二.花街の少女 三
文字数 6,345文字
八人が並んで歩ける、広い街路。
その石畳の道を毒々しい紅色や、劣情を催す桃色に染めるのは、街路の左右に等間隔に吊るされた無数の提灯だ。心やましい仄明るさに包まれたその街路には、同じような二階建ての建物がずらりと軒を連ねる。
一階部分には大きな窓と、そこに張り付く男たち。そして二階の飾り窓からは、派手な化粧の扇情的な女たちが行き交う男を手招きする。
後ろ暗そうな控えめな喧噪。武装した男たちの捨て鉢な笑い。
俺はマイスタや番兵が口にした言葉を思い出した。
『花街』。なるほど、つまり歓楽街だ。
それも、春を鬻(ひさ)ぐ女たちが犇めく娼館が屋台骨を支える、“
女を漁る男たちの病的な熱気、それに娼館から漂ってくる女たちの臭気が、通りにむんむんと立ち込める。健全な男なら、この生きた人間が醸成する瘴気に当てられて、まず間違いなく正気を失う。そして最後には女の体に溺れ、心はぐすぐすに腐蝕してしまうだろう。
だが残念ながら、俺は文字どおりに体が腐っている。どうやら股間の一物は辛うじて残っているようだが、この状況にあっても何の反応も示さない。
ここまで役立たずでは、魚の餌にもならないだろう。
と、固着した心臓で自嘲的に笑い、俺はふと思う。
……腐乱死体に押し込められ、それこそ二目と見られない身にされた俺だ。だがおかしなことに、死んだ体を得た今、空腹や性欲が俺を悩ますことはなくなった。腐った体がある種の解放をもたらすとは、全く得体の知れない話だ。
きちきちと首を振った俺の前で、マイスタは構うことなく進み続ける。マイスタの後ろ姿も、提灯からの光が、鮮やかな毒花の色に染め上げている。
これまでのマイスタの様子から見る限り、どう考えても彼はこの魔窟には不似合いだ。とてもこんな爛れた場所に住むような人間とは思えない。それともその実、何か裏のある人物なのか。
マイスタと俺は、饐えた空気が充満する歓楽街の中心をまっすぐに突き抜けた。十数軒の娼館と怪しい宿、それに酒場の前を通り抜けると、だんだんと男の姿もまばらになる。提灯の数も減り、路地は真鍮色を帯びた夜の本来の姿を取り戻してくる。
そこで俺は気が付いた。
女の歌声が聞こえる。
かなり若い、少女と言ってもいいほどの高く澄んだ、物悲しい歌。歌詞こそ分からないが、鼓動を忘れた心臓も、萎びて固まった肺も、帯でじっくりと締め上げられたかのような錯覚に陥る。
マイスタの背中が、涙声の嘆息を洩らした。
「お嬢さま……」
路地の奥へ奥へと進むにつれて、その売春窟にはふさわしくない歌声もだんだんと近付いてくる。
やがてマイスタが立ち止った。俺も何歩か遅れて引きずる足を休め、辺りを見回してみる。
俺たちの前にあるのは、中央に円い泉のある、小さな円形の広場だ。
差し渡しは二十数歩ばかり。周りはありふれた建物で囲まれている。提灯もここにはなく、暗くて人の姿はほとんどない。やはり歓楽街とは違うようだ。
清楚な歌声も、この広場の建物から聞こえてくる。
小さく鼻をすすって、マイスタが建物の一つを指さした。
「さあさ、あの建物だでな。もうそこじゃよー」
ため息を一つ容れたマイスタが再び歩き出し、俺もその後についてずるずると広場を歩く。
マイスタが泉の脇を通り、自分が指さした建物に向かう。その二階屋が歌声の元でもあるらしい。
広場中央の泉は、きめの粗い石材を円形に組んだ、かなり古いもののようだ。その中心には青銅の睡蓮が咲き、花芯から滾滾と水が湧き出ている。たぶん地下水なのだろう。
