四.審問 二
文字数 3,906文字
ねぐらの小部屋をずるずる這い出た俺は、そのまま白鷺庵のサロンに入った。
するとそこには、もうマイスタと女医のハーネマンがいた。立ち話を交わす二人の側には、温かなガウンを着たエステル、それにゆうべから泊まっていた青年カイファも寄り添う。
はにかみつつも、どこか幸せそうな笑顔のエステル。その傍らで、恋人を支えるように立つカイファ。そして若い二人を見守るような構図のマイスタとハーネマン。
和やかな雰囲気は漂うが、その中にどこか真摯な空気が潜む。
何か大切な話をしているのだろう。邪魔をするのも忍びない。
俺は失われた左腕がばれないようにしっかりとマントを整え、素っ気なく四人に会釈しながら、白鷺庵の玄関を出た。女医ハーネマンと、好漢マイスタの気遣いの視線を浴びながら。
数日振りの戸外は、薄い雲が空を覆っていて、陽光が実に柔らかい。俺の腐った皮膚にも、程よくいい感じだ。まだ朝の鐘も鳴る前で、街路に人の姿はない。何から何まで、屍者の俺には好都合だ。
俺はブーツの底を引きずるようにして、石畳の路地を歩き出した。行き先はただ一つ、城壁近くの共同墓地。つまり、あの聖騎士ユディートがいるはずの神殿だ。
はやる気持ちに急かされて、俺はブーツの底を摩り下ろすようにしながら、記憶に残る街路を辿る。だが死んで反応の鈍い下肢のこと、俺の歩く速さなどたかが知れている。
やがて朝の鐘が遠くで鳴り響き、ぽつぽつと人の姿が路地に見え始めた。
独りでいるところは、できるだけ晒さない方が安全だろう。俺はつっかえ棒のような脚が繰り出す歩調を早めた。
どのくらいかかったか、何とか俺は、見覚えのある庭園風の細長い区画にたどり着くことができた。
鉄柵で囲われた敷地に踏み入った俺は、その奥まったところにひっそりと鎮座する白亜の小神殿、ユーデット聖廟の正面に立った。しんと静まりかえった荘重な聖廟からは、何の物音も聞こえてはこない。
固唾を呑むような気分を味わいつつ、俺は右腕一つで聖廟の扉を押し開けた。音もなく開かれた玄関をくぐり、聖廟へと踏み込んだ最初に見たものは、天井から差し込む光の柱だった。
その薄い黄金色の光の真下に、一人の少女が背中を向けて座っている。
まるで黄金律の金字塔のようなシルエットで胡坐をかく、黒衣の少女だ。その後ろ髪はさっぱりと刈られ、耳の形は人間とは異なっている。間違いない。俺が求めてここまで来た彼女だ。
いわゆる瞑想中、というやつだろうか。恐ろしく均整の取れた、その座した後ろ姿は、俺の目には完璧な美と映る。彼女の背面に浮かぶ背筋、肩甲骨、それに腰から尻にかけての陰影そのすべてが、艶めかしく、そして神々しい。
「いらっしゃい。そろそろ一度、あたしのところに来るかな、って思ってたところ」
俺に美麗な背中を見せたまま、ユディートがゆっくりと立ち上がる。そしてスッと振り向いた彼女が、漆黒の左目を細め、蠱惑的に微笑んだ。
「おはよう、マノくん。それとも、別の名前で呼んだ方がいいのかな……?」
相変わらず、恐るべき勘の鋭さだ。
心ならずもユディートに見惚れていた俺の意識は、射落とされたリンゴのように、すとんと墜ちてきた。
「ドウ、シテ、分カ、ッタ……?」
我に還った俺が問うと、ユディートが俺に向き直った。細めた左目で俺を注視した彼女は、胸の下で腕を組み、にんまりと笑う。
「キミ、最後に会った時と、だいぶ雰囲気が変わったよ。悩みの色がハッキリ塗り分けられてきた感じ」
彼女が身を乗り出すようにして、俺の爛れた顔を覗き込んできた。
「それじゃあ話してもらおうかな。まずは、キミが本当は何者なのかを……」
かくかくとうなずき、覚悟を決めた俺は、空恐ろしい笑みのユディートを正視した。
いや、だが俺は待っていたのだ。ユディートのこの魔的な笑みと、左の眼差しを。
「“ト、バル=ルッカ、ヌ、ス=カル、ヴァリ、オ”。ソレ、ガ、俺ダ……」
「『トバル=ルッカヌス=カルヴァリオ』……?」
俺の名前を繰り返し、ユディートが左目を伏せた。曖昧な微笑を湛えた唇から、ふふーん、という甘ったるい笑いが洩れる。
「あのマルーグ峠での戦いの後、千人以上の死体と、二、三人の生存者の身元を徹底的に調べたのに、ただ一人発見できなかった、ケルヌンノスの“中隊長カルヴァリオ”。それがキミってことね」
「知ッ、テ、イル、ノカ……?」
ユディートが驚く俺から目を逸らし、天を仰いだ。
「あたしが前の赴任地からこのルディアへ来る途中、ひいひいひい……おばあさまの啓示があったのよ。”戦場に散った魂が数百体、まだ行き先を見失って彷徨っているから、輪廻の環の中に戻しなさい”、って」
