二.花街の少女 四
文字数 4,982文字
そんな俺から、きっちりと数歩の距離を保つ、肉感的な四人の女たち。白粉を塗り、香水をむんむんと匂わせた彼女たちは、この歓楽街の娼婦だろう。鼻を摘み、眉根を削ぎ立てて、俺を睨みつけてくる。
そしてゆらゆらと突っ立つばかりの俺の横で、腕組みに困り顔の老人マイスタ。見ず知らずの俺に一夜の宿を恵んでくれた、恩人の好漢だ。
今俺たちがいるのは、朝一番の”
窓のないこのサロンの中で、女たちは開けっ放しにされた玄関の内側に整列している。
この女たちは、目を覚ましたマイスタと俺がサロンに入るなり、いきなりどやどやと外から乱入してきた娼婦たちだ。たぶん近所に住んでいるのだろう。
横一列に並んだ女の一人が、口元をハンカチで覆いながら、マイスタを傲然と指差した。
「ちょっとマイスタさん! あなた一体どういうつもりなの!?」
薄布越しのキンキン声で、その娼婦は感情的に怒鳴り散らす。
「そんな臭くて汚くて不潔なひとをサロンに呼び込んで! バッチいことしないでちょうだい!」
「そうよ! そうよ! そんな死んだ方が早そうなひとなんか、ほっとけばいいのよ!」
別の女も鼻を摘んだまま、大声でわめいた。
……『臭くて汚い不潔なひと』、それに『死んだ方が早そうなひと』とは、もちろん俺のことだ。ひどい言われようだが、どちらも本当のことだから仕方がない。
つい俺が洩らしたくふふ、という自嘲的な笑いに、女たちが一斉に噛みついてきた。
「あああ、気色悪い!!」
「なんて悍ましい、生意気なバケモノ!!」
「何!? 何なの!? 早く追い出しちゃって!!」
「あたしたちのサロンが臭くなっちゃうじゃない!」
マイスタが苦笑を洩らす。
「いや、ここはわしのサロンなんだが……」
彼が黙ったままの俺と、いきり立ってぎゃあぎゃあ騒ぐ女たちの間に割って入った。
「でもまあ、困ってるお人をそんなに邪険にするもんじゃないよー」
マイスタの如何にも気の毒そうな視線が、ちらりと俺をかすめる。
「ごらんよ、このひどい傷。このお人も、こんなになるまで放っておかれた、辛い境遇があるんだよ」
娼婦たちが口を閉じた。何か思うところがあるのだろうか。お互いの複雑な表情を見合わせた彼女たちだった。
だがすぐに一人の女が不満も露わな上目遣いをマイスタに向けた。
「でもぉ、マイスタさぁん……」
くねくねと、老人マイスタに甘えた媚態を見せる娼婦たち。
このマイスタという人物は、ルディアの娼婦たちから絶大な信頼を得ているようだ。理由は分からないが、彼の人柄ならうなずけるところではある。
しっかりと化粧を固めた娼婦たちに囲まれながらも、マイスタは浮ついたところもなく、穏やかに彼女たちを宥める。
「わしは今からこのお人をハーネマン先生の診療室へ連れていってくるから……」
そこでまた女たちが騒ぎ出した。
「何でマイスタさんがそこまでしなくちゃいけないの!?」
「今日はわたしたちの話をずっと聞いてくれる約束だったじゃない!」
「お医者なら、コイツ独りで行かせればいいのよ! どうせすぐそこなんだから!」
女たちの勢いに圧倒されて、マイスタの顔がみるみる曇ってくる。弱り切った様子で俺に向き直るマイスタ。
面目なさそうな表情でもごもごする彼に、俺はぴきぴきとうなずきかけた。ゆうべ幾度となく繰り返したように、俺はなけなしの力を込めて、縮んだ胸郭を膨らませる。そして夜通しランプの炎を吹く練習を繰り返したとおり、腐った舌で、濁った呼気に自ら意志を刻む。
「イ、ヤ。オレ、ハ、独リデ、行ク……」
