二.花街の少女 十
文字数 4,828文字
ユディートも同じなのだろう。怪訝な声で、彼女が呻く。
「何? この
俺とユディートの前に開かれたページには、ほぼ目いっぱいの大きさで真っ赤な×印が描かれている。そのページに描き込まれた標章と説明を、否定するかのように。
この筆で書いたような太い線の×印を凝視しながら、ユディートがハーネマンに聞く。
「これ、旦那が書いたの?」
「たぶん違うと思うけど……」
ユディートの呆れた目と声に、自信なさげに答えたハーネマン。その女医は、片手で識別表を支え持ちながら、その赤い×印が占拠したページの下の方を指差した。
彼女の指が示すのは、紙面の真ん中にでかでかと居座る赤い線からは、外れた位置だ。そこには濃緑の地と山吹色の盾、それに星を三つ持った白い掌が描いてある。
全員の視線が、俺の襟元のメダリオンに集中した。
確かに識別表の標章は、メダリオンと同じもののようだ。これは一体どういう標章なのか?
ハーネマンが開いたままの識別表に左目を戻し、ユディートが説明書きを読み上げた。
「『ケルヌンノス駐屯山岳猟兵中隊。百名。掲載の標章は、マノ大隊第三中隊所属のとしてのもの。計画実行中の統帥権はマノ大隊長帰属。当中隊は全滅のため、現在は抹消』……? どういう意味?」
ユディートの怪訝な左目が、俺を捉えた。
「それに『マノ』って名前が出てくるけれど、キミの名前って本当に“マノ”だったの? あたしは適当に呼んだつもりだったけれど……」
訳の分からないざわめきが、俺の肋骨を内側から揺さぶってくる。理解できる記憶とは無縁な、目に見えない何かの陰。
俺はユディートの問いに、首を横に振るしかない。
「分カラ、ナイ……」
「これ、どういう軍隊? 計画って……。それに全滅……?」
不可解な面持ちのまま、ユディートが紙面に目を戻した。彼女の視線は、ページの一番上に注がれている。枠の外側に記されているのは、赤線で消された一行の文章だ。
「『マルーグ城塞陥落計画。峠の会戦で両軍全滅のため、記録抹消』……」
ぼそぼそと読み上げたユディートが、ハーネマンを見上げた。
「ハーネマンさんの旦那、何か言ってなかった?」
「旦那は何も言ってなかった。このページが何なのか、聞いてみたことはあるけど、旦那は答えてくれなかったから。知らないのか、言いたくなかったのか……」
困惑を隠せないハーネマンの言葉を聞いた途端、俺のぐすぐすに腐った脳の内側に、血の色の火花が散った。
何だろう、聞き覚えのある言葉のように思える。だが、いい予感はしない。むしろ吐き気を催す異様な臭気が、臓器の奥底からぬるぬると這い上がってくるようだ。
眼球に映る景色が霞み始めた。意識が何だか遠くなる。
識別表、それにハーネマンの顔もユディートの左目も、俺の視野の中で色を失い、どことも知れない風景に変わり始めた。
燃え盛る炎、殺し合う男たち。あれは……
そこでぱたん、という軽い音が聞こえ、俺の意識はユディートとハーネマンの前に引き戻された。
その女医ハーネマンが、閉じた識別表を手にしたまま、俺を見つめていた。眼鏡越しに、彼女の蒼い目が険しい色を湛えている。瞼も唇もない俺だが、それでも俺の異変に気付いたのだろう。さすがは医師だ。
「今日はこのくらいにして、少し休んだ方がいいですね、マノさん」
識別表を小脇に抱え、ハーネマンが静かに微笑む。
「識別表が見たいときは、私に言って下さいね。いつでもお見せしますから」
