四.審問 十
文字数 3,635文字
どこかで聞いた安っぽい台詞が吐かれ、がたがたと椅子の鳴る音が窓の向こうから聞こえてきた。と、数秒の間を空けて、扉が開き、またすぐ閉じる音が夜の中に響く。
身をすくめる俺たちの方へ、ざっざっと足音が近づいてきた。そして人影が俺たちの脇を通り抜けた刹那、ユディートが動いた。
何の物音も立てず、スッと壁から離れたユディート。その人影の背後にゆらりと立つと、その両肩をがっしと掴み、そのまま暗がりへと引きずり込んだ。
相手が声を上げるより早くくるりと振り向かせ、ユディートはその口元をペタリと片手で覆う。
訳の分からない面持ちの相手に向かって、ユディートが左目を細めてにんまりと笑いかけた。背筋も凍る、ぞっとするような笑みで。
「こんばんは、アンフォラくん。キミはこんなところで、何をしてるのかな……?」
囁くユディートに口を塞がれ、驚愕と恐怖に目を見開いた中年男。ぶるぶると身を震わせながら、へなへなと腰から砕けるように、地面に座り込んだ。
その蒼白になった顔には、確かに見覚えがある。商人アンフォラに間違いない。
額に脂汗を滲ませ、へたり込んだアンフォラは、ユディートの掌の下でもごもごと呻くばかりだ。その怯え振りは、見ている俺にさえ憐憫の情を催させてくる。
まあ、いきなり彼女の魔物の笑みに当てられたら、腰が抜けても無理はない。
と、思った瞬間、ぎろりとユディートの左目が俺を捉えた。慌てて思考を呑みこむ俺だった。
そんな俺からすぐにアンフォラへと目を戻し、ユディートが自分の唇に人差し指をあてる。
「放してあげるから、騒がないでもらえるかな? アンフォラくん」
こくこくと続けざまにうなずいたアンフォラの顔から、ようやく手を離した。
その途端に、アンフォラの口から震える質問が飛び出す。
「こ、こんなところで何してるんだ!? サイラ卿……!!」
一応、ユディートとの約束を守った小声の問いに、彼女が、ふふーん、と甘ったるく笑って答える。
「決まってるでしょう? エステルとハーネマンさんを助けに来たのよ。三人でね」
「さ、三人!?」
座り込んだままのアンフォラの見開かれた目が、俺とカイファを落ち着きなく見比べる。
「あっ、マノ大尉!? それにカイファ……!!」
低く呻いたアンフォラが、パッと地面に座り直した。そして両手を握り合わせ、必死に縋り付く眼差しを俺たちに注いでくる。
「た、頼む! エステルを助けてくれ! お願いだ……!!」
小刻みに震えながら懇願する商人アンフォラを前に、俺たち三人は顔を見合わせた。しかしすぐに俺はアンフォラを見下ろして、木枯らしのような声で囁いてやる。
「オマエ、俺ヲ、奴ラ、ニ、始末サセル、気、ダッタ、クセ二……。ソレニ、エステルハ、モウ、オマエノ、モノ、ニハ、ナラナイ、ゾ……」
ぶるっと震えたアンフォラが、がっくりとうなだれた。
「お、俺はただ、エステルに近付きたかっただけだ。だから、用心棒のあんたを……」
そこでまたアンフォラがパッと顔を上げた。年甲斐もなく目を潤ませて、彼が訴えてくる。
「エステルが生きていれば、俺にだってまだ……。でも死んでしまったら、俺は、俺は……」
さめざめと泣くアンフォラを前に、俺は複雑な面持ちのカイファと顔を見合わせた。
未練たらしい中年男だ。
が、この男がエステルに寄せる想いは、案外純粋で、一途なものなのかも知れない。恐らく彼は、エステルへの最初の一手を誤ってしまっていたのだろう。高圧的に出たか、娼婦と見下したか……。
いずれにしても、今さらアンフォラの恋が実ることは、永劫の果てまであり得まい。男として気の毒とは思うが、同情の余地はない。
女々しくへたり込むアンフォラの前に、ユディートが膝をかがめた。
「エステルたちは、あたしたちが必ず助けるから。その代り……」
ユディートが左目を細めて、にんまりと笑いかける。
「キミは絶対に手を出さないで。それと、組織同士の後始末はよろしく」
「わ、分かった。何とかする」
ぶんぶんと立て続けに首を縦に振ったアンフォラ。その表情は素直な子供のようだ。もうこの男には、何をする気力も残っていないだろう。
無力なアンフォラをよそに、カイファがユディートに尋ねる。
