四.審問 六
文字数 4,323文字
いきなり襲い掛かってきた第零局の男に、彼女は何をしたのか? おぼろげな推論さえ立てられず、俺は肋骨と腐れた脳の内側に無数の疑問符を抱え、ただ立ち尽くすばかりだ。
そんな俺を前にして、ユディートが左の目を意味ありげに細めた。
「ひとはね、この地上に生まれてくるときに、自分の“終わり”を決めてくるの」
「『終、ワリ』……?」
彼女の言葉を繰り返した俺に、彼女がうなずく。
「そう。つまり自分がいつどうやって死ぬのか、自分の”第二の誕生日”、つまり命日と死に方を、ね。普通のひとは、それを覚えていないだけ。あたしたちが持つ“
彼女は、床に転がったままの魔術師の亡骸を、横目に流し見る。
「ねえ、トバルくん。キミは”
問われた俺は、かくんとうつむいた。
実のところ、俺はその組織のことは、エノスの忠告以上のことは何も知らない。
それを察したのか、ユディートが醒めた口調で語る。
「“
ユディートが、第零局の男の死体から目を逸らした。
「この第零局の坊やも、自分で知らなかっただけで、今日を第二の誕生日と決めて、生まれてきたの。
……なるほど。
あのランタンの黒い男が、噂に聞く“死神”という存在か。霊魂を死後の楽園、“樹上の世界”へ導く案内人だという……。
ユディートは、死神のような恐ろしい存在を自由に召喚できたりするのだろうか? 改めて、このユディートという少女の得体の知れなさと頼もしさ、それに言葉では言い尽くせない妖しい魅力に囚われる俺だった。
何だか落ち着かない気分に襲われる俺の傍らで、ユディートが嘆息とともに天を仰ぐ。その横顔に溢れるのは、遥か超越的で大いなる愁い、だろうか。
「人類はね、生まれてこない方が幸せなの。全てのひとが誕生の前に暮らしていて、死とともに還る“樹上の世界”には、何の苦しみもないんだもん。だから、この苦しくて辛い地上の肉体世界から、ひとを樹上の楽園へできるだけ早く解放してあげること。それが、あたしたち
ユディートの語る教えを聞き、心の目を閉じた。彼女が綴る死の女神の教えは、確かに正しいと思う。苦しいことや哀しいことは、この世には数えきれないほど満ち満ちている。生きるために身を売ることも、戦禍に巻かれることだって、その一つだろう。
だが、そればかりではないはずだ。望まれて生を享け、喜びに満ちた人生を送る者も、この世には間違いなく、少なからずいるのだから。
半分崩れて固まった俺の死人顔だが、それでもしんみりした表情をしていたのだろう。ユディートの手が、俺の右腕にそっと添えられた。
「でも、キミの言いたいことも分かるよ、トバルくん。あたしも、この地上世界を完全に否定はしないつもり。あたしもマイスタさんも、ハーネマンさんもエステルも、それにこの花街のみんなが、生きてる世界だもん。もちろん、キミだって……」
彼女の仕草と言葉が、俺の胸郭をきゅっと惑わす。だが、そこで俺を見上げるユディートの左目が、またすうっと細くなった。
「……そういえば、キミはまだ“生命の女神と死の女神の密約”、聞いてくれてなかったね。誕生の番人の女神、それに死の番人の女神の取り決めのお話なんだけど」
ユディートの唇が、ふっくらと蠱惑的に綻ぶ。
「ねえ、聞きたいとは思わないかな? トバルくん……」
俺の腐った背筋がぞわりとした、気がする。彼女のこの話の振り方は、お説教の前触れだ。
間違いない。
胸郭の内側にこっそりとため息を隠した俺の前で、ユディートが返事を待たずに床を指差した。思ったとおりだ……。
「じゃあ、そこ座ろうか、トバルくん。ゆっくりと聞かせてあげるから。密約の意味と、キミの身の振り方も……」
ところが彼女が示す大理石の床には、まだあの魔術師の惨殺体が無残なありさまを晒している。無情に解体された死体の隣に、平然と『座れ』などと言うユディート。
彼女は一体どういう神経をしているのだろう?
