四.審問 四

文字数 4,136文字

 俺はすべてを思い出したのだ。
 底知れない絶望と、抱えきれない自分への嫌悪とともに。

 俺の眼球を遮る灰色の星屑の嵐の中で、俺はどうしようもなく立ち尽くす。
 閉じられない両目を灰色の嵐が翻弄するのに任せたまま、俺の意識がぐうっと上方へと曳き揚げられた。そう感じた次の瞬間、空から一気に叩き落されたのような衝撃が俺を襲った。
 びくんと体を震わせた俺の耳に、ガラスのベルを鳴らすような、少女の声がそっと囁く。

「お帰り、トバルくん」

 おもむろに顔を上げると、そこには黒髪の女聖騎士ユディートの顔があった。
 曖昧な中に、深い同情と哀切が漂う彼女の面差しに触れ、俺の荒み切った心の底に、人肌の泉が湧き上がる。

 俺はユディートに右手を握られたまま、ユーデット聖廟の中に立っていた。ここを訪ねて彼女に逢い、そして幻視の旅に出ている間、俺はここから一歩も動いていなかったのだ。
 ユディートの左目が、俺を静かに捉える。

「“離魄(エッセンス・トリップ)”はどうだったかな……? もうキミは、何もかも思い出したと思うけれど」
「アレ、ハ、ドコ、ダ……? アノ、戦場、ナノ、カ……?」
「あたしがキミの意識だけを送ったのは、今のマルーグ峠。生者も死者も、誰もいなくなった戦場の跡に触れて、キミの記憶の封印(ロック)は全部外れたの」

 ユディートが微かなため息とともに、目を伏せた。俺の右手を握る彼女の手に、一瞬ギュッと力が入る。

「キミの幻視、あたしも見せてもらったよ」

 そこで彼女が言葉を切った。重い沈黙が、俺とユディートの間に這入ってくる。
 瞳を閉じたこの女聖騎士の表情は、曖昧なままだ。だが敢えてユディートが無言を選んだのは、彼女なりの深い気遣いの表れなのだろう。
 しかしユディートがすぐに目を開き、漆黒の瞳を俺に向けてきた。
 俺は手を放した彼女に、再び問う。

「“罪”ハ、分カ、ッタ……。何ヲ、スレバ、贖エ、ル……?」

 しかし彼女が、逆に聞き返してくる。

「キミはもう何度も自分の罪を数えて、マルーグ峠への離魄でそれを確かめてきたよね? じゃあ、キミの“最大の罪”は、何だと思う? トバルくん」
「『最大ノ罪』……?」

 俺はうなだれた。
 タダイの裏切りを見逃したこと。
 そのために俺の百人の部下を無駄に死なせ、マノ大尉も五百人の大隊も守れなかったこと。
 結果としてケルヌンノスの街が焼き払われ、エステルたちの人生を狂わせたこと。
 どれを取っても、およそ贖いきれない大罪だ。今さらのように心が戦慄く。
 耐えがたい重圧に、うなだれるばかりの俺。
 腕組みをしたユディートが、身を乗り出すようにして、そんな俺の顔を覗き込む。

「“過ち”と言い換えてもいいけれど、キミの“最大の罪”はね、トバルくん」

 彼女の瞬きしない左目が、再び細められる。

「キミが、自分の犯した過ちと向き合ってこなかったこと、なのよ」
 思いがけない彼女の言葉が、俺の頭蓋を痛打した。
 
 ぴきっと頸椎をもたげた俺に、ユディートが続ける。

「ひと一人がこの地上でできることなんて、たかが知れてるし、過ちだって必ず犯すの。その過ちを償うためにできることも、たかが知れてる。でもね」

 ユディートの厳しい唇が、ほのかに緩む。

「自分の過ちを素直に受け入れて、どんなことでもいいから、できることをする。当然、嫌な目にも悲惨なことにも遭うけれど、その苦痛も含めて、“思い”と“行動”と“経験”が、過ちの産んだ負の“因果(カルマ)”を少しでも正すこと。それが『贖罪』なの」

 彼女の面差しに、いつか見た悲母の表情が宿る。

「前にハーネマン先生が伝えてくれたよね? キミの苦悩も贖罪の一部だ、って。今のキミなら自分の罪を認めて、それに改めて向き合える。あとは行動に移すだけ。キミがなすべき行動を」

 静かだが、不思議な熱意を伴う、ユディートの沁みる言葉。暗闇の只中で泣き叫び、足掻くばかりだった俺の心に、一条の光明がしたかのようだ。
 女神と映るユディートの顔を見つめた俺だったが、その首はすぐに力を失った。

