二.花街の少女 八
文字数 4,738文字
……俺は誰に、何のために屍者にされた? 俺は誰だ?
俺の無惨で醜怪な容貌を、目の前の聖騎士ユディートが平然と眺めている。両手の人差し指と親指とで作った矩形のアングル越しに。その四本の指の間には、薄桃色の光る膜が張ったままだ。
言い方は悪いが、あんないい加減な作法で、何かの術法を発効させたユディートだ。俺には分からないことでも、この少女なら何か分かるかも知れない。
俺は生気を留めているらしい眼球をユディートに向けた。そして全霊を傾けて肺を膨らませ、俺が知る限りの言葉を吐く。
「パ、ペッ、タ……、ショク、ザイ……」
黄ばんだ歯の間から吹き出した、俺の掠れ声。その真冬の寒風にも似た音を聞き、ハーネマンの頬まで粟立つ。
蒼い目に怯えを走らせた女医が、戦慄く唇で俺の言葉をなぞった。
「『パペッタ』? 『贖罪』……?」
まさに幽霊でも見たかのような表情で凍り付くハーネマン。
色も言葉も失った女医に対して、細められたユディートの左の瞳が、奇妙に熱と深みを帯びてくる。
「“
思いがけないユディートの言葉。俺は飛び出そうなほどに眼球を剥き、びちびちと頸椎を鳴らして何度もうなずいた。
そうだ。『久遠庵のパペッタ』。
あの女が、俺を死体人間の屍者に換えたのは疑いようがない。あれは何者なのか、どうして俺を文字どおりの生きた死体にしてくれたのか……?
俺の深く苛立つばかりの疑問は、平常心を取り戻した風なハーネマンが、代わりに問うてくれた。
「それはどういうひとなの? ユディートさん。知り合い?」
「知り合いじゃないから。噂を聞いてるだけ」
女医の問いを即座に否定して、腕組みしたユディート。左の目が物憂げに伏せられる。長い睫の下で、黒い瞳に薄い陰が渦を巻く。憮然とした口元とも相まって、憤りを抑えているようにも映るが、そればかりではなさそうだ。
もともと捉えどころのない不思議な少女だが、こういう複雑な表情のユディートは初めてだ。腕組みしたまま、右の親指を口元にあてて、聖騎士の少女が小さく唸る。
「分からないことだらけなんだけど……」
珍しく自信なさそうなユディートだが、それでも俺は彼女がぽつぽつとこぼす情報に、じっと聞き入る。
「パペッタっていうのは、
「どうして分かるの?」
「それはね……」
ハーネマンに尋ねられたユディートの表情が、ますます険しくなった。左目も遠く鋭くなり、その風貌は俺と初めて出会った晩の狩人の顔を思い起こさせる。
「パペッタを倒そうとした熟練の冒険者が、もう何人も返り討ちにあってる、って噂」
「ナ、ゼ……?」
俺も聞くと、ユディートは殺気立った横目に俺を捉えた。
「パペッタはかなり熟練した魔術師で、強力な術法を行使できるって。それもただの魔術だけじゃなくて、”
彼女が聞えよがしな大きな吐息をつく。
「屍霊術はね、あたしたち
腐肉に包まれた俺の心が、ぞわりと怖気づく。
やはりユディートは、不死の怪物となり果てた俺を、禁忌の存在として敵視しているのだろう。道理で、初見の俺にいきなり殺意を向けてきた訳だ。
「どうして禁忌なのかしら?」
「屍霊術、特に”
だがユディートの険しい顔は、ころっと微笑に変わった。例のにんまりとした、背筋も凍る気がする笑みだ。
「屍霊術の使い手は、臨終で必ず死者の復讐を受けるから、無理に手は出すな、って教えられてる。放っておいても、遅かれ早かれ必ず破滅するんだもん」
不意にユディートが俺を指差した。
「問題はキミの方」
彼女は俺を探るような目で凝視する。
「パペッタは悪名高い
ユディートが俺を見る目をすうっと細めた。
「キミ、パペッタに何をしたの?」
聖騎士の口調が低くなる。
「キミに使われた屍霊術の“
女医ハーネマンが、怪訝ながら気遣わしげな眼差しを向けてきた。
「あなたは、どこのどなたなの? お名前は?」
だが俺には、固まりかけの頸椎をびちびちと横に振るしかない。彼女の問いへの答えを、俺は持ち合わせていないのだ。
不憫そうに目を伏せて、ハーネマンがユディートに聞く。
「このひと、どうして記憶がなくなってるの?」
「この屍者くんに使える記憶、選別されているのかもね」
ユディートが俺を横目に流し見る。
「屍者くんの霊魂と元の体は“銀の緒”でつながってるから、記憶は元の体から曳き出せるはずだけど。この屍者くんはかなりの思考力を残してるから、パペッタが何かの方法で曳き出せる記憶に制限をかけているんじゃないかな」
「その体は今どこに?」
ハーネマンのこの質問には、俺にもある程度の答えはある。
「パ、ペッタ、ノ、アリ、オスト、ポリ……」
女医と聖騎士が顔を見合わせた。
「『アリオストポリ』って、隣のアープの王都? ちょっと前、この国の軍と酷い戦いがあったって……」
「パペッタの魔法屋はアリオストポリにあるって噂だから、たぶん屍者くんの体もそこにあるんじゃないかな」
