五.贖罪の行方 三
文字数 4,302文字
とうとうと言うべきか、ユディートのユディートたる所以の不遜な挑戦が、その唇から洩れて出た。
国境で俺を検められることは、ある程度は覚悟していたつもりだ。だがそれをユディートから切り出すとは……。
しかし驚いた俺以上に仰天したのは、目の前の部隊長だった。皿のように見開いた目をさらにひん剥いて、仰け反るように身を退いた部隊長。
「い、いや、その必要はない……!」
焦りと恐れも露わな様子で、部隊長が肩越しに親指で背後を指す。
部隊長の後ろの方では、鋼鉄の門扉が閉じかけのままに、押し留められている。一応、閉門を待ってくれてはいるようだ。
「入国を認めよう、サイラ殿。我がアープ王国へようこそ……」
早口で一方的にそう告げて、部隊長がユディートにくるりと背中を向けた。
「屍者、よりによって、あの女屍霊術師(ネクロロジスト)の屍者など……」
ぶつぶつこぼす部隊長の繰り言から察するに、俺のような屍者が怖いのではなく、やはりパペッタと関わるのが、どうしても嫌なのだろう。
……どれだけ嫌われているのやら、あのパペッタという女は。
だが言質の取れた今、ユディートもこれ以上は、部隊長には関わらないつもりのようだ。“沈む日輪”のペンダントをごそごそと腰の辺りにしまい込み、部隊長の背中に向かって礼を述べる。
「ありがとう、隊長さん。それじゃ、あたしたちは行くね」
それだけ告げて、霊馬ゼテスの手綱を曳くユディートが、わずかに開いた門の方へと歩き出した。
辺りのまばらな人影、それに兵士たちの気の抜けた様子からすると、俺たちが今日最後の入国者のようだ。
一日の仕事を終えつつある兵士たちが、部隊長の方へと集まってゆく。周りを取り囲む部下たちに、部隊長がねぎらいの言葉を飛ばすのが聞こえた。
「今日もご苦労だった。今日は良い黒エールを樽で運んでもらったから、存分に飲んで、また英気を養うように」
一斉に上がる兵士たちの歓声、それに飛び交う口笛を聞きながら、ユディートとゼテス、それに俺は門を潜り抜け、ついにアープの領内へと踏み入った。
今、立ち止った俺たちの目の前に広がるのは、夜色一色に染め上げられた、鬱蒼とした森だ。宵闇の中に無言で立つ無数の古木の間を、一筋の暗い道が真っ直ぐに延びている。アープの王都アリオストポリへと通じる街道だろう。
闇夜の只中に消え入るその先に、灯りは見えない。この国境の森に住む者は、誰もいないのに違いない。
しかし、この森を抜けた遥か先には、あのパペッタが自分の店で俺の到着を待ち構えているはずだ。
何とも言葉にできない色と味が、じわじわと俺の脳を蝕む。吐息や苦笑を溜め込む胸郭がなくなった今、腐った脳漿のちっぽけな空隙など、不安と恐れが瞬く間に占拠してしまう。
……俺の贖罪は、本当に遂げられたのか? 俺の体は……
だが、ただただ無力な俺の憂いは、夜の森の隅々にまで響き渡る、鋼鉄の大きな軋みに追い散らされた。不意に俺の視界がくるりと回り、つい今しがた通り抜けてきた国境の門が、布越しの眼球に映る。見れば、まさに鋼鉄の門扉が、兵士たちに押されてゆくところだ。大男の吹き鳴らす、ホルンのような唸りを上げながら。
そして二秒。ずん、と地鳴りにも似た音とともに、国境の門は堅く閉ざされた。
ふと門扉の脇に視線を移すと、このアープとルカニアとを隔てる門の内側には、二階建ての細長い建物が腰を据えていた。警備兵の屯所らしく、今日の勤めを終えたさっきの部隊長と部下たちが、和気藹々とその中へと戻ってゆく。
これから皆で夕食だろうか。ちらりと部隊長の言っていた『いい黒エール』を酌み交わしながら。
俺の中に、懐かしさと寂しさが過った。
そうだ。あれは、俺にも覚えのある光景だ。
一日の街の警備の終わり。それに野盗や敵を撃退した晩。決まって俺は、ケルヌンノスの山岳猟兵たちに勝利の美酒とご馳走を振る舞ったものだった。全幅の信頼を寄せた猛者たちと、彼らが束ねる百人の猟兵たち。その中には、あの少年兵タダイもいた。
その彼らは、もういないのだ。ともに幾多の死線を潜り抜け、喜びも悔しさも分かち合ったケルヌンノスの山岳猟兵たちは、俺を除いては、ただの一人でさえも……。
遣る瀬のない、茫漠と乾いた悲しみが込み上げた。開き切った眼球に、冷たい水の膜が張ってくるのが分かる。
俺がすり減った奥歯を噛み締めた時、布の上からそっと俺の頭が撫でられた。
ユディートだ。
繊細な彼女の指が、いたわるように俺の頭蓋をなぞる。
「ずっと布の中にいて、ちょっと疲れちゃったよね、トバルくん」
ユディートがいつになく柔らかな言葉で俺に囁く。
「もうちょっとだけ進んだら、休もうか」
彼女の言葉が通じたのだろう。蹄鉄を踏み鳴らし、霊馬ゼテスが進み出た。夜闇に溶け込む精悍な体を俺たちの前に横付けし、蒼い眼を幻想的に煌めかせる、黒い悍馬。ぶふっ、と青白い鼻息を噴きながら首を上下させるゼテスの仕草は、ユディートに騎乗を促しているようだ。