そこで彼女が言葉を切った。ふう、と無感情な吐息をついて、天井を仰いだままの彼女が淡々と答える。
「その時は、ひいひいひい……おばあさまの力を借りて、戦死者たちを輪廻の環の中に戻したの。あの時は”マルーグ峠の戦い”なんて、あたしは知らなかったけれど、後で噂はちらちらと聞いたから」
そこでユディートが俺に左目を戻した途端、その眼差しが俺を鷲掴みにする。
漆黒の瞳の底に、異様に醒め切った蒼い深淵が覗く。腐ったはずの背筋に、ぞくぞくと凍る寸前の雫が滴るようだ。
「あたしの予感では、その悲惨な出来事の原因が、キミ、『トバル』くんだったって思うけれど。それでいいのかな……?」
さすがの洞察力だ。
抑揚のないユディートの問いが、俺の畏怖と罪悪感をこれ以上ないほどに煽り立てる。だが俺は、鬼気迫るこの死の女神の聖騎士から、眼球を逸らさすことなく、かくんとうなずいた。
「ソウ、ダ。峠ノ戦ハ、俺ガ、償ワナケレ、バ、ナラ、ナイ、罪業ノ、一ツダ……」
続けて俺は、ユディートに懇願する。
「『贖罪』トハ、何ダ……? 俺ハ、何ヲ、ドウ、スレバ、ソレヲ、果タセル、ノ、ダロウ……? 教エテ、クレ……。頼ム……。」
血を吐く思いで絞り出した、俺の問い。
ただ答えを待ってユディートの曖昧な顔を見つめるばかりの俺に、彼女が左手を差し伸べてきた。意図の読めない、それでいて厳しさと憐れみが綯い交ぜになったユディートの左目に、俺の腐った顔が映っている。
無意識に左手を出そうとした俺が、びくんと仰け反った。そんな狼狽した俺の左肩を、ユディートが注視する。腕が根元から無くなった左肩は、腐った肉の間から白い肩甲骨の先が覗く、見るも悍ましい有様だ。
だがユディートは動じる気配さえ感じさせず、短く無感情に聞く。
「キミ、左腕は?」
「チギレ、タ……。腕ハ、ベッド、ノ、下ダ……」
ユディートの愁眉がわずかに歪んだ。唇が微かに開き、また短い問いを俺に投げてくる。
「……辛い?」
「イヤ。辛ク、ハ、ナイ……。平気、ダ……」
俺は即答した。
腐って動きは悪かったが、それなりには働いてくれた左腕だ。無くなってしまって、多少の不便さはある。だが、この左腕がちぎれたことで、あの元大隊のエノスと話す
その結果、俺は忘れていた戦いの記憶、そして俺自身を取り戻した。腕の片方がちぎれたことくらい、惜しくも辛くもない。
もっとも彼にとっては、俺の左腕など何の意味も価値も、腹いせにもならないだろうが……。
俺がそう想うのと同時に、ユディートの表情が綻んだ。聖職者の峻厳さは静かに溶け去り、何か安堵と希望が彼女の唇に見て取れる。
一体、ユディートは何を感じているのだろう? 相変わらず、思わせぶりで捉えどころのないユディートだ。
そんな彼女が、うわべだけではない、染み出す笑みを湛え、小さくうなずいた。
「いいよ。右手を出して」
あちこち裂けた、緑がかった皮膚も不潔な右手を、俺はユディートにぎちぎちと差し出した。
彼女の滑らかな指が、俺の死体の手を何のためらいもなく握る。そしてユディートが、瞬きなく煌めく瞳を俺に注ぎ、そっと囁く。
「ねえ、トバルくん。キミを特別に案内してあげる。今から意識を送ってあげる場所、よく見てきて。キミが知りたいことは、きっとそこで見つかるから」
「ドコ、ヘ……? ソレ、ハ、ドウ、イウ……」
だが彼女は答えない。俺の手を握ったまま、左目を閉じたユディートの唇がふつふつと動き始めた。聞き取れないほどのかすかな声で、何かつぶやいている。俺の知らない言葉で、呪文を唱えているようだ。
やがて、ユディートの体に変化が現れた。
幾筋ものぎざついた金色の電光が、ぱりぱりと彼女の周りの虚空を這う。同時に、彼女と手をつないだ形の俺の周囲にも、金の粒子が漂い始めた。視界も、無機的な灰色一色に染まってくる。
と、意識が腐った体から引き剥がされ、飛ぶ鳥の勢いで、猛然と上へと持ち上げられてゆく。
血液が全部足の下の方へと追いやられ、頭が妙に軽い。何とも言えない初めての感覚に、吐き気さえ覚える俺だった。
どうやら俺の心が、壊疽を騙る腐乱した体から抜け出したようだ。何もない空間の只中を、俺は誰かに手を曳かれたまま、緩い弧を描いて飛んでいる。
だがその飛翔は、不意に終わりを告げた。誰かに握られた俺の手は放されて、意識がどこかへ真っ逆さまに墜ちてゆく。
そして数秒。
びくんと仰け反った俺は、ハッと気が付いた。俺が、どこか地面に立っていることに。