六.おわり ――次のはじまりへ――
文字数 4,916文字
だがすぐにグッと上げた顔を、神妙な態度で佇む黒衣のパペッタへと向けた。
「ねえ、パペッタ。ここはキミの“至聖所”だよね? 借りちゃっていいかな?」
「どうぞ」
即座にうなずいた女屍師パペッタ。
その透徹したガラスの目が、生き生きと煌めいている。あれは飽くなき好奇心と探求心の光だ。
「死の太母の“輪廻回帰の秘儀”、私もぜひ見学したいわ。構わないかしら?」
「いいよ。このトバルくんに贖罪を課したのはキミだもん。キミには、最期まで見届ける権利と、義務があるからね、パペッタ」
素っ気なく答えてから、羅殯盤を腰へとしまい込むユディート。代わりに何か黒い小さな欠片を取り出しながら、思い出したようにパペッタに言う。
「あ、ねえ? パペッタ。
びくんと仰け反ったパペッタ。
黙ったままの女屍師を尻目に、ユディートが俺の体の前に両膝を着く。彼女は手にしたコンテの小片を使って、俺の体を囲むように円い図形を引いてゆく。
その手を休めないまま、ユディートが淡々とパペッタに言葉を投げる。
「キミも、これ以上“
ユディートが、ゆっくりと立ち上がった。霊魂だけの俺の前に凛と姿勢を正し、ユディートがそっと両手を差し伸べてくる。
「ここまで、本当にありがとう。トバルくん。いろいろあったけれど、すごく楽しかった。それに、エステルもハーネマンさんもカイファくんも、キミがその体を犠牲にしてくれなかったら、助からなかったよ。キミはあの子たちの命の恩人、まさに英雄だったね」
礼を言わなければならないのは、俺の方だろう。
見ず知らずの腐った屍者の俺を庇い続け、贖罪を成し遂げさせてくれたのは、他でもないユディートだ。それにマイスタにも、リベカにも、カイファにも、感謝してもしきれない。本当にありがとう。こんな結果になって、済まないが……。
でも俺は、ユディートたちのことは、絶対に忘れない。
俺の思念波を受けて、ユディートがにんまりと笑う。この見慣れた小悪魔の笑みは、わざと作ったものだ。彼女の左の瞳から、薄く涙が滴る。
初めて見る、ユディートの涙。まるで体があるかのように、俺のどこかに深く痛みが切り込んでくる。
「あたしたちも、キミのことは忘れないから。でも、キミはあたしたちのこと、一度は忘れるの。その果てに、もう一度廻り逢えたらいいね、トバルくん。たぶんきっと、そうなるけれど。さよならは言わないから、少し休んだら、またおいで」
謎めいた言葉を綴ったユディートが、両手に包んだ俺に、そっと薄桃色の唇を寄せる。
最初で最期の接吻。
思念波で繋がれた俺とユディート。
俺の彼女への想いこそ繋がれはしなかったものの、彼女には全て伝わっている。だがユディートの俺への想いは、俺には伝わらないように、巧妙に隠されている気がする。
それだけで、俺にはもう十分だ。
こくりとうなずいたユディートが、俺をそっと両手から解き放った。そして右肩に突き出した弓鋸をすらりと抜き払い、虚空を一閃する。
何かが切れた。
それ以外の感覚は、俺には湧いてこない。だが何が切られたのか、俺にはすぐに分かった。
――
ついに俺の魂は、体から切り離された。横たわる俺の体は呼吸を止め、心臓の拍動も静寂へと置き換わる。
俺は、死んだのだ。
背中に弓鋸を収めたユディートが、死霊となった俺を床に引いた円の内側へと押し遣った。そして死体の上を漂う霊魂の俺にわずかに手を振って、彼女は美しい背中を凛と伸ばし、両手を高々と上げて天を仰ぐ。
身を震わせながら、彼女が歌うように詠唱を始めた。
水晶の唸りのような、硬質で澄み切った声。
ルディアのユーデット聖廟で目にした、嬰児の魂を送った時と同じ呪文だ。だが今の彼女の祈祷は、息が詰まるように途切れ途切れに綴られる。
ユディートの全身が、夜の帳にも似た暗い霧に包まれた。その彼女の肢体をぱりぱりと這い回る、紫の電光。
