二.花街の少女 九
文字数 4,614文字
――俺の身元が分かるもの――
そもそもが俺は無一物でパペッタの前に牽き出され、山中の墓場に打ち棄てられた死体だ。この体それ自体が他人の死体で、おまけに装備は俺を襲った辻強盗から奪った物ばかり。俺の物など何一つない。
だが一つだけ、俺が最初から持っている、いや持たされているものがあった。
俺はかすれ声を絞り出す。
「餞、別。マン、ト……」
「マント? 今、あなたが羽織ってる……?」
顔を見合わせたハーネマンとユディートが俺の前に身を屈めた。横に並んだ彼女たちの視線は、俺の胸元辺りを注視している。
「メダリオン? これ……、マントの留め具? 屍者くんの?」
「ちょっとごめんなさい」
一言断りを入れたハーネマンが、俺のマントの襟元から、ピンで留められたメダルを取り外す。
彼女が掌に載せた円い留め具。俺もまともにこれを見るのは初めてだ。
パペッタと鬼火たちが俺にくれた餞別だが、まともに見る前に、俺は『贖罪の旅』へと放り出された。今の今まで、首に着けていたことさえ、きれいさっぱり忘れていた。
俺はハーネマン、ユディートと一緒に、女医の手の中のメダリオンを注視する。
ハーネマンの右手で光るのは、てらてらとした照り返しを見せる、円い七宝のメダルだ。
濃緑の地に山吹色の盾模様、その盾に刻まれているのは白い掌だ。文様化したその手には小さな五芒星が三つ書いてある。
「これは魔法陣でも聖印でもないね。何かの紋章? 旗印?」
ユディートが素っ気なくつぶやいた横で、女医が眉根を寄せた。
「この紋章、どこかで見た気がするけれど……」
「えっ? 本当?」
女聖騎士の見開かれた左目と、俺の眼球がハーネマンに集中する。
「ドコ、デ、見タ……?」
俺も、問わずにはいられない。
俺とユディートの前で、ハーネマンは小さく唸りながら、じっと考え込む。俺たちの視線を受けながら、ハーネマンがおもむろに顔を上げた。
「これ、旦那が持ってた『識別表』に似たものがあった気がする…」
ぴくりと反応した、ユディートと俺。
「あれ? ハーネマンさんの『旦那』って、今どこで何してるんだっけ?」
余り関心なさそうにユディートが聞くと、ハーネマンはふふっと柔らかく笑った。
「さあ……、どうだったかしら?」
だがその響きと伏しがちな目には、どこか自嘲的な雰囲気が漂う。
「まだ生きていれば、国軍の軍医をしてると思うけれど」
曖昧な笑みを浮かべた女医ハーネマン。寂しそうにも見えるが、どこか諦念めいた面差しだ。
……人妻だったのか。何かの理由で、軍医だという夫とは別居状態なのだろう。
何となくもやっとするのと同時に、朽ちて止まったはずの心臓がむずむずする、ように錯覚した俺だった。ほとんど無意味な胸のざわめきを、俺は密かに自分で嗤う。
すぐ脇のユディートが、無頓着に質問を続けた。
「『識別表』って何? あたしも初めて聞く」
「識別表っていうのは、国軍の部隊ごとの標章を集めた図録なの。前に旦那が来たとき、診療室に忘れていったのよ」
ハーネマンの形のいい眉が、きゅっと顰められる
「あの本がないと、担ぎ込まれた負傷兵がどの部隊のひとなのか、分からないのに。あのひと、ちゃんとお仕事できてるのかしら」
苦笑めいた息を洩らして、ハーネマンが手の中のメダリオンを取り直した。その七宝の留め具を眼鏡に映しながら、俺のマントに付け直す。
「識別表はわたしの診療室にあるから」
ハーネマンが後片づけを始めた。