俺の発した掠れ声を聞き、その場の全員が凍り付いた。娼婦たちの顔は恐怖と悍ましさに歪んだまま、マイスタは新鮮な驚きも露わな表情で。
彼はこれ以上ないほどの好人物だ。
だが俺が自分の意志を表わせなくては、その厚意に反して無用の窮地に陥りかねない。それにアリオストポリへの道を聞こうにも、冒険者の剣を逃れようにも、まずは意志の疎通は欠かせないだろう。
――話せること――、それが危難を避けるため、この状況で俺に浮かんだ唯一の方法だった。
ただ、俺が話すたびに体内の死臭が洩れてくるのだけは、どうにもならないが。
俺の屍者の声が引き起こした異様な沈黙は、数秒で打ち破られた。
「いいよ。あたしが連れていってあげる」
戸口に響いたのは、少女の快活な声だ。その場に居並ぶ皆の目が、一斉に玄関へと注がれる。
溢れる陽光を背に、玄関口に立つのは、短髪の少女。丸みを帯びた顎のラインが愛らしく、朝の光を照り返す黒髪の艶が美しい。均整の取れた色白の身を黒い衣装に包み、右目を長い前髪に隠している。右肩に見えている棒状のものは、背中の得物の柄だろう。
”ユディート”。あの異人の冒険者だ。
”
「ハーネマンさんのところなら、あたしもちょうど用事があるから。マイスタさんは、みんなのお話をゆっくり聞いてあげて」
ユディートの言葉を聞き、娼婦たちの殺気立った怒り顔が、瞬時に喜びの表情へと塗り替えられた。
「嬉しいわぁ、ユディートちゃん! さすが、分かってるぅ!」
「マイスタさんとのおしゃべりは、ここのみんなには大事な時間だもん。あとはあたしに任せて」
このユディートという異人の少女も、娼婦たちの間ではかなりの信頼感があるようだ。
だがマイスタ自身は、困惑の表情を崩さない。
「でもわしは、このお人に約束したのだからねえー……」
さすが、マイスタは義理堅い。しかし、ここで本当にマイスタを連れ出してしまえば、俺もマイスタも立場が危くなるだろう。
とりあえず、この白鷺庵から一度出た方がいい、という判断に、間違いはないと思う。独りで出てしまえば、そのままどこかに隠れてしまうこともできるだろうが、ユディートが一緒では、そうはいかない。
ユディートの申し出には何か作為を感じるが、他に手はないようだ。俺はもう一度、首をぐいぐいと振る。
「大丈夫、ダ。アリ、ガトウ……」
ちらりと目玉を戸口に向けてみると、ユディートも驚いたように左目を丸くしている。他愛もない俺の言葉が、ユディートには何か引っかかったようだ。
つい首をひねった俺の耳に、マイスタの安堵に満ちた息づかいが聞こえてきた。
「すまないねえ……」
ゆらりと向き直った俺、それに戸口のユディートを交互に見るマイスタ。彼の老成した顔に、感謝と気遣いが色濃く漂う。
「それじゃあ、ユディートちゃんにお願いしようかねー。よろしく頼むね」
「任せてね」
コロッと笑ったユディート。ちょっと首を傾けて、愛嬌よく振る舞う彼女は、愛くるしい笑みを浮かべている。
昨日の鋭い狩人顔とは別人のような、この豹変ぶり。確かに可愛い少女だとは思うが、微笑ましい思いとともに、警戒心を新たにした俺だった。
そのユディートが、左の目を細めて俺を手招きする。
「さあ、一緒に行こうよ。ハーネマンさんのところへ……」
可憐な口元はふっくらと笑っているが、切れ長の瞳は真剣そのものだ。作為を越えた謀略を感じたが、もう手遅れだった。諦めと覚悟、それに皮肉を込めて俺は臭い息を吐く。
「行ッテ、クル……」
「気を付けてなー」
俺はマイスタと娼婦たちから離れ、ずりずりと戸口へ向かう。背後では、もう俺などいなくなったかのように、女たちの弾んだ声が響く。