星々を映す水面は透明に澄み、まさに淫窟に湧く聖霊の住処、とでも言うべきか。
そして、マイスタを追うように泉の横を通り抜けた途端、俺は気が付いた。
泉の縁に、誰かが腰かけている。女のようだ。歌声の主とは別人らしく、緘黙を守っている。
この娼婦街に現れる女は、たぶん二種類だろう。
一つは娼婦。もう一つは娼婦ではない、娼婦街の住民だ。
ところが泉の縁石に座る女は、どちらでもないような雰囲気を漂わせている。
ふと足を止めた俺は、好奇心に駆られて女に目玉を向けた。
その女は、まだ相当若い色白の美女だ。まとった黒い衣装は、その身にぴったりと合っていて、メリハリのある滑らかな身体のラインが、露わに見て取れる。
後ろ髪は短く刈っているが、漆黒の長い前髪に右目を隠し、すごい切れ長の左の瞳で、俺を凝視している。まだどこか幼気さが残る丸顔に、何か怒っているような、咎めるような色が浮かぶ。固く結ばれた薄桃色の唇も、少女の不愉快さを物語る。その険しい漆黒の視線の薄く、鋭く、冷たいこと、俺の魂と体とが切り分けてられてしまいそうなほどだ。
特徴のある耳の形から見て、噂に聞く”
それも恐らくは、滅多に人間の前には現れないという、”
しまった! 冒険者……!!
まさかこんな娼館街の奥に女の冒険者がいるとは、全く予想していなかった……。
厚ぼったく傷んだ俺の舌が恐怖にすくみ上がり、腐って鈍った俺の全身に、ぶるぶると戦慄が走った、気がする。この恐怖と危険の臭いは、押し付けられた体が感じているものではない。俺の魂自身が予期しているものだ。
ほとんど瞬きもせずに、異人(デモス)の少女が動けない俺を凝視している。その左の目が細められた次の瞬間、少女の右手がスッと背中へと延びた。
俺の口がだらしなく開き切った瞬間、俺の三歩先から暢気な声が聞こえてきた。
「どうしなさった?」
黒衣の女の左目が、前髪を揺らして俺から逸らされた。同時に俺も女の目線を追うと、やっぱり行き着く先は、老人マイスタだった。
その場に立ったまま俺と異人の少女を見比べて、マイスタが親しげに笑う。
「ああー、ユディートちゃん。こんばんは」
『ユディート』と呼ばれた異人の少女も、応えてにっこりと笑った。ここまでの厳めしい表情が、まるで嘘のように快活で、真っ直ぐな笑顔だ。しかしやはり口は開かない。
背中の得物に右手を掛けたまま、ユディートの左目が俺とマイスタの間をちらちらと往復した。
一瞬で霜さえ降りそうなほどの冷厳さを取り戻した、少女ユディートの瞳。
そんな彼女の変化を知ってか知らずか、マイスタが例のごとく悠長な口ぶりで少女に教える。
「ああ、この人かい? 城門の外で困ってたお人でねー。ひどい怪我で医師に掛かりにきたんだよー。明日、ハーネマン先生のところへでも案内しようと思ってねえ」
マイスタの説明を聞き、少女の酷薄な眼差しが、俺を捉えた。反射的に、俺はかたかたと顎を鳴らしながら、きちきちと何度もうなずく。
そうして二秒。瞬きをしないユディートの左目から、棘が消えた。それでも疑念の影を漆黒の瞳いっぱいに湛えたまま、少女が背中の得物から右手を離す。
どうやら、危機は回避できたようだ。
心の奥底で、俺は安堵の吐息をつく自分を想像した。全身が緩み切り、関節が離れ離れになりそうな奇妙な違和感が、俺の腐った体を覆う。ここで油断したら、体がバラバラになって動けなくなる。
必死に直立の姿勢を保つ俺を尻目に、マイスタがユディートに軽く手を振る。
「じゃあまたね、ユディートちゃん。夜風は体に悪いから、早く聖廟にお戻り」
泉の縁に腰かけたまま、笑顔のユディートがこくりとうなずく。