「俺ハ、何ヲ、スレバ、イイ……?」

 うなだれた俺は、思い悩む。
 まずは詫びるところから始めたい。俺が失った百人の部下たちの遺族に。それにケルヌンノスの人たちに。だがケルヌンノスが焼き払われ、住人は散り散りになってしまった。彼らをどうやって探して、どう詫びたらいいのだろう……?
 するとユディートが、ふふーん、と甘ったるい笑いを洩らした。深刻さなど微塵もない、十代少女の楽天的過ぎる息だ。

「それは自分で決めること。自分の役目は自分で決めるの」

 ユディートの左目が、わずかに細くなる。いつものにんまりとした笑みを湛え、彼女が言い切る。

「キミが何かを見逃したと思うなら、今度は見逃さないで。誰かを守れなかったと思うなら、誰でもいいから守ってあげて。見殺しにしたと思うなら、今度は助けてあげて。それでいいの。何をどうするのかは、キミの罪から考えて、キミが決めて」

 ユディートの右手が、俺の左腕にそっと触れた。

「あと二、三日で、ルカニアとアープの国境封鎖が解かれるらしいよ。その間に、キミにできることを探してやってみて。それで堂々とパペッタのところへ乗り込んで、元のキミの体を取り返せばいいんだから」

 彼女の言葉を胸郭の内側に大事にしまい込み、俺は最大の感謝を込めて、ユディートに向かってうなずく。

「分カッ、タ……。アリガ、トウ……」

 そこでユディートが静かに微笑んだ。

「ひとつ教えておいてあげるね、トバルくん」

 ぴきっと小首を傾げた俺に、ユディートがゆっくりと、噛んで含めるように俺に告げる。

「あたしが輪廻の環に還したマルーグ峠の戦死者たちね、キミのことを恨んでるひとは、誰もいなかったよ。ただのひとりも、ね……」

 俺の胸が熱くなる。
 どうしようもない切なさと、それに感謝の想いに近いものが、俺の腐った全身を巡ってゆく。視界はぼやけ、俺の目に映るユディートの顔も、どこか揺らめいてくる。舌も肺も言葉を綴れず、俺は精いっぱいの心を載せて、ユディートにもう一度うなずきかけた。
 神秘的な笑みを一瞬だけ返してくれたユディート。
 が、すぐにいつもの有無を言わせない空恐ろしげで悪戯、それでいて何か真面目な笑顔に変わった。

「じゃあそこに座ろうか、トバルくん」

 細めた左の瞳で俺を見つめつつ、彼女が床を指差す。

「どうやったら自分と向き合えるのか、キミに足りないものをじっくりとあたしが教え諭してあげるから。ひいひいひい……おばあさまの名において」
 
 ああ、結局こうなるのか。ユディートの気持ちは有り難いし、正直、彼女と一緒に過ごせるのは、嬉しくないといえば嘘になる。
 だがこの説教好きだけは、何とかならないものか。
 あの『離魄』とやらは、俺の実感をはるかに超えた長丁場だったらしく、少し前に午後三時の鐘の音が聞こえた気がする。
 そう言えば、この聖廟の天窓から差し込む陽光にも、熟れた柑橘の色が溶かされてきたようだ。夕刻が近いのかも知れない。今からユディートのお説教が始まるとすると、解放されるのは早くて日没後、彼女の興が乗れば夜更けになるか……。

 俺が胸郭の中に密かに洩らしたため息が、ユディートに聞こえたのだろうか。高圧的に腕組みした彼女の左目が、すうっと半眼になる。

「ねえキミ、もしかして不服だったりする……?」

 低く抑えた声だが、不機嫌なのは明らかだ。
 鋭過ぎる勘と洞察力。超人的どころか、もはや神がかっている。ユディートのそういうところは、素直に尊敬できるのだが。
 やはり人間の俺と精人(アールヴ)の彼女とでは、何かが根本的に異なるのだろう。何だか惜しい。いや、”残念”と言うべきか。
 そんな俺の頭の中が、彼女には駄々洩れになっていたのだろうか。
 ユディートがムッと口元を曲げた。
 眉根を寄せた、紛う方なき十代少女の膨れ顔。時折見せる素の彼女が、どうにも微笑ましく、どこか可愛らしい。

 そんなユディートが俺に何か言おうとした、その時だった。
 このユーデット聖廟の扉がいきなり押し開けられ、一人の男が戸口にぬっと姿を現わした。
 と、見えた次の瞬間には、その男はずかずかと聖廟の中へ押し入ってくると、俺とユディートから数歩のところで立ち止った。
 
 三十路手前くらいの男だ。動きやすい濃緑のつなぎ服の上に、オレンジ色のローブを羽織っている。手にしているのは、一本の黒い杖。魔術師だろうか。
 生真面目そうな顔、それに何となく見覚えのあるヘーゼルの両目に漂うのは、強い緊張だ。
 ぞわぞわと嫌な予感に囚われた俺をよそに、ユディートは迷惑そうな表情を作って、平然と男に文句をぶつける。