「じゃあ、お台所を借りるわね。お茶を淹れなくちゃ」
「今日はマイスタさんに聞いて欲しいこと、いっぱいあるのよー」
「ほら、マイスタさんは座って座って」
明るくかしましいやり取りとは対照的に、俺は重苦しい気持ちを抱え、ユディートの前に立った。少女のふっくらとしたみずみずしい頬が、ほのかに赤く染まっている。何を考えているのやら、全く読めない女の子だ。
そういえば、元より彼女は人間(ホムス)ではなかった。人間だった俺には、読めなくて当然かも知れない。
俺は玄関から表へと踏みだした。今日はよく晴れているようだ。隠すもののない太陽の光が、瞼のない俺の目玉に突き刺さる。俺は頭に被ったフードをグイッと引っ張った。
同時に後ろでかちゃん、と音がして、サロンの賑わいが聞こえなくなった。玄関が閉じられたのだろう。
続けて、無言のユディートが俺の手を握った。彼女の白い手は、黒革の手袋に包まれている。
いくら素手ではないとはいえ、俺の手は腐汁が滲み、汚らしく臭いことこの上ないと思うのだが、この精人の少女は意に介さないようだ。
俺を見上げるその顔を見ると、ついさっきまでの笑顔は、きれいさっぱり消え失せている。頬が膨れているのは、怒っているせいだろうか? それにしては、冷たい左の眼差しに、憤りは感じられない。
……本当に何を考えているのだろうか?
何も分からないまま、俺はユディートに手を曳かれて歩き出した。
傷み切った足でとぼとぼと進む俺だ。その速さなど、たかが知れている。百歳の老人にも及ばないほどの歩みで、俺は白鷺庵の前の広場を行く。
朝の広場に人影はまばらだ。あの青銅の蓮の泉から、甕に水を汲む人の姿もある。
円形の広場を行き来する人々は、俺を見ては驚きと戦慄に顔を引き攣らせ、俺を連れ歩くユディートの勇姿に安堵の息を洩らす。だが俺を見る誰もが騒がないのは、恐らくはユディートが一緒にいるからだ。
このユディートといい、それにマイスタといい、全く得体が知れない。
突然、俺の手を曳いて前を行くユディートが、前を向いたまま口を開いた。
「キミ、あたしやマイスタさんのこと、不思議に思ってるでしょ」
さらさらの短い黒髪が揺れる彼女の後姿を見ながら、俺はびくんと体を揺らす。図星を刺された俺に、ユディートが振り向かないままに続ける。
「キミを助けたマイスタさんは、あの”白鷺庵”の主人。もともとは誰か
……なるほど、マイスタはこの娼館街の裏方を支える人物という訳だ。その位置に収まった経緯は、まだ分からないが。
結構な時間をかけて、ユディートが俺を白鷺庵から十軒ばかり離れた路地裏へ導いた。
ひと二人が並んで歩くのがやっとな程の、家々の間の狭い道。その壁を背に俺を立たせ、ユディートが手を放した。
俺の正面で腕組みするユディート。周囲に誰もいないことを確認してから、彼女が改めて俺に対峙した。わずか下に見える左の眼差しは薄く鋭く、蒼く光ってさえ映る。
昨夜に垣間見せた、まぎれもない狩人の視線だ。瞬きもしない切れ長の片目に捉えられ、俺は生きた心地さえしない。死体の癖に……。
怯える俺を無表情に見つめ、ユディートがゆっくりと俺に問う。
「ねえ、キミって“
ユディートの左目が細くなる。口角も吊り上がり、笑っているようだ。だがこれまでの十代の笑顔ではない。売笑婦さえ凌駕する海千山千の熟女の微笑、それ以外の何物でもない。
俺の萎びた全身の皮膚に怖気が走った、気がする。
「ハーネマンさんに診せる前に、あたしがキミを視てあげるね、屍者くん。じっくりと……」