俺は彼女の刺すような視線を魂の背後に感じつつ、ずりすりと泉のほとりを離れた。
あの異人の少女はが俺を見る目は、間違いなく退治すべき怪物を見据える、狩人のものだ。俺が死んだ体で動いていることを、ユディートという異人は気付いたはず。何者なのかは分からないが、とにかく彼女とマイスタが知人のようで、助かった……。
そんなことを考えているうちに、俺とマイスタは、ようやく目指す建物にたどり着いていた。あの心を締め付ける歌声も、まだ聞こえてきている。
「さあさ、着いたでな」
玄関扉の前に立ったマイスタが言った。
飴色になった、木製のドアだ。ちょっとした高級感の漂う重厚な扉で、上質の宿屋の玄関を思わせる。扉の中央やや上寄りには、太い環が付いたくすんだ銀色のノッカーが付けてある。
ふと鴨居を見上げると、掲げられた看板の共通文字は、”
俺が板額を見上げている間に、マイスタがガツンガツン、さらにガツンとノッカーを鳴らした。同時に、この『白鷺庵』という建物から聞こえていた歌声も、ふっと聞こえなくなった。
「さあさ、入っておくれ。今は客もないようだから、遠慮は要らんよー」
気のいい言葉とともに、マイスタが扉を引き開けた。すっと脇に身を流したマイスタの横を抜けて、俺はずりずりも”白鷺庵”の戸口をくぐった。
戸口の内側は、窓はなく小ぢんまりとしているが、どこかゆったりとした部屋。天井に吊るされた円い照明器具が、この部屋が夜闇に埋没するのを防いでいる。十数個のキャンドルスタンドを車輪型の枠に付けた、一風変わった灯火だ。
そんな灯りの真下には、大きな円形のローテーブルと、それを囲む布張りのソファーがしつらえてある。壁に据えられた暖炉といい、その壁を飾る湖水画の壁紙といい、この部屋はサロンか待合室のようだ。
部屋を見回す俺の目が、左手の壁にくぎ付けになる。
そこに掲げられた、一枚の絵。質素な額縁に収められたその風景画に、俺は引き寄せられるように近付いた。
木々に囲まれた建物を描いた、静かな絵だ。緑の滴る木々に、平穏なたたずまいの白壁の館。
だがどことなく黄昏た色調が、そこはかとない郷愁を催す。どこかで見た気のする風景だ。微妙に心がざわめく。
俺がぴきぴきと首を傾げたとき、マイスタが俺を呼んだ。
「さて、あんたが泊まる部屋はこっちじゃよー」
ゆらりと振り向く俺に、笑顔のマイスタが右手の壁を示した。煉瓦の暖炉の横に、一枚の扉がある。
「一階の裏手に小部屋があるでね。せまっ苦しいが、一応ベッドもあるから……」
そこでマイスタの言葉を遮るように、ガツンガツンと何かを叩く音が玄関扉から聞こえてきた。何者かがノッカーを打ったらしい。
マイスタが小さなため息をついた。眉根を寄せたその顔には、深い憂いを帯びた笑みが浮かぶ。憐憫の情にも諦念にも似た、哀しげな顔だ。
「……お客のようだねー。ちょっと待っておくれよ」
マイスタが応対に向かった。
彼が扉を開けると、誰かが玄関口に立っている。俺がきちきちと首を伸ばしてみると、戸口を挟んでマイスタと向き合っているのは、でっぷりと太った中年男。身なりは豪勢で、金は有り余るほどありそうだ。豪商か何かだろうか。
その男は声を大にして『入れろ』、とか『逢わせろ』、とか『金ならいくらでも』などと言っているようだが、マイスタは頑として戸口から下がらない。
そうして数分にも亘る押し問答の末、太った男は何か捨て台詞を吐いて、すごすごと帰っていった。『また来る』と言い残して。
「済まんねー、待たせてしまって」
後ろ手に重厚な扉をぴっちりと閉じ、マイスタが苦笑を洩らした。深いため息をついたその顔は、実に憂鬱そうだ。