汚らしくべたついた辻強盗の覆面、それにユディートの食べ残した林檎の芯まで、持参した薄手の麻袋に詰め込むと、厳重に口を縛ってカバンに押し込んだ。それに自分の手袋と、顔を覆った布も外して同じカバンにしまい込む。
「それじゃ、診療室へ戻って診断書と識別表の準備をするわね。あなたたちも一緒に来る? ユディートさんと、ええと……」
ゆっくりと腰を上げたハーネマンの顔に、困惑の色が浮かんだ。
たぶん、俺を何と呼ぼうか迷っているのだろう
彼女を追うように立ち上がったユディートが、淡々と口を挟む。
「“マノ”とでも呼んでおけば? 屍者くんの標章は、”手”みたいだし」
「そうねえ……」
提案された女医が、頬に片手をあてて考え込む。
「確かに“マノ”は、ルカニア方言では“手”の意味だし、識別表にもそんな言葉が出ていた気がするから……」
ハーネマンが俺を見て、静かに微笑む。陰をまとわせつつも、懐の深い、安心させられる微笑。同じ微笑でも、誰かとは大違いだ。
と、考えた瞬間、濃厚な殺気が漂った。もちろん、その殺気は俺に向いている。殺気の主が視界に入らないように、俺は微妙に頸椎を傾ける。
そんな俺に、改めて女医ハーネマンが聞く。
「それじゃ、マノさん。あなたも私と一緒に来ますか?」
俺には断る理由がない。
「行ク……」
「儀式は終わったし、あたしも行くね。屍者くん、まあ一応マノくん、と呼んでおこうかな」
ころっと態度が軟化した、聖騎士ユディート。彼女は屈託のない笑顔を俺に見せつける。
「後で白鷺庵まで送るから。あっちの様子も見ておかないと……」
「それじゃ、私の診療室まで一緒に戻りましょう、マノさん」
お医者カバンのがま口をぱちんと閉じて、ハーネマンが肩にそのカバンを下げ直した。
「ついでにどこかでお茶でも、と言いたいけれど……」
そこで口を濁した女医。眼鏡の奥で、蒼い瞳に灰色の陰が被さってくる。彼女の言わなかったことが、何となく分かった。
不意に、ふふーん、という甘ったるくも揶揄するような、ユディートの笑いが割って入った。
「屍者くんは飲み食いできないよ。下手に何か食べたら、腐敗が進んで体は余計に崩れるし。それにたぶんどこへ行っても、入店お断りになるんじゃない? 白鷺庵以外はね。その見た目と臭いだもん」
ハーネマンがわざと暈かしてくれたことを、ずばっと言い切ったユディート。全く酷い子だ。
とは思うものの、ユディートの発言は正しい。ぎちぎちとうなずくしかない俺だった。
そんなうなだれる俺と、にんまりとした笑顔のユディートを見比べて、ハーネマンが苦笑を洩らす。
「とりあえず、戻りましょうか」
そうして死の太母の聖廟を出た俺たちは、女医ハーネマンの診療室へと向かった。
太陽がわずかに傾いたのか、降り注ぐ昼下がりの陽光は、幾らか和らいだようだ。それでも剥き出しの俺の眼球には、かなり堪える。俺はマントのフードを目深に被り直した。
その時、どこかで鐘の鳴る音が聞こえてきた。午後三時だろう。
足をひきずって路地を戻る屍者の俺は、道行く人の奇異と嫌悪の眼差しを受ける。
その一方で、傍らに聖騎士と女医の姿を認めると、この花街の人々は安心しきった表情へと変貌する。
ユディートとハーネマン、それに老人マイスタと出遇えたことは、この上ない幸いだったと思う。身の安全のことばかりではなく、気持ちの面でも、三人の存在は途方もなく大きいと感じる。ゆったりと温かく、誰か他人に何もかもを任せられる安堵感。どこかで感じていた気もするが、もう長いこと忘れていた気分にもなる。
そんなことを腐敗した脳に取り留めもなく思い流し、俺はハーネマンの声で我に還った。
