二.花街の少女 十二
文字数 5,464文字
全く心外な反応だ。腐った臓腑の底に、憤懣が溜まってくる。
表情を変えられない俺の目の前で、マイスタがさも愉快そうに、朗らかに笑う。
ユディートに至っては、すらりとした脚をばたばたさせて、涙さえ滲ませて爆笑している。彼女のこういう仕草は、何と言うか、まるっきり子供だ。
やはり只では世話になれない、真剣にそう考えた結果の行動だったのだが。
ユディートはともかく、まさかマイスタにまで笑われてしまうとは。
不満で胸郭が弾けんばかりに膨れ上がる俺。
「ごめんね。気を悪くしないで」
ユディートがひいひい言いながら、左目を手の甲で拭う。
「キミ、本当に真面目なんだね。びっくりした」
「いやー、ユディートちゃんの言うとおりだよー」
しみじみと洩らした彼女に続き、マイスタも何度もうなずいた。この老人の素振りと言葉には、心底からの感嘆とが見て取れる。俺を見る目に、もう疑念の暗い陰は窺えない。
「マノさんは律儀だねー。うん、本当に……」
マイスタが目を伏せた。しわの寄った口元に浮かぶのは、かすかな笑み。何か噛み締めるような、深い思慮と隠しきれない過去を偲ばせる、そんな笑みだ。
ふう、と小さく息をついたマイスタが、低く静かな口調で、ゆっくりとエステルに聞く。
「お嬢様、ここに銀貨と銅貨が十枚ずつあります。マノさんが、ここに寝泊りするお代と言われておりますが、どうしましょうねえー。わしは別に欲しくないですが、お嬢様はいかがです?」
「ああ、そんな……」
困ったように洩らし、エステルが正面へと向き直った。曖昧なその翡翠の目線が、俺に相対する。感謝の気持ちの表れだろうか。
白い頬をほんのりと桃色に染めて、エステルが微笑んだ。腐った男の俺の心にさえ、ぐっさりと突き刺さる可憐な笑みだ。
「お気持ちはありがたいと思います。確かに、わたしにはちょっとでもお金が必要です。でも、困っているマノさんから頂くことなんて、わたしにはできません」
奇妙な物言いだ。彼女の言葉を素直に受け取れば、エステルはお金に困っている、ということか。娼館街でお金に困っている女といえば、やはり借財を負って体を売る身、そんな先入観を持ってしまう。だがそれを本人に直に確かめるなど、仮にそうだったとしても、非礼の極みだろう。俺にはそんな勇気はない。
しかしそれはそれとしても、俺も一度出した中身を、また財布に戻すような無粋な真似はごめんだ。
さて、どうしたものか……。
考え込む俺と、柔らかな、ともすれば母性的とさえ思える笑みで沈黙を守るエステル。
その間に割って入ってきたのは、ユディートのふふーん、という甘い笑いだった。
「それなら、このお金はあたしが預かるね」
素っ気なく言ったユディートが、しなやかな手をひょいと延ばしてきた。彼女は片手でちゃりちゃりとコインを拾い集めながら、俺とエステルを好意的な眼差しで交互に見遣る。
「後でハーネマンさんに渡しておくね。今日のマノくんの診察代と、これからの包帯代。残った分は、困った女の人のために使ってもらうから。いい考えでしょ?」
悪戯っぽく、にっと笑ったユディート。その顔が、いつになく眩しい。
マイスタも、即座に膝を打った。
「いいねー。さすがユディートちゃん。とてもいい考えだよー」
マイスタがもろ手を上げて賛成すると、エステルも屈託なく、うふっと笑った。その透明な声も、とても嬉しそうだ。
「ありがとう、ユディートさん。リベカ先生によろしくお伝えくださいね」
「分かってる。任せて」
ユディートが貨幣を腰のあたりにしまい込みながら、にっこりとうなずいた。
「ハーネマンさんも、エステルのことを心配してたから。ちゃんと伝えておくね」
このサロンの空気が、何だか軽くて温かみを帯びたような気がする。
もちろん俺の肌など死人の皮だから、暑さ寒さなど関係がない。たぶんこの感覚は、俺の内側からきた精神的なものだろう。
ユディートが、さっぱりとした笑みを留めたまま、お尻をぼふんとソファーに落とした時だった。
玄関扉のノッカーがコンコンと鳴らされた。特徴のない、誰でも鳴らすやり方だ。