聖騎士が描いた黒い円が回り出した。
低い唸りを上げながら、猛然と回転する聖印の中で、ただの肉塊と化した俺の体が、砂の楼閣のように、さらさらと崩れてゆく。
計り知れない高みから差す光が徐々に強くなり、霊魂の俺は、その光へと吸い上げられてゆく。
そして俺は感じた。
大きな女性の両手に、俺が抱き止められたのを。
懐かしい母の腕に抱かれたように、俺の中から全ての苦悩、後悔、悲しみが洗い流されてゆく。
これで俺の地上での業は、全て終わったのだ。
そう心の底から感じたのと同時に、俺の意識はどこかへ溶け込むようにして消失した。
……心地よい温もりに包まれた、小さな空間。
狭い隧道を通り抜けて、俺はそこから抜け出してきた。
ああ、寒い……。
そう思ったのと同時に、身動きもままならない俺の小さな体は、温かな布に包まれた。同時に誰かに抱き上げられ、俺は何だか小さくなった手足を、さらに縮こませる。
ここはどこなのか……?
何も分からないままに、俺はゆっくりと目を開けた。途端に聞こえたのは、しっとりとした女性の声だった。
「あっ、目が開いた」
やけに重い首をようやく動かした先に見えたのは、赤い髪をきちんと結い上げた、少し年増な眼鏡の美女。
ああ、女医のハーネマンだ……!
眼鏡の向こうの穏やかな蒼い瞳、最後に俺が会った時のままだ。その彼女が、眼鏡を提げた裸の瞳で、俺の顔を覗き込んでくる。
懐かしいリベカ。相変わらずの理知的な美女ぶりだ。
「笑ってる。人見知りしない赤ちゃんね。さすが男の子だわ」
リベカもにっこりと笑う。
「やっぱりお姉さんとは、だいぶ違うわね」
「ええ、そうかも」
ふふっ、と柔らかな笑いとともに、うら若い女性の声が、俺の頭上から聞こえてきた。重たい首を傾げて見上げた途端に、俺の頭はハーネマンの手で支えられる。
「ああ、危ない。首も座ってないのに、腕白な子。誰に似たのかしら? “お父さん”は、無茶はしないひとでしょ?」
「うーん、そうでもないかも……」
うふっ、と品よく笑う女性の声。
「あの時、腕に覚えもないのに、わたしたちを助けに来てくれたひとだもの」
「ああ、そうだったわね」
女医ハーネマンが、深い吐息をついた。
「あれから、もう一年以上経つのね。早いわ。時の経つのは……」
「ええ、本当に」
リベカの苦笑に、穏やかな吐息で応える女性。
この女性が、俺を抱いてくれているようだ。見上げた俺の目に映る、翡翠の瞳と束ねられた栗色の髪。それに、白く愛らしくも、どこか芯の通った強い面差し。
ゆったりとした清潔なベッドの上で、身を起こしたエステルだ。
最後にあの倉庫で見た時よりも、心なしかふっくらとして、どこか大人びたように見える。彼女の無事が、俺を心から安堵させる。
エステルの枕元に座るリベカの物言いから察するに、俺たちがあの第零局の連中からエステルたちを救い出してから、一年以上が過ぎていたようだ。
俺に注がれるエステルの眼差しは、やはりどこか遠い。彼女の目は、見えないままなのだろう。それでも彼女の腕の中にいる俺に、エステルは曖昧ながら温かい眼差しを注ぎ続ける。
そんなエステルに、リベカが聞く。
「それで、今日は“お父さん”はここへは来ないのかしら?」
「カイファ、娼館組合のひとたちとマイスタさんと一緒に、夕方まで話し合いだって。白鷺庵を託児院に改造するために、決めることがたくさんあるみたい」
「ああ、それはそうかも知れないわね」
リベカが落ち着いた笑顔でうなずく。この眼鏡の女医の瞳には、心の底からの安心が浮かんでいる。
「連れ込み宿から、娼婦の子供たちを預かって育てる施設への変更なんて、前代未聞だって話だもの。でもその資金も、エステルさんの借金も、あの魔術師の団体が口止め料で払ってくれてるから、安心だけれど。これで私たちの仕事が少しでも減るのなら、すごく嬉しいわね、ユディートさん」
……『ユディート』!