「ありがとう、ゼテス。乗せてもらうね」
素直に答えたユディートが、ゼテスに歩み寄った。夜の中に浮かび上がった鞍と鐙が見えた次の瞬間、ふわりとした感覚が俺の皮膚と脳にかかり、視界が高くなった。
ゼテスに跨ったユディートは、手綱を両手で握り、霊馬にそっとお願いする。
「あと少し、よろしくね」
ぶふっ、ともう一度ゼテスの鼻息が聞こえたと思った時には、この黒い霊馬は森の街道を翔け出していた。
鬱蒼とした森の只中を一直線に突き抜ける街道。その無人の途を、ゼテスは風になって疾駆する。
灯火一つ、獣の眼も鬼火さえも、光るものは何一つ俺の眼球には映らない。この国境の森の全ては、今や深い眠りに就いている。
そんな静けさが支配する森を、猛然と驀進する霊馬ゼテス。だがその姿勢といい雰囲気といい、優雅さも品格も損なわれるところが微塵もない。さすがは小神格“
そんな感嘆を抱いた俺の目の前が、突然開けた。同時にゼテスが軽く前脚を振り上げ、スッと静止する。
遮るもののない、満天の星々が投げる星明り。それを忠実に映し出す、地を覆う広大な鏡面。
湖だ。
銀の粒と金の砂、それに宝石の欠片で作られた星空が、湖面をそのままの姿で彩っている。まるで大地が夜空に置き換えられ、俺たちは広大な空間の只中に浮遊している、そんな錯覚に囚われる。
無音の大気と、天地の星々。
荘厳な眺望を前に、全ての心の滓が洗い流され、本当の思いだけが俺の深奥に残る気がする。
せせらぎの底の砂金のように。
煌めく湖水と星空を映す俺の視界が、ぐらりと大きく揺れた。ざっ、と小さな靴音が聞こえて、俺の目線が低くなる。ユディートがゼテスから降りたようだ。
霊馬の手綱を曳く彼女が、湖水へと歩み寄ってゆく。
王都へ通じる街道は、この湖をぐるりと迂回しつつ、まだまだ彼方へと延びている。周囲にはやはり人工物は見当たらない。この湖水は、人里からは遠く隔てられた僻地なのだろう。
街道から少し離れた湖水のほとりに、ユディートとゼテスが立ち止まった。彼女の前には、葦がまばらに伸びた透明な湖面が広がっている。
星々を宿す、鏡色の湖面。この水の澄み具合、湖水は意外と浅いようだ。
ユディートが、その岸辺にひっそりと鎮座する灰色の岩へと近付いた。どこか古代のテーブルを思わせる、平らな岩だ。
彼女がゼテスから手綱を外し、岩の上に置いた。鞍に下げられていたザックも岩へと下ろすと、中から何か丸い物を取り出した。
甘酸っぱく香る、赤い果実。林檎だ。
ゼテスの頬を撫でながら、彼女が右手の林檎を霊馬の鼻先に差し出した。
「ここまでありがとう、ゼテス。夜明け前まで、ちょっと休憩ね」
ゼテスは照り返しのない鼻面をユディートの頬に擦り付けて、彼女の手の林檎に齧り付く。そして林檎を銜えたまま、岩から少し離れた場所へと歩いてゆく。
……霊馬でも物は食べるのか。
草の上に佇み、林檎を齧るゼテスに、妙な感心を覚えた俺だった。すぐに聞こえてきたのは、ユディートの甘ったるい笑い声だ。
「あの子も実体がある間は、お腹も減るの。林檎はゼテスの大好物。あたしと一緒」
彼女の短い説明と同期して、俺の頭が微妙に揺れる。ユディートが俺を包む黒布を首から解いているようだ。
果たして、布に包まれた俺は、岩の上へとそっと下ろされた。黒い布は顎の下に敷かれたままだが、岩肌のひんやりとした感覚が布越しに伝わってくる。
布の除けられた俺の眼球に、周りの様子が一層明瞭に映った。湖水を埋め尽くす星々も、ユディートの白い微笑も。
「ちょっとすっきりしたみたいだね、トバルくん」
ふふっと小さく笑って、ユディートが背中の弓鋸“年代記”を岩の上に置いた。続けてふっとかすかな吐息をついた彼女。
「あたしもすっきりしようかな。汗かいちゃったし」
……確かに、ここまでずっと独りで霊馬を飛ばしてきたユディートだ。汗だくにもなるだろう。何となく納得の俺の前で、ユディートが焦げ茶色のコートを脱いだ。
続けて彼女は、均整の取れた体をぴっちりと包む黒い衣装、それに肌着まで、するりと脱ぎ捨てる。
狼狽する俺の目の前に、神がかった完璧な裸身を惜しげもなく晒すユディート。くびれた腰に両手をあてて、前のめりに俺の顔を覗き込んでくる。
少し寄った漆黒の左目を細め、彼女がにんまりと笑う。
「あたしは水浴びするから。別に見ててもいいからね。あ、トバルくんも来ていいよ。来れるなら」
……何という酷い娘だ。この小悪魔め。
それに恥じらいというものはないのか。
それとも
体のない俺の脳裏を駆け巡る、無数の悪態。当然、それは全部ユディートに届いているはずだ。それでも彼女は面白そうに、けらけら笑うだけ。
まさに十代の少女そのものの、悪戯で挑戦的な表情を湛えたまま、ユディートがおもむろに背中を向ける。
そして、しなやかな両腕を高々と頭上に挙げた彼女は、優美な背中を反らしつつ、銀色の湖水へと身を浸した。