四.審問 八
文字数 4,244文字
宵闇の只中に沈黙する診察室で、俺は頸椎の力を失い、垂れた頭蓋から顎を落とすばかりだった。そんな打ちひしがれた俺に飛んだのは、聖騎士ユディートの叱咤の声だ。
「ねえ、トバルくん。まさかこんなことで諦めるつもり?」
ハッと顔を上げた俺に、ユディートが薄闇に蒼く煌めく左の瞳を注ぎかけてくる。冴え冴えとした眼差しで険しく俺を見据え、彼女が俺を強く諭す。
「あの時守れなかったもの、見過ごしてしまったものを、今取り返さないでどうするの? エステルもハーネマンさんも、今ここで二人から目を逸らしてしまったら、キミはあの時と同じ途を辿るのよ。分かるよね?」
ユディートの左の瞳から、割れたガラスを思わせる危うさが消えた。代わりに黒薔薇の蕾のように、漆黒の瞳がふんわりと綻んでくる。
「さあ、信じなさい。“まだ間に合う”と」
ユディートが不敵な微笑を湛え、俺とカイファを見比べる。
「“信じる力”は強いのよ。さあ、二人とも心の底から信じて。求める答えは、常に自分の心の中にこそあるのだから」
聖騎士の鼓舞を受けて、俺の胸郭がぐうっと拡がったようだ。萎びて停まった心臓が、再び拍動を始めたような錯覚に包まれる。
そうだ。俺が、俺たちが、今この時にエステルとハーネマンを助けなくて、他に誰が助けられるというのか。今の俺にできること、そしてやらなければならないことこそ、二人を
再び姿勢を正した俺の横で、恋人を奪われたカイファも、ぐっと深くうなずいた。今までの落胆しきった表情は失せ、翡翠の瞳に灯った精気が勢いを増してくるのが分かる。
「信じます。必ずエステルを助け出せるって……!! ハーネマン先生も……!!」
エステルへの想いが、大きく強く彼の心の中に膨れ上がってきているのだろう。恋の力は偉大だ。
ユディートが満足そうに左目を細め、口元に見慣れた笑みを浮かべる。
「その心意気よ、カイファくん。それにトバルくんも。何者にも屈さない、諦めない戦士の心得、今はあたしが教え諭す必要はなさそうね」
……ちょっと待て。
この期に及んで、まだユディートは説教をくれるつもりだったのか……。
心の瞼が半眼になりかけた俺の横で、カイファがユディートに真摯な視線を注ぐ。
「でも、あの二人はどこに連れ去られたんでしょうか? ユディートさんには、心当たりが……?」
必死の口調で問われたユディートが、俺に目を向けてきた。
「第零局・暴力室(ダアト・ベリューア)を呼び寄せたのは、誰だった?」
「アン、フォラ、ダト、聞イテ、イル……」
俺の答えを聞き、腕組みの彼女がカイファに聞き返す。
「それなら、呼んだアンフォラくんが、彼らを迎え入れているはずよ。この花街から一番近いアンフォラ商会の建物はどこ? それも、一番目立たないような……」
しかし問われたカイファは、眼鏡の奥で翡翠の目を曇らせる。
「アンフォラ商会は僕たちの商売敵ですが、彼らの何から何までを調べているわけではなくて。それに、アンフォラ商会は裏の稼業とのつながりがあって、僕たちでは分からないところがいろいろと……」
彼の悔しげなため息が、診察室の夜闇に融け入ってゆく。
と、その時だった。
俺たちの背後で、きしっと扉の軋む音が聞こえた。瞬時に振り返った俺たちが見たもの、それは戸口の柱に寄りかかって立つ一つの人影だった。
暗がりの中、細かいところは分からないが、かなり息を切らせている。相当疲弊しているようだ。
肩に覗く神鋸の柄を握ったまま、ユディートが意外そうな声を上げた。
「マイスタさん!」
「えっ? あっ……!」
小さく声を上げたカイファが、戸口の人物に駆け寄った。カイファが手を差し伸べた相手が、息も絶え絶えに弱弱しく口を開く。
「おお、カイファさん、ユディートちゃん、それに、マノさんも……」
力なく震えてはいるが、この聞き慣れた老人の声は、確かにあの白鷺庵の主人マイスタだ。カイファの肩を借りたマイスタが、ユディートの起こした椅子によろよろと腰を下ろす。
同時に、荒らされた診察室の中に、オレンジの小さな灯火が広がった。ユディートが、診察机の隅に立てられていた蝋燭を点したようだ。
そのともしびの傘が露わにしたマイスタの姿に、驚いた俺は顎をかくんと落とした。
心身ともに憔悴しきったマイスタの髪は、黒くちりちりに縮れている。服もあちこち焼け焦げ、きな臭ささえ漂ってくる。体に火でも点けられたのだろうか。
「っあー、すまんねえー……」
「マイスタさん、休んでいないとダメでしょう! マイスタさんも、魔術の炎を食らったんですから」
「でもでも、気が気でなくて、とても寝てなんかおられんよー……」
カイファは咎めるように言葉を掛けたが、マイスは繕った笑みを顔に貼り付けている。しかしその下には、言い知れない悲嘆と不安とがじわじわと滲む。膝の上の筋張った手も堅く握り締められ、見ているこちらがいたたまれない。
