“
答えたユディートが布包みを抱いたまま、肩から扉にのしかかる。すると扉は軋みもせずに押し開けられ、彼女はためらうことなく聖廟の敷居を跨いだ。
俺もユディートに続き、聖廟の開け放たれた扉をよろよろとくぐった。
聖廟の内側は、周りをぐるりと壁に囲まれた、真円の空間だ。家具の類はもちろん、祭壇も絵も、彫像もない。あるものと言えば、大理石の床の中央に真っ直ぐ衝き立つ光の柱だけだ。その光源は天井に空いた丸窓だろう。
『聖廟』とか『神殿』と聞き、仰々しい装飾であふれかえっていると俺には、いささか拍子抜けだ。
するとユディートの甘ったるい笑いが、ふふーん、とこの白亜の空間に反響した。からかうような響きが、重層的に俺に届く。
「今キミ、ここが殺風景だって思ったでしょ?」
またもや図星を指され、俺はぎちっと仰け反った。向き直ってみると、俺の横に立ったユディートが、細めた左目で俺を悪戯に流し見ていた。
「本当に不可侵な至聖所は、こういうものなんだから。そういう本質を分かってるひとは、少ないけれどね」
ユディートの目が、正面を向いた。
彼女の視線の先を追うと、このささやかな聖廟に立てられた光の柱の根元を捉えている。
聖廟の中心の床に描かれているのは、漆黒の二重円だ。エナメルの象嵌だろうか。直径はひとの肩幅程度、光沢のある黒い線は、何かの紋章を象っている。いわゆる魔法陣とか聖印というものだろう。
ハッ、というユディートの吐息が不意に響いた。決意と思いきりの込められた、小気味いい息だ。
「……始めるね」
何のことだか理解できず、首をいびつに捻った俺だった。だが俺は、女医ハーネマンとユディートが交わした別れ際の会話にすぐ思い当った。
この聖騎士の少女は、何かの儀式を挙行するのだろう。俺は掠れ声で念を押してみる。
「外ソウ、カ……?」
「別にいいよ。むしろ屍者くんは、見ておいた方が……」
意味ありげなユディートの即答が、不意に途切れた。くるっと向き直った彼女の漆黒の左目が、驚きに円く見開かれている。
「ねえ、キミ。屍者なのにそんな風に気が回るなんて、やっぱり普通じゃないよ。そこまで本来の精神を保ってる屍者は、初めて見た」
女聖騎士のその目が、すうっと細められた。
「本当のキミって、実はすごいひと、なのかもね」
彼女の口元に浮かんだ曖昧な笑みはそこで消え、真剣な口調で俺に言う。
「壁際まで下がってて、屍者くん。巻き込まれたくなかったら」
彼女の忠告を受けて、俺はじりじりと聖印から離れ、緩やかに弧を描く白い壁まで退いた。
俺が十分な距離を空けたのを見て取り、ユディートが床の聖印の前に立った。両膝をかがめ、跪くようにして、胸に抱いた包みを聖印の中心に優しく安置する。
「もうすぐだから。もうちょっとだけ、待っててね」
包みにそっと囁きかけて、ユディートがすっくと立ち上がった。
しなやかな背筋を凛と伸ばし、天を仰いだ彼女は両手を高々と差し上げる。そして何かを詠唱し始めた。
水晶の器の縁を、濡れた指で擦るような、澄んだ高音の声。
昨日の白鷺庵から聞こえてきた歌声を思い出す。ユディートの歌うように紡がれる言葉も、俺には理解できない。だがその子守歌にも似た哀愁漂う詠唱は、瘴気の溜まった俺の胸をぐうっと締め付ける。
だんだんと、ユディートの全身に夜色の靄がまとわりついてきた。
ぱりぱりと毛羽立つ音がして、蛇のような昏い紫電が、曲線美を誇る彼女の体に幾筋も絡み付く。
同時に、床の聖印がぐるぐると回り始めた。轟轟という風の猛りが、聖廟の中に響き渡る。
天窓から差す光も、目映さを不自然に増してくる。
光に吸い上げられるように、布の包みが猛然と回転する聖印からゆっくりと浮き上がった。
自分の目を疑い、目玉を剥くばかりの俺の前で、女医ハーネマンから託されたガラガラも、一緒に宙へと持ち上がってゆく。
布の包みが緩み、中から小さな光の玉が現れた。
完全な純白の、無垢な光の塊。
今の俺なら分かる。
あれは、あの光は生まれたばかり、いや、この世に生を享けられなかった魂だ。
光の中から、何か聞こえてくる。
笑う声だ。
どこまでも無邪気で透明で、罪のない嬰児の声。
感覚のないはずの俺の胸に、何かがぐうっと衝き上げてくる。
俺の腐った体が、じんじんと打ち震えているのが分かる。
感動、憐れみ、驚嘆。
何とも言いようのない、長いこと忘れていた複雑な感情が、俺の体を鷲掴みに捕らえた。
体を強張らせ、茫然と突っ立つばかりの俺の視界が、水が張ったように揺らめいてくる。
どうしようもない切なさに、胸が潰れる。
天窓から差す光の中に、何かの形が浮かび上がってきた。