いや、そんなことは、何を今さら、なのだが。全く、良くも悪くも、何から何までぶっ飛んだ少女だ。やはり人間の俺に異人種の感覚すべてを理解するのは、無理なのかもしれない。
俺は軍人だ。死体には慣れている。ユディートも死の女神に仕える聖騎士だから、死も死体も死神も、もう飽き飽きするほどの仲に違いないのだ。
とはいうものの、さすがにたじろぎを隠せない俺を見て、ユディートがふふーん、と甘ったるい笑いを洩らした。漆黒の左の瞳に、何か小悪魔的な光が宿る。
「キミだって”
ぐう、と俺の喉から空気が洩れた。
これは俺の頭を見透かした上での、意趣返しだろうか。何だかもやもやするが、怒りは湧いてこない。それに、怒ったところで仕方がないだろう。
そんな俺の鼓膜に、ユディートのため息が触れた。見れば、彼女が珍しく眉根を寄せて、困った表情を見せている。
「でもそれはそれとしても、この聖廟はこのままにはしておけないよね。んー、どうしようかなあ……」
腕組みのユディートが、小さく唸った。珍しいこともあるものだ。
しかしバラバラの死体が転がっているうえに、五つの巨大な石柱が床板を割って居座っているのだ。この状態で聖域を放置するのは、それこそ不心得以外の何物でもないだろう。
「石はまだいいけれど、坊やの死体はどうしようかなあ……。探しに来るかも知れないし、処分しちゃおうか……」
俺の耳がぴくんと反応した。
「探、ス……? 誰、ガ……?」
尋ねた俺に、ユディートが向き直った。彼女の左目が、鏡のようにちかりと光る。警戒を怠らない猛禽を思わせる、鋭い眼差しだ。
「普通なら家族だろうけれど、この坊やはルディアの外から来てる。探しに来るとすれば、“上役”ね」
「『上、役』……?」
ユディートが浮かない表情で小さくうなずいた。指先に抜けない棘でも刺さったかのような、すっきりしない面持ちだ。
「この坊やは第五階魔術師だった。一人前は第六階からだから、まだ未熟。きっと上役が、一緒に花街へ来てるはず。キミとあたしを審問にかけるために」
「『審、問』……」
嫌な印象しかない、不愉快な言葉だ。意図せずにぐるると喉が鳴った俺に、ユディートが微かに微笑みかけてくる。
「大丈夫。たとえ第十階魔術師の“魔道士”や”屍師”が襲ってきても、あたしなら斃れない。キミのことも、贖罪が終わるまで、あたしが守るから」
淡々と綴られるユディートの言葉。抑揚もわずかで、例によって想いの起伏も平坦に近い。だがその響きは子守歌のように心地よく、俺の心の隅々にまで染み渡ってくる。
本当なら軍人の、男の俺がこの少女ユディートを護らなくてはならないはずだ。だが、今の俺は一個の死体に過ぎず、対するユディートは人智を超えた能力を備えた聖騎士。くだらない男の面子は、却って害悪にしかならない。
分を知ること、それもまた軍人の鉄則なのだ。
悲母の面差しを湛えたユディートを見つめ、俺はぴきっと頭を下げる。
「アリ、ガ、トウ……」
ふふーん、と甘ったるく鼻に抜ける笑いで応えてくれたユディート。
その彼女が何か言おうとしたとき、聖廟の外から悲痛な若者の声が聞こえてきた。
「ユ、ユディートさん……!! いますか……!? エステル、エステルが……!!」
この聞き覚えのある声は、カイファだろう。いつになく緊迫し上ずった叫びが、俺の不安をあおり立てる。
エステルに何かあったのだろうか……?
俺と顔を見合わせるよりも早く、ユディートが聖廟の外へと飛び出してゆく。俺も固まった脚を必死に運び、彼女の後を追った。
ユディートから遅れること、三十秒ばかり。黄昏に呑まれつつある聖廟の玄関先に立っていたのは、やはり眼鏡を掛けた若い商人、ミザール商会のカイファだった。
ユディートの前に息を切らせて立ち尽くすカイファは、先日とは比較にならないほどに憔悴しきっている。いや、痛々しいのは、焦りと悲しみ、それに憤りに満ちた暗い表情ばかりではない。着ている衣服には幾つもの裂け目がざっくりと走っていて、そこから覗く肌には乾き切らない血が滲む。額や頬にも付けられた鋭い切創が、彼が受けた仕打ちの酷さを物語る。
だが刃物に慣れ親しんでいる俺には、すぐに分かった。
これは刃物による傷ではない。もっと何か他の手段によるものだ。
訝る俺の横で、ユディートが静かにカイファに問う。
「キミ、白鷺庵へ行ったんでしょ? エステルがどうしたの?」
「エステルが連れ去られてしまって……!! 僕には何が何だか……」
ぎりぎりと奥歯を噛み締めて、翡翠の目を曇らせるカイファ。だが泣きはしない。焦りと困惑の中に、打つ手を懸命に探る者の目だ。
「詳シク、聞カセ、テ、クレ、ナイカ……?」
カイファの目が、尋ねた俺に向けられた。
「あっ、トバ、隊長……? あ、いや……、マノさん……」
一瞬口籠ったカイファ。どうやらユディートの前で俺を何と呼んだらいいのか、判断に迷ったようだ。この期に及んでもなお律儀な若者だ。
俺は感心しつつ、カイファに告げる。
「”トバル”、デ、イイ……。ユディート、ハ、全部、知ッテ、イル……」
そして俺は、彼に向かって重ねて聞く。
「ソレ、デ、エステル、二、何ガ、アッタ……?」