柔らかな物腰とは裏腹に、口調は有無を言わせない硬さを帯びている。識別表を俺に渡さないのは、恐らく俺に予期しない異変が起きるのを避けるためだろう。
控えめな彼女の言動の裏には、いつも深い意図と気遣いが見え隠れする。やはりこの花街の娼婦たちを裏から支える存在だというのも、自然とうなずける。
俺はここまでのハーネマンへの感謝を込めて、声を絞り出す。
「色々ト、アリ、ガトウ……」
隙間風のような、ぞっとしない俺の声だが、ハーネマンは動じない笑みで答えてくれる。少しは慣れてくれたのだろうか。
ちらりと眼球を動かすと、傍らのユディートも珍しく含みのない、正直な笑みを浮かべていた。
ハーネマンが、穏やかな笑顔を俺に向ける。
「マノさんは、当分マイスタさんのところにいますよね? もしそうなら、三日に一回くらい、包帯を換えに行きますね。必要なら、識別表も持っていきますから」
女医がユディートに蒼い目を移す。その眼差しには、少女への全幅の信頼とともに、芯の強さが窺える。医師としての使命感に裏打ちされた、仕事人の顔だ。
「それじゃ、マノさんを白鷺庵までお願いね。それと……」
「分かってる。任せて」
ユディートが優しい笑顔で応じる。ハーネマンの腕にそっと手を添えて、彼女が気遣わしげに女医を見つめた。
「ハーネマンさんも、いろいろとお疲れさま。今日はもうゆっくり体を休めてね」
「ありがとう。またね。マノさんもお大事に。何かあれば、すぐに知らせて下さいね」
そうして俺とユディートは、女医ハーネマンと今日の別れを告げた。
ハーネマンの診療室を離れ、マイスタの白鷺庵へと向かう俺とユディート。
例によって、俺はつっかえがちな両脚をぎこちなく繰り出し、ブーツを引きずって行く。ユディートは、そんな俺の愚鈍な歩みにゆっくりと寄り添ってくれる。
細い腰の後ろで両手の指を組み、音を立てずに爪先歩きのユディートは、まるで黒猫だ。
しばらくの間、お互いに無言のままに路地を行く俺たちだったが、ふとユディートが俺に目を向けてきた。
「ねえ、キミ、何か思いだしてきたんじゃない?」
足をずるずると前へ運ぶ俺に、ユディートも止まらないまま、短く問う。
「何が見えたのかな……?」
俺の足が勝手に止まった。二本の杖のような脚でゆらゆらと立ちながら、俺はわずかにうつむく。ユディートも、識別表を見た俺の異状に気付いていたようだ。
俺は重苦しい瘴気を吐き出しながら、一言で答えてみる。
「
発酵し尽した酒粕にも及ばない脳の中に、ついさっきの像がもう一度蘇ってくる。
異様な白い靄の中に浮かび上がる火の手と、武器を手にいがみ合う男たちの群れ。
間違いなく、あれは交戦の一場面だと思う。
しかしそれが俺と、どんな関わりがあるというのだろう? あのパペッタの言う『贖罪』と関係があるとでもいうのか?
往来の只中に打ち棄てられた案山子のように、俺は突っ立つ。
どうして俺の脳は、あの識別表に反応したのだろうか? ただ悩むばかりの俺の耳元で、ユディートが囁く。
「キミの記憶には、幾つもの“
……なるほど。
あの時パペッタが言っていた『贖罪の理由は自分で気付け』とは、こういうことか。また遥かな話だ。
だが俺の脳が『マルーグ峠』という言葉に反応したからには、そこでの交戦や、全滅したという軍隊とも関係があるのは、ほぼ間違いない。
そして全ての封印が解かれたとき、俺は何を目にするのだろう……?