「でも、どこから中へ入ります? あの搬入口から忍び込みますか?」
するとアンフォラが口を挟んできた。
「み、南の搬入口は、外からは開かない。中から閂(かんぬき)が下ろしてある。他の出入口は、あ、あの事務所だけだ」
これを聞き、立ち上がったユディートが腕組みしてわずかにうつむいた。だが数秒の間もなく、彼女は再び顔を上げた。
「それなら、正面から堂々と行こうか。それで、あのひとたちは何人来てるのかな? アンフォラくん」
「しゅ、主任一人と部下が四人。合わせて五人だ」
一人はユディートが聖廟で始末したから、ここにいるのは最大四人か。恐らく、アンフォラをにべもなく突き返した声の主が、『主任』とやらだろう。
ユディートが言う『上役』も、たぶんその主任が務めている。
そう考えた俺の前で、ユディートが細く締まった腰を探り、銀色のコンパクトを取り出した。
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「ひ、ひっ……!」
引き攣った声を上げたアンフォラに構うことなく、ユディートがぱちんと羅殯盤を開いた。中からスッと浮き上がった銀箔の羽根が、コンパクトの上の虚空でくるくると回っている。
止まらない羽根を見つめて、ユディートが、ふふーんと甘ったるく笑う。
「今ここには、死ぬ約束のひとは誰もいないよ。一人として、ね。もちろんアンフォラくんも含めて」
「は……、よ、よかった……」
ぐにゃりと融解したアンフォラ。ユディートの羅殯盤が、よほど怖いのだろう。深過ぎる安堵に覆われた彼が、思い出したように声を上げた。
「ああ、そうだ、これが……」
つぶやいたアンフォラが、羅殯盤をしまい込むユディートに、何かを差し出した。よくよく見れば、それは鋼鉄の無骨な鍵だ。
「そ、倉庫の一番奥にある、特別保管庫の合い鍵だ。一本は主任に渡したが、合い鍵は万一に備えて、俺が持ってた。エステルは、たぶん、そこに押し込められてる」
「ありがとう、アンフォラくん」
にっこりと屈託なく笑ったユディートが、素直に鍵を受け取った。だがその鍵は、すぐにカイファへと差し出される。
「エステルたちは、キミが解放して、カイファくん。あたしが第零局の魔術師たちを引き付けておくから、その間に」
「わ、分かりました」
ごくりと唾を呑みこみ、強くうなずいたカイファが、彼女からしっかりと鍵を受け止めた。
引き結ばれた口元、眼鏡の奥の硬い瞳。どこを取っても、カイファの全身には緊張がみなぎる。
ユディートが、そんなカイファから俺へ左目を移す。
「キミはカイファくんを支援して。キミならできることが、必ずあるから」
「ユディート、ハ……?」
夕刻、あの第零局の魔術師では、相手にさえならなかった聖騎士ユディートだ。彼女の力は、俺の不安など及ぶべくもないことは、十分承知している。だがそれでも、俺は彼女が気遣われてならないのだ。
俺の胸郭の底に蟠る、そんな想いを見透かしたように、ユディートが静かに微笑む。俺の理解を遥かに超越した、絶対の自信に満ちた、女神の笑みだ。
「あたしなら大丈夫。あたしが死ぬのは、今日じゃないから」
謎めいた言葉を洩らした彼女だったが、すぐに俺とカイファに向き直った。その左の瞳が、不敵というよりは無敵に煌めく。
「それじゃ行こうか。
そして彼女は座り込んだままのアンフォラに、軽く忠告する。
「アンフォラくんは、家に帰った方がいいよ。第零局の魔術師は何をするか分からないから、ここにいると危ないよ」
それだけ言って、ユディートがスッと事務室の窓辺に近付いた。まだ灯りの洩れてくる窓をそっと覗き込んだ彼女が、俺とカイファを妖しく手招きする。
一瞬、顔を見合わせた俺とカイファだったが、すぐにユディートの許へと急いだ。側に寄った俺たちに、彼女が告げる。
「今、事務所は空になってる。たぶん魔術師たちは奥へ行ってるから、今の内に」
ユディートが、事務所の正面へと回る。俺たちも、彼女の後について事務所の玄関へと向かった。
事務所の玄関口は、何の変哲もない木の扉があるばかりだ。アンフォラ商会の所有を示す看板も目印も、何もない。まあ人目を忍ぶ裏倉庫だから、所有者も管理者も隠して当然か。
そんなことを考えた俺の前で、ユディートが玄関扉のノブに手を掛けた。