ユディートが、両手の人差し指と親指で、再び矩形を形作った。そのアングルの中に俺を収めつつ、彼女はつぶやくように言う。
「キミの頭から出てる“銀の緒”をたどっていけば、アリオストポリにあるキミの体には行き着けるはずだけど……」
「アープのアリオストポリなら、このルディアから歩いて十日くらいの街よ」
そう教えてくれたハーネマンの顔が、気の毒そうに曇ってくる。
「でもあの戦い以来、アープとルカニアの国境の門は全部封鎖されてるらしいから、当分の間アープに行くのは無理だと思うわ」
「それにアープのアリオストポリは、厳重な検問で有名だから。キミみたいな怪物まがいの不審者なんて、その場で退治されるよ」
にんまりと楽しそうに笑う、腕組みのユディート。心の底から楽しそうだ。腹立たしくも思えるが、彼女はまあこんなものだろう。彼女の態度には、少し慣れてきた。
それにユディートの言うことも、もっともではある。
「ココ、ハ、ドコ、ダ……?」
「キミは気付いてなかったんだね」
ユディートが曖昧な笑みを湛えたまま、俺に告げる。
「ここはルディア。このルカニア東北地方では、もっとも大きな街の一つだよ。アープのアリオストポリに一番近い都市じゃないかな」
ユディートがくれた情報に、俺はこくこくと浅くうなずく。
アリオストポリは、別の国にあるのか。
しまりのない顎からはますます力が抜け、頸椎もついうなだれてくる。気落ちの隠せない俺を前に、ユディートの表情から曖昧な微笑は消えた。代わりに浮かんだのは、十代少女の真剣な思案顔だ。
「そういう訳だから、キミが本当にアリオストポリへ行く気なら、この街で国境の門が空くのを待った方が無難かもね」
「イツ、開ク……?」
「そんなこと、あたしに分かる訳ないじゃない」
ユディートが即答した。ついでにちろっと舌を覗かせる彼女。
それはそうかも知れないが、その無責任な口調に、少しばかり腹が立つ。しかし彼女に怒ったところで仕方がない。結局は俺の問題なのだから。
俺は不満の気分を肋骨の内側に押し込む。
そんな不機嫌な俺に気付いたのか、ハーネマンが慎重な口調ながら、こう言った。
「国境の開放は、アープのひとがルディアに来るようになったら分かるから。本来、ルカニアのひととアープのひとは仲が悪い訳じゃないし、アープからはたくさんの商人が来ていたから。この花街にもね」
何度もうなずいたユディートが、ハーネマンに視線を移した。
「どっちにしても、屍者くんはしばらくの間、白鷺庵で過ごすことになるんじゃない? マイスタさんも女の人たちも、屍者くんを生きた怪我人だと思ってるから、それはそのままにしておいた方がいいと思うけれど、ハーネマンさんはどう思う?」
「同感ね」
ハーネマンがうなずく。
「この花街の人たちは、マイスタさんの言うことなら疑わないから、少なくともあのひとにはそう思わせておいた方がいいわね。幸い、このひとは受け答えができるみたいだし」
そこでハーネマンの眼鏡の奥の瞳に、深い疑念が湧き上がった。
「でもそのパペッタっていうひとは、どうしてこのひとを『屍者』にしたのかしら?」
「『贖罪』のため、でしょ」
ユディートが華奢な肩をすくめる。
「屍者くんを屍者にしたことがどう贖罪になるのか、今はまだ分からないけれど。でもパペッタは、屍者くんの記憶を操作してるみたいだから、そのうち本人には分かってくるかも」
そこでハーネマンが、お医者鞄の中から真っ白な太めの包帯を取り出した。
「さ、座って下さい。楽にして」
女医の指示に従って、俺は床に再びしゃがみこむ。
ハーネマンも、同時に床へと膝を着いた。
「このひとは”酷い全身ガス壊疽”、ということにしておきましょう。後でマイスタさんに一筆書いてあげるから。死に至らないのは、ユディートさんの法力の影響ということにしておけば……」
「まあ何とか誤魔化せちゃうかもね」
ふふーん、と少女特有の甘い笑いを洩らしたユディートの前で、女医ハーネマンが俺の顔に真新しい包帯を巻いてくれる。まあ、どうせまたすぐに、包帯は顔の腐肉に貼り付いてしまうとは思うが。
手当を続けながら、ハーネマンがユディートに聞く。
「それはそれとして、このひとの名前くらいは、何とか分からないかしら? このひとを何て呼べばいいのか分からないのは、不便だもの」
「別に『
「でもそれじゃ屍者だってみんなにばれちゃうでしょ? 私が『診断書』を出す意味がなくなっちゃうわ」
揶揄するようなユディートをハーネマンが穏やかに諭す。まるで仲の良い姉妹のようだ。
彼女たちは、この花街の娼婦たちの心と体を、マイスタと三人で支えているのだ。やはり深い絆があるのだろう。
つい微笑ましくなった俺の顔だけでなく、両腕にも両脚にも包帯を巻き終えて、ハーネマンが俺の全身を改めて見回した。
「何かこのひとの身元が分かるものがないかしら……」