「ちょっと、死の女神の神域に無断で這入り込むなんて、とんだ不心得者だなあ、キミは」

 腕を組んだ彼女が、前のめりに身を乗り出した。実に快活な少女の挑戦的な仕草だ。

「見かけない顔だけど、キミ、何の用? キミもあたしに教え諭されたいのかな? ひいひいひい……おばあさまの名において」

 すると男が、俺をぎろりと睨めながら、こう言い放った。

「その“屍者(エシッタ)”をこちらへ引き渡せ」
「どうして?」

 不思議そうというか、どこか小莫迦にした調子で聞いたユディートに、魔術師風の男は声を荒げた。

「“屍者”は邪術“屍霊術(ネクロクラフト)”の産物だ! 世の平穏のため、看過はできん!」

 男の目には、どこか怒りの色が覗く。いや、あの思いつめたような目つき。あれは何かを堅く信じ込んでいる者に、特有のものだ。
 男が教条的で狂信的な視線をユディートに向ける。そして強い口調で彼女に言い放つ。

「お前も一緒に来い! そして”審問”を受けてもらう。我々“魔術結社中央会議(セントラル) 第零局(ダアト)暴力室(ベリューア)”の審問を……!」
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登場人物紹介

「俺」


”女屍霊術師《ネクロロジスト》”パペッタに魂を抉り抜かれ、他人の腐乱死体に押し込められ、動く死体の”屍者《エシッタ》”にされた男。

ほぼ全ての記憶を封印《ロック》されており、自分が何者なのか、どうして屍者にされたのか、分からないままに贖罪の旅へと送り出される。

女屍霊術師《ネクロロジスト》パペッタ


「俺」を動く死体の”屍者《エシッタ》”に仕立て上げ、”贖罪の旅”を強要する謎の女。

アリオストポリにあるという久遠庵《カーサ・アンフィニ》という店の主人でもある。

何故「俺」に贖罪を科したのか、その狙いは何なのか、「俺」に心当たりはない。

マイスタ


地方都市ルディアの歓楽街、通称”花街”に住む、気のいい老人。

人懐っこく誰にでも親切な老人で、誰からも頼られる存在。

歩く死体の「俺」に対しても親身に世話を焼く。

ただし、「俺」が”屍者(エシッタ)”だとは気付いていない模様。

ユディート=ユーデット=サイラ(Illus.紅音こと乃さま)


”死の女神モリオール”の小神格”死の太母(マーテル・マカブレス)”に仕える聖騎士の少女。

身分は”ユーデット聖廟騎士団筆頭従士(プライメット・エスクワイヤ)”。

見た目は十六、七の少女だが、人間ではなく”樹精人(アルボリ・アールヴ)”のため、実際の年齢は不明。

小神である”死の太母”の直系の子孫。武芸も祭文(魔術)の腕も、これ以上ないほどに確か。

捉えどころなく映りつつも、時には年頃の少女らしい一面も覗く。

武器は、背中に背負った弓ノコギリ”神鋸:年代記(クロニクル)”。死の太母から代々受け継がれている。

リベカ=ヴィラフランカ=ハーネマン


ルディアの花街に診療室を構える女医。

表と裏から娼婦たちの健康を守る、花街に欠かせない人物の一人。

赤い髪を清潔に結い上げ、しっとりと落ち着いた、眼鏡の美女。

ユディートとは姉妹のように仲がいい。

実は既婚者だが……。

エステル=マイリンク


マイスタが花街に所有する施設”別館 白鷺庵《アネクサム カーサ・アルデア》”に身を寄せる少女。

身分的には娼婦として、白鷺庵の中に個室を持つ。

不幸な経緯から娼婦となったが、実質マイスタの庇護下にあり、彼女の客はごくごく限られる。

ある不自由を抱える薄幸の少女でもあるが……。

ホセア=アンフォラ


ケルヌンノス地方の最大商家、アンフォラ商会の現在の会頭。

かつてはマイリンク商会の傘下にあったが、その没落とともに、屋台骨を乗っ取った。

小心で傲慢。エステルにご執心だが、マイスタが彼女には頑として会わせない。

ユディートを内心ひどく恐れている。

カイファ=ミザール


ケルヌンノス地方の有力な商家、ミザール商会の幹部。

まだ年若いが才覚を認められ、幾つかの商流(流通ルート)の采配を任されている。

ミザール商会もかつてはマイリンク商会の傘下にあった。

しかしその没落後も、マイリンク商会の姿勢を受け継ぐ、気骨のある豪商として知られる。

エステルとは恋仲にあり、マイスタが認めた「客」として、「娼婦」のエステルと逢瀬を重ねる。

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