よっ、とひと声上げて、マイスタが腰を上げた。おもむろに玄関口に立ったマイスタが扉を開くと、戸口には一組の男女がいた。どちらもまだ若く、二十代の初めというところか。割と小奇麗で、少し余裕がある庶民といった風情が漂う。
マイスタの正面に立つ男に対して、女の方はその陰に半歩隠れ、恥ずかしそうに顔を伏せている。
その若者が、マイスタに気さくに聞いた。
「こんにちは。部屋は空いてる?」
「ああ、こんにちは。今日は空いてるよ。いつまでにする?」
マイスタも若者とは顔見知りなのか、慣れた様子で言葉を交わす。そんな好々爺のマイスタに、若者がポケットから取り出した銀貨を手渡した。
「明日の朝まで休ませて。銀貨一枚で良かったよね?」
「ああー、分かってるねー。いつも使ってくれて、ありがとうね」
勝手を知った様子の若者に、マイスタが気安い笑顔で何度もうなずく。
「じゃあ部屋へ案内するよー。二階の三号だから……」
男女が玄関の内側に入り、マイスタが扉を閉じようとした、その瞬間だった。
今しも後ろ手の彼が引くドアと枠の隙間に、何かがガシッと挟み込まれた。
「ああー!?」
いきなりのことで、がくんとマイスタの姿勢が崩れたその刹那、今度は扉の隙間から片手が捻じ込まれてきた。贅沢な指輪がいくつも光る、太い指だ。肉付きはいいが、締りはない。体を使って働く者の手ではなさそうだ。
玄関口に向き直ったマイスタが、呆れ切った声を上げた。
「ありゃー? またあんたかい。もう来るなって、何度も言ってるじゃろ。いい加減諦めてくれんかねえー……」
「いいや! 俺は諦めないぞ! また来ると言っておいただろう!」
野太い男の声が、扉の隙間から入り込んでくる。確かに、俺にもどこか聞き覚えのある声だ。
続けて拳一つほどの幅に開いた扉の隙間から、片方の目がサロンを覗き込んできた。中年男のようだ。やはり何となく見覚えがある。
ふと目の前のエステルを見ると、顔を曇らせたまま、うつむいている。可憐な唇も堅く引き結ばれ、その強張った華奢な身は小刻みに震えているようだ。よほど怖いのだろう。
ユディートがエステルの側にスッと寄り添い、そっとその肩を抱く。訳あり過ぎる光景だ。
マイスタが開こうとする扉を引っ張り返しながら、あからさまに迷惑そうな声を上げた。
「今はお客がおるんじゃよー。邪魔じゃから帰ってくれんかなー」
確かに、扉の内側で待つ男女も、見るからに不安で迷惑そうだ。
扉を閉ざそうとぐいぐいノブを引くマイスタに対し、男の方はこの白鷺庵のサロンに押し入ろうと、ドアをこじ開けるのに必死だ。
ユディートがスッと立ち上がった。異常を察した黒猫のような、優美でしなやかな仕草。
彼女は横に座るエステルの耳に、そっと耳打ちする。
「奥に行っててもらえる? エステル。危ないから」
「あ、はい……」
青ざめたエステルがこくこくとうなずき、固い動作で立ち上がる。
つられた俺もぎこちなく腰を伸ばして直立すると、ユディートは俺をびしっと指差して、小声を飛ばしてきた。
「ああ、キミはそこにいて」
だがその意図は全く分からない。突っ立つばかりの俺を置き去りにして、他の全員が動き出す。
エステルは一歩一歩慎重にサロンの奥へと引っ込んでゆき、ユディートが玄関口で扉を引っ張り合うマイスタへと歩み寄る。そして、この老人と目配せを交わしたユディートが、こっそりとドアノブを握った。
途端に、マイスタの表情がホッと緩む。彼にしては珍しく、相当うんざりしているようだ。
人の好いマイスタが嫌悪感を顔に出すなど、外の男の嫌われ具合はかなりのものと見た。
そうして玄関から離れたマイスタはというと、所在なさげにたたずむ男女とエステルを連れて、サロン奥の階段から二階へと姿を消した。
今やこの白鷺庵のサロンに残されたのは、片手で扉を余裕で引っ張るユディートと、ソファーの前に棒立ちの俺だけだ。
そのユディートが、俺に左の流し目を寄越す。漆黒の瞳を不敵に細め、にんまりと策士の邪な笑みを浮かべるユディート。一体、何をする気なのだか。
嫌な予感しか湧いてこない俺の眼球に、扉から手を放すユディートの姿が映った。
次の瞬間、扉は蝶番を破砕するばかりの勢いで撥ね開けられ、一人の男がサロンに踏み込んできた。
厚く豪奢な服の下で、でっぷりと突き出した腹が揺れている。
