四.審問 九
文字数 4,074文字
俺、商人カイファ、それに聖騎士ユディートをぐるりと見回して、彼が
「だから頼む。お嬢さまに万一のことがあれば、わしは大旦那さまにも、先代にも顔向けができんのじゃよー。それに……」
マイスタの温かな視線が、カイファに留められた。
「お嬢さまの身は、もうお独りではないでねえ……」
耳に引っかかる、奇妙な言い回しだ。
ふと俺は当のカイファをちらりと見遣った。緊迫に強張った頬が、どこか赤く映る。心なしか、翡翠の瞳もわずかに潤んでいるようだ。
二人の真意を測りかね、びちっと小首を傾げた俺の横で、ユディートがカイファに左の視線を向けた。
「あら、おめでとう、カイファくん」
そんな言葉とともに細められた左の瞳は、探るように鋭く煌めき、口元には挑戦的な微笑が浮かぶ。
「それは、キミとエステルが望んだことなんだよね?」
「もちろんです」
間髪を容れず、カイファが力強くうなずいた。一片の迷いも伺わせずに、彼はユディートを真っ直ぐに見返す。
「僕たちが望んだことですから。何があっても、二人とも護ります……!」
刹那、ユディートの雰囲気が変わった。偽りのない祝福の笑みをカイファに向けて、深くうなずきかける。
「いい答えね、カイファくん」
満足そうにそう言って、ユディートが右手の人差し指と中指をそろえ、カイファに軽く差し向けた。
「
ユディートの指先とカイファの胸の辺りが、薄桃色の光を帯びたように映ったが、それはすぐに消えた。
三人の一連のやり取りの内容も、ユディートの“祝福”の意味も、俺には全く分からない。俺独りが取り残されたような、何だか不公平な気分だ。
しかし俺に何か聞く猶予も与えずに、ユディートが誰にともなく言う。
「それじゃあ行きましょう。エステルたちを取り返しに」
そんな彼女が、マイスタに念を押した。
「ここから三区画北の赤煉瓦倉庫、ね? マイスタさん」
「ああ、そうとも。間違いないよー」
マイスタも即座にうなずいた。
「表に出せない荷物は、大体どこかの偉い人の依頼によるもんだけどねー。裏組合を無視すると後で絶対に面倒が起きるから、アンフォラ商会も裏倉庫と荷物の申請は、欠かさないんじゃよー」
そこ俺たちをもう一度順に見渡して、マイスタが手を合わせて懇願する。
「みんな、くれぐれもお嬢さまを頼むね。お嬢さまに間違いがあったら、わしは死んでも死に切れんでね……」
俺たち三人は、同時にうなずく。
「任せて。あたしたちが、必ずあの子たちを連れ帰るから。マイスタさんは、白鷺庵で待ってて。そのやけども、後でハーネマンさんに診てもらおうね」
「必ズ、戻ル……」
「行ってきます、マイスタさん」
強い決意の宿る眼差しを一つ残して、カイファが先に診察室から足早に出ていった。
俺も再びユディートに背負われて、彼の跡を追う。
夜闇だけが詰まった無人の待合室を抜けつつ、俺はユディートの背中に短く聞いてみた。
「『オメデトウ』、トハ、何、ノ、コト、ダ……?」
「ああ、それはね、トバルくん」
俺を背負ったユディートが、一瞬立ち止り、肩越しに振り向いた。わずかに見える彼女の左目は、深い海を思わせる憐れみに満ちている。汲めども尽きない、無限の愛だ。
「エステル、懐妊したのよ」
……あのエステルが、懐妊とは。
瞬き三つの間、意識が止まった俺だった。だがユディートの背中がゆらりと揺れて、俺の意識はすぐに引き戻された。
よくよく考えてみれば、建前上は娼婦のエステルだが、実態は“通い婚”のようなものだ。妊娠してもおかしくはない。当然相手はカイファで、エステルのお腹の子の父親は、間違いなく彼だろう。お互いに子を設けたいと思っていたのなら、まさに『おめでとう』ということになる。
そう言えば、今日の朝もエステル、カイファ、マイスタ、それに女医ハーネマンがサロンに顔を揃えていた。恐らくは、妊娠している彼女の診察と、今後の相談だったのだろう。
――産むのか、堕すのか――
だがあのサロンでの様子、それにさっきの三人の会話から察するに、エステルとカイファは子供を産み育てるという選択をしているはずだ。この決して良いとは言えない環境の中で、新たな命を望んだ二人。そして望まれて生まれてくる、新たな命。
俺の中に、高揚した気持ちがふつふつと湧き上がってくる。
俺はマルーグ峠の戦いで生きながらえながら、百人の部下さえも守れなかった。しかしエステルとそのお腹の子、それに女医ハーネマンは、例えこの屍者の身が朽ちようとも、俺が守るのだ。何があっても、絶対に……!!