それも無理ないのだ。大切に護ってきたはずのエステルを、目の前で攫われてしまったのだから。その悲しみと悔しさ、憤りは、カイファの想いに勝るとも劣らないだろう。
「マイ、スタ、ハ、何故、ココヘ……?」
俺が聞くと、うなだれたマイスタが大きなため息をついた。
「ハーネマン先生がくれたマノさんの診断書を、お嬢さまを攫った魔術師が持って行ったからねー……。もしかしたら、ハーネマン先生も危ないんじゃないかと思ってねえー……」
……なるほど、さすがは気遣いの人マイスタだ。
図らずもマイスタの懸念は的中してしまったのが、残念でならないが……。
マイスタが、すがるような眼差しを俺たちに順に注ぐ。
「ユディートちゃん、カイファさん、それにマノさんも、何とか、お嬢さまとハーネマン先生を助けてはもらえんか……? ハーネマン先生は、この花街にはなくてはならないお人だし……」
年季の入った両手で顔を覆ったマイスタが、肩を震わせる。
「お嬢さまは不憫過ぎるでね……」
カイファもうなだれた。握られた彼の拳が、小刻みに震えている。
「僕たちも、すぐにエステルを助けに行きたい。でも、アンフォラ商会の花街の建物が……」
「アンフォラ商会の建物?」
マイスタがぴくりと顔を上げた。
「アンフォラ商会の“裏倉庫”なら、ここの近くの裏路地にあるよー……」
「え、え!?」
「何ダ、ト……!?」
眼鏡の奥で目を見開くカイファ、それに眼球を剥いた俺の驚きの声が重なった。
一瞬言葉を失った俺たちの脇から、ユディートがそっとマイスタに問う。
「それはどこ? マイスタさん」
全く感情の起伏のない、静謐の水面にも似た口調の彼女の問い。対照的に、彼女を見上げるマイスタの虚ろだった目には、生気が戻ってくる。ユディートの意図を悟ったのだろう。
「この診療所から三区画北に入った路地に、赤煉瓦の大きな倉庫があってねー。そこはアンフォラ商会が表に出し辛い荷物を保管しておく場所なんだよー。今は申請出てないから、空になってるはずだけど……」
マイスタの目が、いつになく強い光を宿す。
「お嬢さまとハーネマン先生は、そこにいる……?」
「きっとね」
確信に満ちた表情で、ふふーん、と甘ったるく笑ってうなずくユディート。
しなやかな腕を組み、左の目を細める彼女の横で、カイファが興奮と驚嘆の入り混じった眼差しをマイスタに向ける。
「マイスタさん、どうしてそんなことを知って……!?」
「ああー、それは……」
マイスタがわずかにうつむいた。いつになく自嘲的に笑う好漢だが、目許は寂しく、そして苦しげに映る。
「わしのところには、いろんな話が集まってくるでねー。わしは娼館組合の他に、闇取引やら暗殺やら請け負う裏組合の世話役も、やってるから……」
意外な告白だ。しかし、マイスタの白鷺庵やエステルの特別待遇を振り返れば、やはりこの街の裏世界でも顔の利く人物だというのは、うなずける話ではある。
「マイスタさんが……? どうして……」
驚きを隠さないカイファに、マイスタが素直に告白する。
「元々、わしはある地方有力者の子だったんだが、つい身を持ち崩してしまってねえ。あちこちの豪商や地方領主を渡り歩いて、下男のようなことをしておったんだよー。何年もして流れ着いた先が、ケルヌンノスのマイリンク商会だったんだけど……」
うなだれたマイスタが、深くため息をつく。重く濁った、苦しい吐息だ。
「そこでつい、お店のお金に手を付けちゃって。結局それがバレて山岳猟兵隊に引き渡されそうになったんだが、大旦那さまがお目こぼし下さってねえ……」
「『大旦那さま』って、エステルのおじいさま、ですか? もうだいぶん前に亡くなられた」
カイファの質問に、マイスタがこくりとうなずく。
「そうだよ。その大旦那さまは、わしの罪に目をつぶって下さったばかりか、そのお金を持たせたまま、当時のこの花街の顔役に、口利きして下さったんだよー……」
一旦言葉を切ったマイスタだったが、すぐに再び語り始めた。
「大旦那さまが言うには、わしはあちこちの有力者を渡り歩いて、いろいろな話を知っていて、情報の伝手を持ってるから、花街の裏では必ず役に立つってことでねえ……。実際、わしの知ってた話と昔作った伝手は、かなり組織の役に立ったんだよー。そうして、わしもそれなりの立場と財産を作って、わしの白鷺庵を構えたんだ。それでね……」
マイスタが、もう一度しんみりとした吐息を挟む。
「マイリンクの大旦那さまには、いつか恩返しをしたいと思っていたんだけれど、結局その前に、大旦那さまは亡くなってしまわれて。マイリンク商会は、裏の仕事には頑として手を染めなかったからねえ……」
マイスタの痩せた肩から、がっくりと力が抜けた。
「わしがご恩返しをする前に、マイリンク商会は乗っ取られて、分裂してしまったから……。あの気の毒なお嬢さまを、わしのやり方で何とかお守りすることが、わしの大旦那さまへの罪滅ぼしなんじゃよー……」