二.花街の少女 五
文字数 5,308文字
「オ、前ハ、誰、ダ……!?」
目の前に立つ少女ユディートの顔から、笑みが消えた。真摯な表情を湛え、俺を見据える。
「あたしはユディート。ユディート=ユーデット=サイラ。“ユーデット聖廟騎士団”の“
ユディートがまた目を細め、恐ろしく微笑む。
「あたしが帰属する“ユーデット聖廟”は、“
……なるほど、死の女神の聖騎士だったのか。道理で死体には敏感な訳だ。『聖騎士』というのは、熟練の聖職者が認められて、特別に叙任されるものらしい。冒険者としての腕も、相当に立つはずだ。やはり俺を始末しようというのだろうか?
してみると、彼女がここまで俺と手をつないでいたのは、単に俺を逃がさないためだった、ということか。
半分は納得、半分はさらに恐れを深くした俺だった。
しかし、不意にユディートの笑みが、十代少女の明朗なものに変わった。
「死の太母になった“聖女ユーデット”はね、あたしのひいひいひい……おばあさま。つまり、あたしは“死の太母”の子孫なんだから」
どこか自慢げに告白したユディート。この瞬間の面差しは、割とどこにでもいる女の子と大差はない。
ふと安心感を覚えた俺の前で、ユディートが背中の得物に右手を掛けた。彼女がするすると抜き払ったのは、プラチナシルバーに輝く奇妙な刃物だ。しっかりと握る柄に、白金色の優美な弓を思わせる本体が付いている。
ユディートの左目が、意味ありげに細くなった。
「ねえ、素敵な弓鋸(ゆみのこぎり)でしょ? 神鋸“
俺の欠け落ちた鼻先に、“死の太母”の弓鋸を翳したユディート。このまま、俺を神のノコギリでバラバラに切断するつもりだろうか。
死体になってから今までに出くわした何者よりも、このユディートの方がよほど恐ろしい。熟練の冒険者よりも、殺しに掛かってきた辻強盗よりも。
「俺ヲ、ドウ、スル……?」
尋ねずにはいられなかった俺だった。
すると何を思ったか、ユディートが弓鋸を背中の鞘にスッと収めた。どこか腑に落ちない様子で口元を曲げ、腕組みした彼女が小さく唸る。
「屍者っていうのはね、他人同士の死体と死霊を“
最初の俺の問いには答えていないユディート。だが新たな疑問が、俺の中に湧く。
「ナ、ゼダ?」
ユディートが、ふふーん、と笑う。この甘ったるい息は、まぎれもなく十代の女の子のものだ。
「それはね、霊魂と体がもともと他人同士だから。その体と“銀の
俺に向き直ったユディートが、俺をいたずらな仕草で指差した。
「キミ、『何故?』って聞いたよね? 他にもたくさん。質問できるってことは、頭が働いてるってこと。それにキミ、さっきマイスタさんに『ありがとう』って言ったでしょ。屍霊術で操作されてる霊魂からは、絶対に出てこない言葉なんだから。あたしもびっくりした」
ユディートが俺を見上げて、にっこりと笑う。素直に可愛いとは思うが、正直やっぱりひどく不気味だ。
ひくつく俺に構わず、ユディートがうんうんと独りでうなずいている。
「屍霊術を受けた霊魂は、恨み、悲しみ、怒りでいっぱいだから、感謝なんて最高波動の感情は出てこないの。それで、あたしはキミが普通の屍者じゃないって分かったのよ」
ユディートの左目が細くなる。
「キミが普通の屍者だったら、この場でキミを解体して、体は墓地に捨てて霊魂は死神に引き渡してた。マイスタさんには悪いけれど」
さらっと恐ろしいことをと言う少女だ。そんなユディートが、細めた左目で俺を凝視する。
「でもキミは、特殊な屍者。わたしが思うに、キミはもともとのキミから引きずり出した霊魂を、誰かの死体に押し込めた屍者じゃないのかな……」
このユディートの推理は、パペッタが俺に語った内容と同じだ。さすがは聖騎士か。
ぴきぴきと何度もうなずく俺に、ユディートがさらに続ける。
「つまりキミは、死霊じゃなくて生霊が宿った屍者ってことだから、まだキミの“銀の緒”は……」
