三.戦禍の記憶 四
文字数 5,137文字
あれは白鷺庵に押しかけてきては、マイスタに愚痴や相談を持ちかける娼婦たちの声だ。幾枚もの壁と扉を通してさえ、少しも薄れずに俺の小部屋まで届いてくる。全く元気なことだ。だがその煩さが、今の沈み切った俺の精神には、やけに心地いい。
マイスタからマルーグ峠の戦いと後に続いた悲劇、そして『マノ大尉』の罪業を聞かされて、四日が過ぎていた。
その間、カイファという若者は、毎晩この白鷺庵でエステルとの逢瀬を重ねる一方で、アンフォラとかいう中年男は姿を見せていない。あの執拗さからすれば、かなり意外だ。むしろ何か良からぬ魂胆があるのかと、却って不安が募る。
俺はといえば、マイスタが白鷺庵にいる間は、来客を怖がらせないように小部屋に潜み、彼が不在になるとサロンで“強面の用心棒”を務める。それが白鷺庵での俺の日常になっていた。
その平穏な日々の間も、俺の心を占めるのはただ一つ。積み重なった罪業と、その贖罪のことだけだ。
だが俺の腐った脳は、何をどうすればいいのか、何の糸口も見いだせないまま、四日が空しく過ぎ去った。
そして今日。五日目の朝だ。
早朝から娼婦たちとマイスタの楽しげな声を聞きながら、俺が物思いに耽っていた時だった。
俺の小部屋の扉が、軽く叩かれた。
俺が白鷺庵に居候してから、この小部屋への訪問者など誰もいない。ぴきぴきと小首を傾げる間に、再び扉がノックされた。
「開イテ、イ、ル……」
ベッドの縁から投げた俺の掠れ声に、落ち着いた女性の声が返される。
「お邪魔しますね」
すぐに扉が開かれ、臙脂色の外套に身を包んだ、しっとりとした眼鏡の美女が顔を覗かせた。
「おはようございます、マノさん」
懐の深い、寛容な笑みを湛えた眼鏡の女医、ハーネマンだ。
人妻ではあるが、この賢く穏やかな笑顔は、この何日かで荒んだ俺の心に、一滴の潤いを与えてくれる。
肩から黒いお医者鞄を下げ、小脇に薄い本を抱えた女医は、後ろ手に扉を閉めながら俺に聞いた。
「お加減はいかがですか?」
「用件、ハ……? リベカ、先生……。」
俺が短く聞き返すと、ハーネマンは、ふふっと柔らかな苦笑を洩らした。
「あら、誰から私の名前を?」
「エス、テル……」
鞄を床へと下ろしたハーネマンが、眼鏡の奥でふわりと微笑む。
何だかとてもいい匂いだ。鼻孔ではなく、心の奥底でそう感じる。
「あの子の“用心棒”、よろしくお願いしますね、マノさん。とても可哀想な子だから……」
それだけ答えたハーネマンが、ベッドの縁に座った俺の前に膝をかがめた。パチンと鞄のがま口を開けて、彼女は中から真新しい包帯を取り出す。
「今日はマノさんの包帯を取り換えに来ました。楽にしてくださいね……」
女医ハーネマンが、整った鼻から下を白い布で覆い、繊細な両手を手袋で包む。
そして俺が被ったフードを後ろへ脱がせ、崩れた顔に膿と腐汁で貼り付いた不潔な包帯をぺりぺりと剥がしてゆく。
器用な手つきで包帯を巻き替えてくれる女医。何となく嬉しい反面、申し訳ない気分がもやもやと胸郭の中に膨れ上がってくるようだ。俺は掠れた問いを女医に投げてみる。
「オ代ハ……?」
するとハーネマンが、布の下でふふっと笑った。薄いベールが、カーテンのようにそよぐ。
「ユディートさんから預かっていますから、気にしないで。包帯なんて、そんなに高いものじゃないですし。マノさんがアリオストポリへ発つまでの包帯全部を買っても、半分以上は余ります」
眼鏡の奥の蒼い瞳に、悲哀の陰が差した。
「……余った分のお金は、この花街の女の人のために使わせて頂きますね」
「アリ、ガト、ウ……」
ふと洩らした俺の呻きを聞き、両脚の包帯を巻き終えたハーネマンが、またふふっと笑う。
「マノさん、いい人ですね。本当に……」
そこで立ち上がったハーネマンが、眼鏡を鼻先へ下げ、裸の蒼い瞳をじっと俺に注いだ。その目元は、緊張に強張って映る。そんな女医が、声を潜めてひそひそと俺に聞く。
「マノさんが死体だってこと、まだマイスタさんや女の人たちには、ばれていませんよね……?」
俺は頼りのない記憶を手繰ってみたが、マイスタは俺が屍者だとは、まだ気付いていないようだ。白鷺庵へ来る娼婦たちも、誰も騒いだり文句を付けてくる様子はない。
数秒の思案を容れて、俺はびちびちと頸椎を縦に振った。途端に、女医の漂わす緊迫感は、わずかに融解する。
「よかった。私の診断書は効いているみたいですね」
確かにマイスタは、この花街では絶対的な信頼感を得ている好漢だ。
その彼からの信望は揺らがない女医ハーネマンだから、彼女の書いた診断書をマイスタが疑わない限り、この花街の誰もが信じるだろう。俺をただの壊疽患者だと。
だがどうしてハーネマンは、そんな心配をするのだろう?
