五.贖罪の行方 十
文字数 4,348文字
冷たく抑揚のない女屍師パペッタの言葉が、ひび割れた岩を侵食する霜のように、俺の心を凍て付かす。
一体どういうことなのか?俺は、パペッタとは会ったこともなければ、彼女の名前さえ知らなかった身だ。
俺がパペッタの何を……?
小脇に俺を抱えた女聖騎士ユディートが、玉の唇に人差し指をあてた。俺の思念を読み取った彼女が、俺に思考を閉じるように促しているのだ。
彼女の求めに従い、俺は脳裏の口をつぐんだ。
仄かな笑みでうなずいた、聖騎士の少女。その気配を察したのか、パペッタが顔を上げた。
改めて間近に見るパペッタの両目は、深く澄んだ蒼いガラス玉にしか見えない。
つい今しがたまで、憤怒と憎悪が朱色に染めていた、女屍師の目。だが抗うのを止めた彼女の目に浮かぶのは、全ての悲しみを砂粒ほどさえも洗い晒されてしまった、虚しい純白の空洞。
俺には、他に言い表す言葉を見つけられない。
見ているこちらの胸が潰れるほど、うつろな両目で聖騎士の少女を仰ぎ見るパペッタ。何かを問うかのような眼差しを向けてくる女屍師に向かって、ユディートがかすかにうなずきかける。
無言で佇む彼女から目を床へと戻し、パペッタが力のない言葉をぽつぽつと綴り始めた。
「私だって、
口を閉じたパペッタ。
音のない空間のしじまが、言葉の空隙に深く染み入ってくる。
しかし女屍師は、すぐにまた語り始めた。
「私は、孤児だったの。でも私の高い魔力と知性を見抜いた男の人が、私を引き取って、育ててくれたのよ。旅から旅への暮らしだったけれど、先生の知る限りの魔術を、私に教えてくれながら」
パペッタが天を仰ぐ。そのガラスの目に、温かな光が宿った。
「あの頃は、貧しくて危険な旅暮らしだったけれど、本当に楽しかった。でも私が十歳になった頃、先生が私に定住を提案したの。目立たない街に落ち着いて、私に教育と素養を付けさせたい、ということで」
パペッタの華奢な肩が、すうっと上下する。深いため息でもついたかのようだ。
「それで私と先生は、地方の街にひっそりと住むようになったのよ。先生が生まれ育った、国境の街に」
「それがケルヌンノスの街、なんだね?」
ユディートのため息交じりの一言が、俺の目と耳と脳天に、千の雷を招来した。余りの衝撃に、俺の何もかもが真っ白になる。
まさか、そんなことが……!?
思考が停止した俺を見て、パペッタがふふふ、と冷笑する。
「あなたが生まれる何十年も前のお話だから、知らないのも無理ないわ。もう私たちを覚えているケルヌンノスの人は、誰もいないでしょうね。いえ、ケルヌンノスそのものが、もうなくなっているのだから……」
パペッタの漂わす雰囲気が、一気に重苦しくなる。鉛のような重圧が、俺の脳天からのしかかってくるようだ。
「ケルヌンノスでの先生との暮らしは、本当に幸せだった。でもそれから何年もしないうちに、先生は病気で死んでしまったのよ。けれど、私は先生と話がしたかった。だから私は、先生を長いこと埋葬しないで、
ゆらりとパペッタが立ち上がった。
ガラスの両目で、俺の死人面をじっと見つめてくる女屍師。空虚な瞳の底に、灰色の陰が蟠ってきているのが分かる。
「先生が死んでしばらくして、私たちはケルヌンノスを去ってしまった。でもあの街には、先生と私の幸福な子供の時代の思い出が、いっぱい詰まっていたの。ケルヌンノスは、私の大切な、幸せの記憶の街だったのよ」
パペッタの口調は緩やかで、見て取れる感情の起伏は乏しい。だがその抑えられた調子が、逆に女屍師の内に秘めた怨嗟と憤怒の根深さを、俺にひしひしと伝えてやまない。しかし女屍師は、飽くまで淡々とした物腰を崩さない。
「先生の遺体と一緒に、他所へ移った私だけど、ケルヌンノスのことは、いつも気にしていたのよ。私と先生の、かけがえのない街だもの。だから私は常に注意を払っていたの。ケルヌンノスの動向に……」
俺の後頭部が、じりじりと焼き付いてきた。この異様な胸騒ぎは、死線の予兆に似ている。
舌まで縮み上がる俺を抱え、ユディートがパペッタに向かって、何のためらいも見せず直截に訊く。
「それならパペッタは知ってるよね? マルーグ峠の戦いのことは」
「当然よ」
女屍師の透徹した両目が、怯んだ俺を真っ直ぐに捉える。
「あなたがケルヌンノス一帯を守る任務を以って率いた、地方軍の山岳猟兵隊。私は知っているのよ、カルヴァリオ隊長。その数々の武勲と名声、それに潰滅の顛末も」
押し寄せる罪悪感に、崩れた俺の顔が強張ってくる。身震いさえ覚える俺の眼球を覗き込み、パペッタが囁くように俺に告げる。
「あなたがマルーグ峠で死に至らしめた百人の山岳猟兵の中にはね、私の先生の縁者がいたのよ。誰とは言わないけれど」