俺が決意を固めるのと同時に、ユディートの声が聞こえてきた。
「もうすぐよ。アンフォラ商会の赤煉瓦倉庫」
ふと我に還ると、俺とユディートは、夜の街路を駆けていた。
先にハーネマンの診療所を出ていたカイファも、俺を背負うユディートの横にぴったりとついている。
周囲は石の建物が規則正しく立ち並ぶ、整然とした街路だ。恐らくは、どれも倉庫だろう。何の飾りもない平屋の建物が、格子状の路地に沿って、ひっそりと身を寄せあっている。人の姿は絶無だ。
程なく、ユディートがぴたりと立ち止った。
「あれね」
俺たちの目の前に横たわる、石畳の街路。
荷馬車二台がすれ違えるほどの道の向こうに、赤い煉瓦を漆喰で固めた外壁と、そこにしつらえられた大きな扉が見えている。周囲の倉庫は、どれも石か木材で建てられていて、赤煉瓦を積んだ建物はその倉庫だけだ。
これが、マイスタの言っていたアンフォラ商会の『裏倉庫』に間違いない。
ユディートが俺を背負ったまま、足早に夜の道を横断する。カイファもユディートの側から離れることなく、赤煉瓦の壁の前に立った。
ユディートに背負われたまま、俺は目の前の赤煉瓦の壁を見上げてみる。高さは彼女の背丈の二倍半ぐらいだろうか。道路の向かいから見ていた限りでは、横幅は百歩程度。人目を憚る『裏倉庫』にしては、結構な規模だ。
固く閉ざされた扉は鋼鉄製だろうか。両開きの引き戸だ。扉を全開にすれば、馬車二台くらいは並んで出入りができるだろう。これは荷物の搬入口に違いない。
エステルとハーネマンは、この扉の向こう側にいるのだろうか?
俺が傷んだ鼓膜に腐った神経を集中させようと力んだ時だった。
かすかな夜風に乗って、何か言い争う声が聞こえてきた。中年の男たちの声だ。
俺と傍らのカイファ、それに俺を背負ったユディートの肩ごしの瞳と目配せを交わし、俺たちは声の聞こえてくる方へと壁沿いに進む。それにつれて、聞こえてくる声も、だんだんと近くなってくる。
裏倉庫の角まで進んだところで、ユディートが俺を背中から下ろした。俺たちは、壁際に身を潜めたまま、そっと角の向こう側を窺う。
角から十数歩先に、壁から突き出した格好の小さな建物が見える。窓は開け放たれ、男たちの苛立たしげな声と、淡い灯火がそこから洩れてくる。
俺たちは、ゆっくりとその窓へと歩み寄る。そして窓の脇にぴったりと身を寄せて、まずは男たちの話に耳をそばだてた。
「だから、俺はそこまでやってくれとは言っていない!!」
これは聞き覚えのある中年男の声だ。
「確かに、俺はあんたたちに連絡した。しかしそれは、動く死体を始末してもらうためで、あの娘たちを攫って、しかも審問にかけろなどとは、一言も……!!」
「貴殿は、ことの重大さを理解しておられぬな、アンフォラ殿」
激昂した男に対して、突き放したように冷酷な男の声。初めて聞く声だ。
「貴殿に招聘されて、我々“
これはどうやら俺のことで、部屋の中の怒った中年は、アンフォラのようだ。
やはり事の発端は、アンフォラが屍者(エシッタ)の俺を始末するために、あの連中を呼んだということか。
しかしそれにしても、何という言い種だ。
ふとユディートを見ると、何かにんまりしている。唇は微かに震えていて、笑いたいのを我慢しているのだろう。相変わらず酷い娘だ。
何となくもやもやしつつも、俺はさらに聞き耳を立てる。
「しかも屍者が平然と暮らせるのは、その邪術の片棒を担ぐ者が居るからに他ならない。我々魔術結社中央会議は、邪術の使い手たる
男の冷酷な声が、淡々と語り続ける。
「魔術の適正な使用を担保し、不穏の種を可能な限り事前に取り除く。それが“第零局”の使命であって、さらにその実働部隊が我々“暴力室”なのだ。邪魔立ては無用に願いたい」
「エステルたちは無事なのか!?」
アンフォラの悲痛な問いが響いた。嘘偽りなく、エステルの身を案じた悲鳴だ。だが男の感情は全く動かないようだ。
「今はまだ奥に繋いである。あの娼婦が屍霊術師なのか、屍者を創った目的は何か、さらには他に仲間がいないか、審問して聞き出さなくてはならない」
「彼女に会わせてくれ!!」
「それはできない」
男の無慈悲な声が、極めて事務的に言い渡す。
「貴殿は依頼主でありこの倉庫の貸主だが、貴殿の役目はそこまでだ。これ以上、貴殿の言うことに従う義務は、我々にはない。お引き取り願おう、アンフォラ殿」