「ナ、ゼ……?」
俺が問うと、ハーネマンが眼鏡を掛け直した。まだその表情には、硬さが残っている。
「『この界隈に歩く死体がいないか、聞いて回っている人がいる』。そんな噂がこの花街に流れているみたい。一昨日くらいから……」
新品の包帯の下で、俺の腐れた皮膚がぞわぞわと粟立つ気配に覆われる。
『この界隈の歩く死体』とは、間違いなく俺のことだろう。俺はハーネマンに対して、掠れた問いを重ねる。
「ドン、ナ、ヤツガ……?」
「魔術師風の見慣れない男たち、ですって。それも噂でしかないけれど……」
俺はうつむいた。
誰が何の目的で、俺を探しているのだろう? 目先の功名を追う冒険者か、あるいはもっと何か裏の意図を持ったルカニア軍部の関係者か……。
疑念の中に埋没しかけた俺の意識は、パチンというという金具の音で現実に引き戻された。
ハッと頭蓋をもたげると、立ち上がったハーネマンが、顔のベールと手袋を外し、鞄肩から下げた鞄にしまい込んだところだった。
彼女が気遣わしげに、眼鏡越しの眼差しを俺に送る。
「……マノさんは、白鷺庵から外へは余り出ない方がいいかも知れないですね」
言いながら、彼女が床に置いていた薄い本を拾い上げ、俺に差し出す。俺の腐った脳にも強烈に灼き付いている、あの『識別表』だ。
思わず目を剥く俺に、ハーネマンがどこか気の進まなさそうな、困惑気味の微笑を見せた。
「その識別表は、マノさんの心の負担が大きいみたいなので、本当は医師としては、お渡しするのは気が進まないのですが……」
ふと小さく吐息を洩らし、女医がポツリと告げる。
「でも、識別表を私の診療室へ借りに来るのも、もしかしたら危険なことかも知れないし、何よりもユディートさんが……」
言葉を濁した女医に、俺はぴくりと眼球を向けた。
「ユ、ディー、ト……?」
ハーネマンがこくりとうなずく。
眼鏡の奥で蒼い瞳を伏せた彼女が、ゆっくりと噛んで含めるように言葉を綴る。
「『マノくんは、きっとあり得ないくらいの苦悩を抱えて、精神の激痛に苛まれているはず。でもその苦しみそれ自体が、マノくんの贖罪の一部だから。挫けないで』って。ユディートさんから、マノさんへの伝言です」
俺は固まりかけの頸椎を傾けて、天井を仰ぐ。
女医が俺に手渡す識別表には、まだ俺が見つけていない記録が残されているだろう。それを発見するごとに記憶の”封印(ロック)”が外れ、俺はまた新たな苦悩に見舞われるに違いない。
だが、それが全容の知れない贖罪の確かな一部であるのなら、俺に躊躇いはない。
ぴきぴきと首を戻し、顔を覆う包帯の間から女医の顔を正視する。ユディートの言伝を噛み締めて、俺は女医ハーネマンの手から識別表を受け取った。
悲哀と憐れみに満ちた笑みを目元に湛え、ハーネマンが小さくうなずく。
「私は診療があるので、これで失礼します。また三日ほどしたら、包帯を換えに来ますから。何かあれば、診療室に誰かを寄越して下さいね」
「アリ、ガト、ウ……」
「まだ国境はまだ開かないみたいですが、早くアリオストポリへの道が拓けるといいですね。くれぐれも、お大事に」
会釈をしてくびすを返しかけた女医ハーネマンだったが、ふと思い出したように振り向いた。
「ああ、そうそう。エステルさんの用心棒、ありがとうございます。引き続きよろしくお願いしますね。できれば、あの子の体にも気を配ってもらえたら助かります。それじゃ、失礼しますね、マノさん」
そう言い残し、女医ハーネマンは俺の小部屋を立ち去った。
再び、狭い部屋に独りとなった俺。壁の向こうからは、相変わらず娼婦たちの明るい声が聞こえてくる。