余りの驚愕に、俺は眼球を剥くより他はない。だがパペッタは、硬直するばかりの俺の顔から、ふと目を逸らす。
「でも、あなたたちが峠の惨劇に遭ったこと、そのことでカルヴァリオ隊長を責めるつもりはないの。それは
パペッタが、ゆっくりと天を仰ぐ。
「マルーグ峠でアープとケルヌンノスの兵が衝突する、そんな噂を聞いて、私はすぐに峠に向かったのよ。そこで見たのは、私の想像を超えた凄惨な戦いの跡だった。アープの兵も、山岳猟兵隊も、みんな死に絶えて。さすがの私も、百合を手向けるのが精いっぱいだった」
刹那、俺の脳裏に白い電光が閃いた。
マルーグ峠の累々たる戦死者の中に佇む、百合を持った黒衣の人影。
俺に視線を戻したパペッタが、ふふふ、と低く笑う。
「思い出してくれたかしら? カルヴァリオ隊長。そう、あの時、生き残ったあなたが峠で見たのが、私なのよ……」
氷結しかけた湖水に叩き込まれたかのように、俺の思いは小さく凝り固められる。
そんな萎え切った俺を上目遣いに凝視する、うつむく女屍師パペッタ。彼女の両目に浮かぶのは、底知れない藍色の侮蔑だ。
「あなたは、あの戦場から独りで逃げ出した。でも、正気を失ってもおかしくないほどの悲惨な戦場だったのだもの、それも仕方のないこと。だから私は、待ってあげたのよ、カルヴァリオ隊長。あなたが冷静さを取り戻し、ケルヌンノスの街に待つ山岳猟兵たちの家族の許へ、顛末の報告と詫びに帰るのを」
女屍師の口調が、だんだんと荒んでくる。パペッタの深奥からの憤りが、俺の精神をじわじわと炙る。
「でも、わたしがどれだけ待っても、あなたは酒色に逃げるばかりで、一向に自分の過ちと向き合おうとはしなかった。そしてとうとう、灰にされてしまったのよ。私と先生の、大切な街、ケルヌンノスは……!!」
鉛の吐息を吐くかのように、重苦しく肩を上下させたパペッタが、俺をゆっくりと指差した。
「だからもう、私は我慢できなかった。あなたの居場所は、ずっと前から分かっていたから、あなたを夜の裏路地で捕まえて、魂を抉り抜き、
女屍師の全身が、小刻みに震える。彼女のガラスの両目が、青白い憤激をさめざめと映す。
「あなたが私の
ユディートのかすかな吐息が、女屍師の言葉の隙間に打ち込まれた。
「誤算、だったんだよね? パペッタ」
「誤算……?」
聖騎士の淡々とした声に、パペッタの両肩がびくんと毛羽立つ。
「ええ、確かにそうね。もう何から何まで、誤算だらけだわ。ユディートさんといい、山岳猟兵たちといい……」
ふふっ、と干からびた笑いを洩らした女屍師の黄昏た肩が、がくりと脱力した。彼女は力を失った言葉を、ぽつぽつと虚空に書く。
「あなたが殺したのも同然だったケルヌンノスの猟兵たちが、まさか一人残らず、あなたを擁護するなんてね、カルヴァリオ隊長。それも、先生の縁者までなんて……」
パペッタが、陶器のような両手で顔を覆う。
「結局、ケルヌンノスの滅びの犠牲者たちの怨念も、あなたと百人の仲間たちの絆と赦しの力の前には、何の力も持ち得なかった。もう私の完敗ね……」
女屍師の言葉が途切れた。
何の物音もしない、完璧な静寂がこの空間を埋め尽くす。
パペッタには、自分の間違いと敗北を改めて思い知る厭わしい沈黙だろう。だが俺にとっても、俺の愚行をもう一度噛み締める、苦渋に満ち満ちた時間に他ならない。
俺の懊悩が、ユディートにも伝わったのだろうか。俺の頭を小脇に抱く彼女の腕に、ぎゅっと力が籠った。
そして彼女が、静かにパペッタに問う。
「それじゃあ、返してもらえるってことで、いいのかな? パペッタ。トバルくんの、元の体を……」
一瞬、うつむいたパペッタ。すぐには答えようとしない、女屍師のもったいぶった態度が、俺の不安を煽り立てる。
だがユディートは、余裕に満ち満ちた表情で、ふふっと笑った。
「キミの答え、もう決まってるよね? パペッタ。自分の言ったことは必ず守る。善行も悪行も、どんなことでも必ず、ね。噂では、そう聞いてるけれど、違うかな?」
パペッタの華奢な肩、それに布に覆われた口元が小刻みに揺れている。
笑っているようだ。だがその仕草は、酷く諧謔的に映る。
「ああ、そうね。私はこの街でも少しは知られた魔法屋、“久遠庵”の主。もう自ら負けを認めたのだから……」
言葉を切ったパペッタが、ゆらりと背中を向けた。
刹那、彼女を覆うローブから滲み出した闇が、俺たちの周囲を黒く塗り変えてゆく。この奇妙な審判の空間は、見る間にその高さも奥行きも狭めてくる。あの途方もなく広大だった空間が、まるで嘘か幻のようだ。
やがて辺りは完全な真っ暗闇へと化した。
そう思った途端、俺たちの左右に、ぽうっぽうっと小さな灯りが等間隔に点ってゆく。
気が付けば、俺とユディートは、暗い回廊の只中に立っていた。