一体何が起きているのか、気にはなる。だが今の俺の呼吸のない体では、すぐには声が出ない。その物憂げな様子の理由を、マイスタに問うこともできないのだ。
しかし追い返した男のことには微塵も触れず、マイスタが再び暖炉脇の扉を指さした。
「さあさ、では行こうかねー」
言いながら歩き出したマイスタだったが、暖炉脇で立ち止った。
彼は白い漆喰のマントルピースから小さなガラスのランプを取り、添えてあった火打ち石で炎を灯す。古風な真鍮のランプに蝋燭ほどの灯りが点され、透明な火屋の中で炎がちろちろと揺らめく。
俺はランプを掲げたマイスタの後について、そのサロンから出た。
サロンの隣は、物置のような小部屋だった。
マイスタのランプに照らされて、木の丸椅子やら花瓶やら、無造作に積まれた什器が壁に入り組んだ影を落とす。
そんな突き当りの壁には、二枚の扉がある。片方の扉には“厨房”、もう片方には“控室”と書かれた札が下がっている。
マイスタが、『控室』の扉を開けた。
「本当に狭い部屋で悪いんだが、とりあえずゆっくり休んでおくれ」
心底すまなさそうにそう言って、俺にランプを差し出した。皮膚の破れた汚らしい手で、不器用に灯火を受け取る俺。
そんな俺に、マイスタが気のいい笑顔を見せた。
俺には分かる。深い傷を負う客を不安がらせないための、気遣いでいっぱいの笑みだ。
「明日は朝一でハーネマン先生の医院へ案内するでね。それまでおやすみ」
それだけ言い残し、マイスタはサロンの方へと戻っていった。
俺があてがわれた控室は、ベッドの長さと同じだけの幅しかない、本当に小さい部屋だ。テーブルを置くだけの空間さえなく、戸口から四歩先はもうベッドだ。足もと側の壁には、小さな四角い窓が開けてある。
俺はベッドの枕元に作り付けられた細長い棚にランプを置き、ベッドによろよろと腰を落とす。
……静かだ。彼方から男たちの粗野な笑い声の残滓が漂ってくる。それ以外に、何の物音も聞こえない。あの俺の心を締め上げる歌声も。
マイスタの言うとおり、狭苦しい空間には違いない。しかし不死怪物にさせられた俺には、ようやく安全が保障された、貴重な部屋と時間だ。
俺は頼りない腐った頭を酷使して、考えを整理してみる。
俺が目指す場所は、アリオストポリの久遠庵(カーサ・アンフィニ)、女屍霊術師パペッタが待つ店だ。
ほうほうの体で、このルディアの花街に潜り込んだが、俺はアリオストポリへの道を探さなくてはならない。そしてこの道のりが、パペッタの言葉を借りるなら『贖罪の旅』だということになる。
しかし俺は、贖罪しなければならない大罪を犯したというのだろうか?
そんな大罪人の俺は、一体誰なんだ……?
その答えを探すための足掛かり、つまりアリオストポリへの第一歩がこのルディアだ。躓く訳にはいかない。
だが気のいいマイスタは、明日、本当に俺を医師に会わせるだろう。そうなれば、俺が死体だということがたちまち暴かれて、冒険者に退治されることになってしまう。
たとえば、さっきのユディート。あの異人の少女は、明らかに俺を疑っている。とはいえ、今この状況でこの白鷺庵から姿をくらますのは、却ってまずい。
どうしたものか……。
考え込んだところで、腐れた俺の内から出た知恵など、たかが知れている。しかしマイスタの良すぎる世話と、冒険者たちの魔手をしのぐには、今はその浅知恵に頼るしかない。
俺は棚に置いたランプを不器用極まる無様な手に取った。そしてねじるようにして火屋を外すと、俺は裸の炎に向かって大きく口を開いた。