この名前が、俺の胸の奥まで突き刺さる。体をびくんと震わせて、つい仰け反るようにぐるぐると頭を回す俺。
リベカが苦笑を洩らしながら、壁際へと視線を向けた。
「よく動く子ね。元気でいいけれど」
途端に聞こえたのは、ふふーん、という甘ったるい少女の含み笑いだ。
その小悪魔的な笑いの聞こえた方へ、俺は何とか顔を向けてみる。
……いた。
涼やかな風と、爽やかな陽光とが差し込む窓辺に立つ、右目を長い前髪に隠した
間違いない。あの聖騎士の少女ユディートだ。
彼女の凛とした変わらない姿が、俺の胸を熱く詰まらせる。
今の彼女は、胸に抱いた一人の赤ん坊を優しくあやしている。白い肌に栗色の髪、ユディートの子ではなさそうだ。
それ以外は、最後の別れの時と、何も変化はないようだが……、少し肥えた気がしないでもない。
途端に、ぎんっ、と俺を睨んだユディート。
そういう鋭過ぎる勘も、ちっとも変わらない。
それとも俺の思念波は、まだ時を超えてもユディートと同調しているのだろうか……?
苦笑を覚えつつも、俺はふと訝る。
それとも、もしかして彼女は、俺が俺だと気付いている……?
俺を見つめるユディートが、ふっくらと微笑んだ。彼女の左の瞳が、わずかな湿り気を帯びて映る。
そのユディートが、赤ん坊を抱いたまま、俺の方へと歩み寄ってくる。
「弟くんも、起きたみたいだね。ちょっと抱っこさせてもらっていいかな?」
「ええ、どうぞ。ユディートさん」
エステルが答えると、ユディートは腕の中の赤ん坊を傍らのリベカにそっと託し、代わりに小さな体の俺を抱き上げた。
腕の中の俺を見下ろして、ユディートがにんまりと笑う。彼女の黒い左の瞳に映る俺は、生まれたばかりの赤子の顔だ。
そんな嬰児になった俺に、ユディートが小さく囁く。
「キミの人生は、今日、またゼロから始まるの。キミのお姉さん、お母さんのエステル、それにお父さんのカイファくんを、よろしくお願いね。キミのこの記憶は、魂の底だけに刻まれて、もう思い出すことはないと思うけれど……」
……そうだったのか。
小さくうなずく俺に、ユディートが微笑む。
「次に目を覚ますとき、キミは今までのことを忘れた新しいキミとして、次のはじまりを切るの。安心して眠ってね。キミが忘れても、あたしが覚えてるから」
ユディートの言葉が終わるのと同時に、猛烈な睡魔が俺を襲う。もう目を開けてもいられず、瞼が独りでに閉じてくる。
そんな俺をエステルに返しつつ、ユディートの問う声が聞こえた。
「それで、この子の名前はもう決まってる? エステル」
「ええ」
エステルが即座に答えた。
「カイファと一緒に決めた名前があるの」
意識の遠退く俺を胸に抱きながら、エステルが囁く。
「わたしたちの恩人の名前をもらおうと思って。ね? いいよね? ”トバル”……」
――了――