女性の手だ。
ぼんやりとした大きな二つのしなやかな手が、光の玉へと差し伸べられてゆく。
そして、その両手が光の玉をそっと受け止めた瞬間、この聖廟の内側は真っ白な光輝に祖洗い晒された。
圧倒的な質量と光量が瞼のない俺の目を灼き、俺は仮初の盲目へと換えられる。
俺が明るい闇から解放されたときには、もう聖印の中には何も残ってはいなかった。
聖廟は、不思議なできごとがまるで夢だったかのように、もとの静けさを取り戻している。
そのしじまの中に、両手を下ろしたユディートの低い声が響いた。
「……“イテ、リトゥス、エスト”」
その意味の分からない言葉を最後に、沈黙したユディート。
深く静かな呼吸を繰り返し、華奢な両肩をゆっくりと上下させる彼女へ、俺は問いを投げてみる。
「何、ヲ、シタ……?」
ユディートが、おもむろに振り返る。
「あの子の魂を、ひいひいひい……おばあさまに託したの」
答えた彼女の横顔が、複雑な表情を湛えている。ほのかな笑みの浮かぶ口元に、哀しさと憤りの渦巻く左の瞳。
「愛のない営みから宿った命、望まれず生を享けられなかった魂を、もう一度輪廻の環の中に返してあげること。それも、あたしたち死の女神に仕える祭司の役目、だから」
天井を見上げたまま、ユディートが目を伏せた。
「ここは娼館街。愛のない営みの結果、身ごもってしまう娼婦も少なくない。そういう娼婦の中には、どうしても産むことが許されないひと、産むことが危険なひと、それに産んでも育てることができないひとがいる」
この女聖騎士の目許に、涙が光ったように思えた。
「どうしても堕ろさなければならないとき、そういう“処置”を独りで引き受けちゃってるのが、あのハーネマンさんなの。女のひとの気持ちも体も、女のひとでないと本当の意味で理解できない。だからこの娼館街の医者は、女医さんなのよ。あのひとも、この娼館街になくてはならない、大切なひとなんだから」
堕胎医、か。
後ろ指をさされ、心無い陰口の対象となる、後ろ暗い裏仕事の医師だ。そんなものに手を染めざるを得なかった女医の想いが、俺には本当の意味で理解できないしても、どこか痛々しく感じられる。
ユディートが、憂いに満ちた吐息をついた。
「さっきハーネマンさんの診療室の扉に、百合の花輪が掛かっていたの、キミも見たでしょ?」
「見、タ……」
「あれはね、ハーネマンさんの“処置”があって、輪廻の環に返さないといけない魂がいるっていう、あたしへの合図なの」
聖騎士ユディートが、俺を正視した。
「だからあたしは、ハーネマンさんの診療室に百合の花輪が掛かっていないか、毎晩確かめに行くのよ。昨夜もハーネマンさんの花輪を見た後で、白鷺庵に様子を聞きに行ったときに、キミとマイスタさんに出会ったの。話はできなかったけど、歌が聞こえてたから安心した」
彼女の俺を見る目が、細くなる。酷薄な冷たい光が宿り、腐って感覚などないはずの俺の体が凍り付く。
「ねえ、キミも娼館で女の人を買ったこと、あったりするのかな……?」
ものすごい迫力だ。返答次第では、この場で解体されてしまいそうな、圧倒的な威圧感。さすが聖騎士だ。
だが元々の記憶が欠落している俺だ。本当のことも言えなければ、嘘もつけない。今ここで俺が答えられるのは、一言だけだ。
「分カラ、ナイ……」
「ふーん……」
何か馬鹿にしたような相槌を入れたユディート。凍った剃刀の左目から、少し厳しさが薄れたようだ。それでも非難がましい眼差しを俺に送りつつ、文句をぶつけてくる。
「でも大体ね、シたらデキるの! 分かるでしょ!? “ツクるためにスる”んだから! そんな単純な真理も忘れるなんて、人類もどうかしちゃってるのよ! キミ、分かってる?」
立ったまま、ユディートが不快感も露わに腕組みした。そのまま前屈みに身を乗り出すようにして、俺を凝視する。
「地上の人類は、体も事情も抱えてるから、それ自体は否定しないけど。だから本当は、人類は地上に生まれてこない方が幸せなのよ。大昔、ひいひいひい……おばあさまたちが考えたように」
ユディートの左目が、またもや細くなってくる。
「男っていうのが“出せば落ち着く”生き物なのは、理解してあげるけど。でも誰彼構わず出したら終わり、っていうその姿勢が、全人類共通に無責任過ぎるのよ! もっと考えて欲しいわね、男って生き物は!」
そこでユディートが、俺に向かって憤然と床を指さした。
「キミ、ちょっとそこ座って! ハーネマンさんがここに来るまで、しっかりと教え諭してあげる。 ひいひいひい……おばあさまの名において」