そこでユディートがハッと口を押さえた。
「あ、いっけない! 早くハーネマンさんのところに行かないと。診療が始まる前に!」
ちろっと舌を出し、へへっと笑ったユディート。こういう何気ないしぐさが、本来の彼女なのだろう。彼女の正体は、やっぱり十代の少女なのだと実感する。
ちょっとホッとした俺の手を、ユディートがもう一度パッと取った。
「キミも一緒に来て。ハーネマンさんの意見も聞きたいから」
言うが早いか、ユディートはまた俺の手を曳いて細い路地の奥へと進み始めた。
建物の間を縫う路地は細く、人の姿もまばらだ。だが、やはりこの辺りの住民は、ユディートとすれ違うたびに、気安く挨拶を交わす。彼女に声を掛ける住人たち、とくに女性が彼女を見る眼差しには、尊敬と畏怖の念が宿っているように映る。
このユディートも、この界隈ではよく知られた人物らしい。腕と知識を兼ね備えた聖騎士なら、人々の尊敬を集めるのも当然だろう。しかし、女性たちが異人の少女に向ける目に、単純な崇敬とは違う感謝のような色が浮かぶ。理由は見当も付かないが……。
そんなことを考えているうちに、ユディートの歩みが一瞬止まった。
「もう着くよ。あそこだから」
俺にそれだけ告げて、ユディートが前の方を見つめたまま、片手を大きく振る。
「あっ、待っててくれてる! ハーネマンさーん!」
控えめながら快活な声を上げ、ユディートが早足に歩き出す。
俺の手を引っ張る彼女の力強さは、ほっそりとした外見からは想像も付かない。手首が今にももげ落ちてしまいそうだ。
確かにこれだけの力でノコギリを曳かれたら、俺のぐずぐずに朽ちた体など、あっと言う間もなく細切れだろう。
ユディートの歩調も元気そのものだ。俺の棒きれのような脚では、とても追いつけない。
まごつく俺を引きずって、ずんずんと路地を進む彼女だったが、すぐにまた立ち止った。そして小道に面した建物の前の人物に、しおらしく詫びを入れる。
「ごめんね、ハーネマンさん。遅れちゃって……」
「おはよう、ユディートさん。全然大丈夫よ。開院時刻はまだだから」
ふふっ、という穏やかで柔らかな風のような笑いが、優しくユディートに吹き寄せた。俺は声の主へと目玉を向けてみる。
ユディートと俺がたどり着いたのは、路地に立ち並ぶ建物の一つだ。石と漆喰、それに木材で組まれた正面玄関。軒を連ねる屋並みの中でも、佇まいもとりわけ小ぢんまりとして映る。褐色の玄関扉には、『ハーネマン診療室』と共通文字が刻まれたプレートが見える。
そのブロンズ色の看板の下に飾られているのは、白百合のリースだ。新鮮な切り花らしく、楚々とした風合いと清々しい香気が、死体の俺には眩しすぎる。
そしてその扉の前に立つのは、一人の女性。ちょっと年増でしっとりとした雰囲気がある。だが眼鏡の奥の蒼い目にはどこか翳りが窺うが、芯はしなやかで強そうだ。柔らかそうな布包みを胸に抱くその女性が、深いため息をつく。
途方もなく重苦しい吐息だが、どこか自嘲的で、諦めにも似た響きを帯びている。
「ユディートさんには、今日も辛いお役目を押し付けてしまって、本当にごめんなさい……」
眼鏡越しに、女性の目許に薄く涙が滲むのが分かった。うなだれた女性の腕に、そっと手を添えたユディート。哀しげに微笑む彼女の左目にも、深い陰と憤りに近い熱が籠ってくる。
「あたしは平気。それがあたしたちの役目だもん。本当に辛いのは、全部かぶって手を汚してる、ハーネマンさんの方。あたしたちは分かってるから」
「ありがとう、ユディートさん」
涙ぐんだ女性は、気丈な笑みを浮かべてわずかにうなずいた。
この眼鏡の女性が、マイスタも言っていた『ハーネマン医師』のようだ。聞いた名前から、男だとばかり思っていた俺には、かなりの驚きだった。
うなだれた女医ハーネマンに、ユディートが静かな仕草で両手を差し伸べた。