ぞわぞわとした違和感が、腐肉に包まれた俺の心にまとわりついてくる。何か恐ろしい予感しかしない。
そんな身震いさえ覚える俺の前に、ユディートが立った。ほんの少し下にある左目が、俺を静かに見上げている。
「……キミが何をしたのか、それはまだ分からない。でもキミの『贖罪』は、もう始まってるの。キミの苦悩とともに」
彼女の切れ長の目に、不思議な光が宿る。冷たい湧水のように、深い憐れみが滾滾と湧き出る、そんな眼差し。あの輪廻の環に還された嬰児を抱いた時と、同じ目だ。
「もし耐えられなくなったら、あたしに言って。あたしが……」
そこでハッと口を閉じたユディート。
表情が変わる前に、彼女がくるりと俺に背中を向けた。
「……何でもない。忘れて」
それきり口を閉ざしたユディートが、歩き始めた。俺も何も言葉に換えないまま、弓鋸が揺れる聖騎士の後ろ姿を追った。
だんだんと陽が陰ってきた。マイスタの白鷺庵も、近付いてきている。
同時に、歌声が聞こえてきた。白鷺庵からのあの少女の歌だ。
そのどこのものとも知れない、麗しい歌を聞いて、ユディートが長い沈黙を終えた。
「よかった。元気みたい」
あれは誰だ? 誰が歌っているのだろう?
俺の心の疑問が聞こえたのか、ユディートが肩越しに振り向いた。
「あの歌? あれはエステルが歌ってるの。あの子のほとんど唯一の愉しみだから、花街では誰も邪魔しないのよ」
再び前を向いたユディートが、ぽつりと言う。
「きれいな声でしょ? みんなの癒しでもあるの」
しんみりとした、悲哀の漂う口調だ。しかしそれ以上は何も言わず、ユディートは歩き続ける。
すぐに俺とユディートは、白鷺庵の玄関先に立った。
扉の向こうは、沈黙が詰まっているようだ。かしましい娼婦たちの声は、もう聞こえない。
ユディートが扉のノッカーに手を掛けた。
ココンと続けて二回打ち、一瞬の間を置いてさらに二回コンコンと打つ。
変わった鳴らし方だ。
すると、今まで聞こえていた歌声はふっと途切れた。
そうしてそのまま待つこと三分ばかり。
きしっと玄関の扉がわずかに開き、か細い声が聞こえてきた。
「ユディートさん……?」
儚くも硬質で、透明な少女の声だ。
「こんにちは、エステル」
ユディートがにっこり声を掛けると、大きく開かれた戸口に一人の少女が立った。
楚々とした雰囲気の、可憐な少女だ。年は十六になるかならないか、だろうか。ユディートよりも少し年下に見える。
わずかに波打った栗色の髪に、抜けるように白い肌。それに、大きく円らな翡翠の瞳。とても愛らしい少女だ。
だが身に着けた衣装は、丈の長い黒いドレス。薄手の生地で、下着にも近い印象が漂う。年不相応に扇情的な姿だ、とも言える。
この娘も娼婦なのだろうか?
それにしては化粧っ気もなく、娼婦という印象はものすごく薄い。
このエステルと呼ばれた不思議な少女は、何となく寂しさの漂う笑みを浮かべ、ユディートの方を向いている。
エステルの愛らしい顔を見ながら、ユディートがふふーん、と笑う。今度は鷹揚に響く、姉御肌な笑いだ。
「元気そうで安心したよ、エステル。今日もいい声ね」
「ありがとう」
ちょっとはにかんだ様子で、うつむき加減に礼を返したエステル。わずかに頬を染めた少女を見ながら、ユディートが後ろ手に扉を閉じた。
周囲が急に暗くなり、天井からの灯りがサロンを濁った赤橙色に照らす。
「マイスタさんは?」
「他のお店に。修繕に呼ばれたみたい。すぐに帰るけど、ユディートさんともう一人誰か来るから、来たら待っててもらって、って」
「そう。あたしもマイスタさんにお話があるから、ちょっとだけ待たせてもらうね」
「どうぞ、上がって下さい」
そう答えたエステルが、ゆっくりとサロンの奥へと戻ってゆく。一歩一歩確かめるような、どこか危なげな足取りだ。
「ありがとう。お邪魔するね」
ユディートが断りを入れてから、奥へと踏み出す。
俺もブーツを一歩進もうと足を引き摺った瞬間、エステルがくるりと振り向いた。
「どなた、ですか……?」