「ここでちょっと待っていてもらえるかしら?」
気が付くと、俺たちはもうハーネマン診療室の前に到着していた。
診療室の玄関扉には、『午後休診』と書かれた小さな札だけが下げられている。そのせいだろうか、診療室前に人の姿はない。患者は来ていないのだろう。
周囲に急患のいないことを念入りに確認して、向き直ったハーネマンが俺に詫びる。
「ごめんなさい。すぐに診断書と識別表を持ってくるから、五分だけ、ここで待っていて下さいね、マノさん」
「分カッ、タ……」
即座に承服した俺の横で、ユディートが申し出た。
「あたしも、ここで待ってるね。えっと、マノくんと」
腕組みの聖騎士が、左の横目に俺を流し見る。自信に溢れた、落ち着き払った眼差しだ。
「あたしがいれば、面倒は起きないから」
「そうしてもらえば助かるわ」
にっこりと笑ったハーネマン。こういう時のユディートは、誰の目にもやけに頼もしく映るから不思議だ。
「すぐに戻るから、ごめんなさいね」
短く言い残し、女医ハーネマンは自分の診療室の中へと消えた。
後に残された俺とユディート。その彼女は、扉の横の壁に腕組みでもたれかかり、軽く目を伏せた。低く何か歌を口ずさむその勇姿は、まさに余裕に満ちた腕自慢の用心棒だ。
斜陽の気配が漂う陽光を浴び、ユディートの黒髪が、艶やかに陽光を照り返す。彼女の体に揺らめくのは、陽炎だろう。実に気持ちが良さそうだ。
だが腐った死体の俺は、そうはいかない。下手に陽の光を浴び続ければ、俺の体は見る間に劣化して、崩れ去ってしまうだろう。
ひなたぼっこ。
他愛もない言葉が、俺から遥か遠くへ行ってしまった。もう一度、元の生きた体で思いっきり日光を浴びたい。
しんみりとした気分になった時、診療室の扉が開き、女医ハーネマンが再び姿を現わした。本当に五分程度の待ち時間だ。
「お待たせ。ごめんなさいね」
申し訳なさそうな女医の詫びを聞き、ユディートが壁から離れた。
「気にしないで。ちょっとゆっくりできちゃったから」
またちろっと舌を出して、ユディートがへへっと笑う。
ハーネマンもふふっと笑って答えると、小脇に抱えた薄い物を俺たちに差し出した。
「これが診断書と『識別表』よ」
ハーネマンが両手で持っているのは、厚紙の表紙に綴じられた大きい薄手の本と、その上に載せられた白い封書だ。封筒には、几帳面な共通文字で『診断書』と書いてある。
ユディートが封筒に白く滑らかな手を延ばした。
「診断書、あたしがマイスタさんに渡しておくね」
俺も余計な異議は挟まずに、彼女に任せる。
眼鏡を理知的に光らせるハーネマンも、深くうなずいた。
「そうね。その方がいいかも。あなたからもちょっと言い添えて。お願いね」
「任せて」
屈託なく、十代少女の笑顔でにっこりと応えたユディート。彼女がスッと封筒を持ち去ると、ハーネマンがその手に残った薄い本を、俺たちの前に開いて見せた。
「それで、この本が識別表」
俺とユディートは、顔を並べるようにして、女医が両手で支える本を注視する。
ほんのりとセピア色に染まったページには、紙面を六段ばかりに分ける横線が引かれている。
その列のそれぞれに書かれているのは、標章と簡潔な説明文だ。それぞれの標章は丁寧に着色されていて、似たような意匠の標章でも正しく判別できる。
ハーネマンは、自分で支えた本を上から覗きつつ、俺とユディートにぱらぱらとページをめくって見せる。そして十数ページ目で、女医が手を止めた。
「このページなんだけど……」