内容はともかく、楽しそうなのはまあいいことだ。
諧謔的にぴきぴきと肩をすくめた俺は、女医から借りた『識別表』を開いた。反抗的な手指を無理やりに動かしてページをめくり、俺は目的の紙面に眼球を落とす。
――マルーグ城砦陥落計画――。
マノ大尉が率いたという、失敗した軍事計画。そのマノ大尉の部隊章が、俺の襟元に留められた七宝のメダルなのだ。つまりその敗軍の指揮官マノ大尉が、俺だということになる。
俺が見つめる識別表のマルーグ城砦陥落計画のページには、三つの部隊章が描かれている。
濃緑の地と山吹色の盾模様、それに白い手は同じだ。だがその掌が掴む小さな五芒星の数が異なる。
俺の部隊章は星が三つだが、残りの二つはそれぞれ星が二つ、それに一つだけとなっている。
俺が持つ部隊章は、識別表の『マルーグ城砦陥落計画』の一番下にある『マノ大隊第三中隊』のもので、その部隊は元をただせば、ケルヌンノスに元から駐屯していた山岳猟兵だったようだ。言ってみれば土着の兵団、という言い方もできるだろう。
俺はふと気が付いた。
このマノ第三中隊は地元の部隊だ。計画実行の間だけ、特別に統帥権が中央から来たマノ大尉、つまり俺に譲られただけで、山岳猟兵たちの本来の指揮官は、別にいたはずだ。
だがこの識別表には、その名前も存在も出てこない。
俺は同じページの残りの二つの部隊章にも、じっくりと視線を這わせる。
二つ星の『マノ第二中隊』。
『本計画実行のため、ルカニア国軍西方防衛旅団より一時的に編入。二百五十名。統帥権はマノ大尉に帰属。当中隊は全滅のため、現在は抹消』。
そして一つ星の『マノ第一中隊』。
『ルカニア国軍首都防衛連隊第二大隊第二中隊。二百五十名。マノ参謀より推挙され、本計画実行を拝命。統帥権は第二中隊長マノ大尉に帰属。マノ大尉はマルーグ城砦攻撃部隊大隊長として、本計画実行の第一中隊、第二中隊およびケルヌンノス駐屯の第三中隊の統帥権を掌握。なお、当中隊は全滅のため、現在は抹消』。
俺はぴきぴきと小首を傾げた。やはり何かが微妙に噛み合わない。
最初からマノ大尉の指揮下にあったのは、マノ第一中隊とマノ第二中隊だ。
なのに俺が持っている部隊章のメダルは、マノ第三中隊のものだ。
そのマノ第三中隊は、本来ケルヌンノス土着の山岳猟兵部隊で、第一中隊と第二中隊とはケルヌンノスの街で合流しているはず。
そしてその山岳猟兵部隊には、もともとの指揮官がいたと考えるのが自然だ。
それなら、その指揮官はどうしたのだろうか?
自分の部隊と運命を共にして、マルーグ峠の戦いで命を落としたのだとは思うが……。
さらに俺がマノ大尉なら、俺が持っていたはずの第一中隊、それに第二中隊の部隊章は、どこへいったのか?
そしてパペッタは、どうして俺に第三中隊の部隊章を持たせたのだろう……?
その刹那、俺の脳内に激痛が走った。
鋼鉄の万力で頭蓋を砕かれそうな圧力が掛かる一方で、腐った脳が苛烈な熱にふつふつと煮立てられる。
呻きさえも洩らせず、眩む両眼に何かが映り始めた。
じんじんと雑音が煩い耳にも、男の声が聞こえてくる。罵声だ。俺を囲む傷ついた男たちからの、怨嗟と憤激、それに諧謔の発露。
『……何故見逃した!? どうして許した!?』
『ああ、あの時に処分さえしていてくれたら、こんなことにはならなかったのに……!! 中隊長殿、あんたは……!!』
『今さらやめろ! あの時に中隊長殿が処断していても、結果は同じだったろう。この計画が決まった時には、もう全ては終わっていたんだよ……。なあ……』