男は戸口の前に凛と立つユディートを前に、仰け反って小さく叫んだ。
「うっ!? サイラ卿……!?」
「こんにちは、アンフォラくん」
細めた左の目を怯む中年男に注ぎ、ユディートが挑戦的な表情で言葉を投げる。
「昼間からこんな場所に来るなんて、いいご身分ね。商売の方は大丈夫なのかな?」
アンフォラと呼ばれた男が、ぐっと言葉を詰まらせた。
思いだした。この太った中年男は、昨日もこの白鷺庵に押しかけてきて、マイスタに追い返されていた人物に間違いない。
そういえば、『また来る』などと捨て台詞を残していたような気がする。本当にまた来たようだ。
そのアンフォラが、頬のたるんだ下膨れの顔を真っ赤にして、吠えるように言い返す。
「あんたには関係ないだろう! それよりエステルに会わせろ!」
「『関係ない』なんて失礼だね。キミもよく知ってるはずだけれど」
腕組みのユディートが、アンフォラに向かって身を乗り出した。上目遣いに仰ぐようにして、アンフォラを凝視する。
「この花街の女たちは、みんなあたしと、ひいひいひい……おばあさまの庇護下にあるんだもん。住民も、娼婦もね」
そう豪語した聖騎士の顔に、にんまりとした冷笑が浮かぶ。時折俺に見せる狩人の笑みよりも、さらに冷酷で容赦のない顔だ。傍目の俺の腐食した背骨まで、がたがたに震えて崩落しそうに思えてくる。
アンフォラの赤ら顔が、今度は蒼黒くなってきた。一応は丁寧に撫で付けられた茶色の髪の生え際が、てらてらと光っている。脂ぎっているのもさることながら、冷汗が滲んでいるのは間違いない。
怯えを隠せない中年男に、十代少女の聖騎士が威圧感たっぷりに畳みかける。
「大体、キミはもうとっくにエステルに振られてるんだから、潔く身を退いた方が傷も浅くて済むと思うけれど? いろんな意味で。この花街の娼婦には、客を断る権利も恋をする権利だってあるのよ。分かってる?」
アンフォラのこめかみに、血管の陰が浮かび上がってきた。戦慄く口角から泡を飛ばし、男が吠える。
「そっちこそ、俺がどれだけの金を積もうとしてるのか、分かっているんだろうな!? 金で体を切り売りする売春婦の分際で、何を偉そうに……!!」
ユディートの冷ややかなせせら笑いが、さらに凍てついてくる。
「この花街、生きるために仕方なく体を売ってる女の人は、少なくないよ。でもね」
彼女の左の瞳の奥底に、蒼い深淵が大きく顎を開いたかのような、藍色の闇が蟠る。
「お金で心を売り渡すような女は、この花街にはいないよ。たったの一人もね」
ユディートが、言葉を失って身を震わすばかりのアンフォラを指差した。
「キミみたいに、娼婦を物のようにしか考えられない男には、普通の女だって寄り付くはずがないじゃない。そんな男、あたしが教え諭す価値もないわ」
アンフォラの顔が、また赤くなってきた。今度は怒りのためだろう。ぎりぎりと歯ぎしりする中年男を斜に見遣り、ユディートがねっとりと笑う。
「でもキミは諦めが悪いからね。マイスタさんやあたしがいないときに間違いがあっても困るから、あの子に用心棒を付けることにしたの」
「よ、用心棒……!?」
ひくっと顔を引き攣らせたアンフォラに、ユディートが絡みつくような口調でゆっくりと言葉を綴る。
「そう、用心棒。そこにいるでしょ……?」
そう言ったユディートの親指は、肩越しに俺を指し示している。
アンフォラの茶色の目が、彼女の親指が示す先を追う。
そして三秒。
俺の眼球と、この肥満した男の視線が初めてかち合った。
途端にアンフォラの顔に浮かんだのは、蔑みの色だ。馬鹿にしたように厚ぼったい口を曲げ、彼が嘲笑う。
「何だ? 汚い男だな。それに臭うぞ。どこから拾ってきた貧乏人……」
アンフォラの粘着質の視線が、俺を値踏みするように睨め回す。
実に厭らしい目つきだ。
あんな目で舐めるようにじろじろ見られたら、俺だって気色悪いのだ。女性、特に繊細そうなエステルなら、なおのことだろう。
しかしそんな中年男の視線が俺の襟元を捉えたその瞬間、その目が大きく見開かれた。だらしなく開かれた口からは、ひゅうひゅうと乾いた息が洩れてくる。
脅え切ったアンフォラが、がくがくと震えながら俺を指差した。
「その部隊章、マ、マノ大尉!? あんた死んだはずじゃあ……!?」