「あとはあたしに任せて。さあ、こっちに……」
「お願いね、ユディートさん」
腕の中の布の包みを、ハーネマンが慎重にユディートへと引き渡す。両腕で布包みを受け止めて、ユディートが潤んだ左の瞳を注いだ。
「もう大丈夫。一緒に帰ろうね……」
密やかに、腕の中の包みに語り掛けたユディート。その面差しは息を呑むほど清廉で、例えようもないほど美しい。
切れ長の目に宿る、慈愛に満ちた眼差し。愁いを漂わせる柔らかな唇。俺の内に積み上げられた彼女の印象は、今まさに音を立てて崩れ去った思いだ。”樹海の佳人”と謳われる樹精人(アルボリ・アールヴ)だけのことはある。
俺は生きた心と腐った体が切り分けられたかのような、奇妙な気分に襲われた。
もし俺の心臓が動いていたら、間違いなく早鐘を打つだろう。そして彼女さえ望むなら、この心臓を捧げてもいい、そう思えたことだろう。
女神そのもののようなユディートを前に、ハーネマンがローブのポケットへ手を突っ込んだ。
「ああ、これを……」
言いながら取り出したものを、ハーネマンがユディートの胸の布の上にそっと乗せた。俺が目を向けてみると、それは木製の小さなトウモロコシだった。いくつも穴が開いていて、どうやら赤ん坊に持たせるガラガラのようだ。
よくよく見てみれば、ユディートが抱く布は、真新しい産着のように思える。
「うん。ちゃんと持たせてあげるね。ありがとう」
ユディートがこくりとうなずいた。少女の答えを聞き、女医ハーネマンもわずかにうなずき返す。同時に、ハーネマンの重苦しい表情が、少しだけ和らいだように映る。
そんな女医が、ユディートに聞いた。
「それで、エステルさんの様子はどう? 私では大して役には立てないけれど……」
「昨日と今日は、あたしも会えてなくて。でもマイスタさんの様子だと、特に変わったことはなさそうだった。マイスタさん、昨日からこの人の面倒を……」
ユディートの左目と、ハーネマンの眼鏡越しの視線が、同時に俺に注がれる。
途端に、ハーネマンが眉をひそめた。円い眼鏡を鼻先に下した女医が、上目づかいの裸眼で俺の顔を凝視する。
「死後一か月と半……? いえ、そうじゃない。もしかして、死んでない……?」
思いがけない女医の言葉。そのハーネマンが眼鏡をずらしたまま、顔を見合わせた俺とユディートを見比べる。
「動く死体を連れてるユディートさんは初めてじゃないけれど、こんなのは……」
ハーネマンが両目を寄せて、俺の顔をまじまじと観察している。
さすが、俺を検分する女医ハーネマンに、俺を怖がったり気味悪がったりする様子は、欠片もない。死体を見慣れているということだろう。
だがハーネマンがすぐに眼鏡を掛けなおした。
「ああ、もう開院時間だわ。でもここまで不潔なものは、ちょっと私の診療室には入れられないわね……」
厳しいお言葉だが、まあ無理もない。俺は無理に呼気を吐かず、肋骨の内側に苦笑を溜め込んだ。
そんな俺をよそに、ハーネマンがユディートに眼鏡の奥から視線を注ぐ。
「今日は午後から休診日にしてあるの。後で聖廟に行くから、お話はその時に」
「うん。儀式はきちんと済ませておくから、安心して」
「ありがとう、ユディートさん」
心からほっとした表情を見せ、ハーネマンが扉にかけられた白百合の花輪を丁重に取り外した。刹那、ため息を洩らした女医の面差しに、深い陰が被さってくる。
「しばらくこれは見たくないわ……」
だがすぐに顔を上げたハーネマンが、作った笑顔をユディートに向けた。
「でも来てくれてありがとう。また花輪を見たら、ここへ来てね」
寂しげな笑みを浮かべ、ユディートがこくんとうなずく。
続けて女医が、俺に視線を移した。
「そのひとのことも、午後に診るから。じゃあ後で、聖廟でね」
そう告げて、花輪を持ったハーネマンは診療室の中へと消えていった。同時に、時を告げる重厚な鐘の音が、このルディアの街中に響き渡った。