四.審問 十二
文字数 3,964文字
この炎の呪文を唱えた魔術師が、死の微笑を湛えるユディートに向かって、憎々しげに叫んだ。
「燃え尽きろ! 小娘!」
「どうぞ、 坊や」
ねっとりと笑ったユディートが、その魔術師を妖しく差し招く。
「キミの最高の魔力を、あたしにぶつけてごらん……?」
ぐぬぬ、と唸った魔術師が大きく息を吸った。
男の手を包む光、それにユディートを囲む赤い魔法陣が、一層強くなる。呪文を発動させる最後の結句を放つつもりだ。
と、部下を遮るように、主任が叫んだ。
「ま、待て! やめろ!!」
だが遅かった。感情も露わに、魔術師が絶叫する。
「“ラクエウス・イーグニス”ーっ!!」
魔術師の声が主任の制止を打ち消して、倉庫の中に響き渡った。男が結んだ印形を包む光がさらに強くなり、真紅から目映い純白へと色を変える。
と、その瞬間。印を結んだ魔術師の手が、ばふん、と爆発した。
魔術師の悲鳴が反響し、同時に放たれた白い閃光が、この事務室の中を純白に洗い晒す。
「ぐうう……」
悲痛な呻きとともに、魔術師が崩れるように両膝を着く。印を結んでいた手は、まだ指は付いているようだが、手の甲はぱんぱんに腫れあがっている。かなり手ひどく火傷を負ったようだ。
ふふーん、という甘ったるい笑いが聞こえた。
「それがキミの全力? 自分の魔力も制御できていないじゃない。ダメだねえ……」
いつものにんまりとした笑いを浮かべ、悠然と立つユディート。その足元には、もう炭火色の魔法陣はない。
何事もなかったかのように、泰然と佇む聖騎士ユディートの姿が、俺に心からの安堵と憧憬をもたらした。
対して第零局の魔術師たちは、身震いさえさせて、じりじりとユディートとの間合いを離してゆく。
彼女を凝視して、主任が呻く。その口調には、焦りと後悔が色濃く滲むようだ。
「そうか貴殿は、死の小神格“
緋色の男の戦慄く手が、ユディートを指差した。
「そうだ、死の女神の聖職者は、自分が死ぬ日時を知っていると聞く。そしてその時以外には、決して死ぬことがないと。だから傍目にどんなに無謀に映ることでも、彼らは平然とやってのけ、不用意に彼らを傷つけようとする者は、ことごとく自滅する……」
「気付くのが遅かったと思うけど」
ユディートの顔から、再び笑みが消えた。
……なるほど。
彼女が語った『今日は死ぬ日じゃない』とは、そういう意味だったのか。今までのユディートの自信と余裕は、自らの能力のみではなく、特殊な“加護”の裏打ちもあったのだ。
鉄格子の向こうで交わされたユディートと緋色の男の応酬を聞き、深く納得した俺だった。
そして、冷徹な仕事師として唇を結んだユディートが、背中の得物にゆっくりと手を延ばす。
ゆるゆると引き抜かれる弓鋸を目の当たりにして、緋色の男が焦りに満ち満ちた、上ずった声で部下に命じた。
「……くっ、仕方ない! レーヴェは
「はっ、はい、
火炎魔術を暴発させた魔術師が、おたおたと立ち上がった。
同時に緋色の男、赤い男、それにもう一人のペイルグリーンの男が、パッとユディートの前から散り、小窓から覗く俺の視界から消えた。
恐らくは各々が、この事務所で確保できる十歩の間合いを、ユディートから取っているはずだ。
三人は、きっと部屋の角にいる。それを裏付けるかのように、左の隅から呪文を唱える声が聞こえてきた。
「“最も重きは深淵、最も軽きは片雲。軽妙にして凍れる霧滴よ、この間隙を疾く埋め尽くせ”……っ!!」
そして数秒。呪文の最後の言葉が放たれた。
「“ジェリダス・ネブラ”っっ!!」
次の瞬間、何か空気の抜けるような音が聞こえたかと思うと、鉄格子の向こう側に真っ白な濃霧が立ち込めた。
小麦粉のようにきめ細かく、氷のように冷たい霧だ。玄関扉を背に立っていたユディートの姿も、影すらも霧に覆い隠されてしまっている。
目晦ましのつもりだろうか。そんな小細工が通用するユディートとも思えないが……。
その一方で、ずんっ、ずんっと、ひたすらに扉を押し開きかけに掛かってくる魔術師が一人。確かレーヴェとか呼ばれていたか。
だが俺も残った右腕と両足脚に全体重を掛けて、鉄の扉を押し返す。
ユディートは気になるが、彼女ならよほど大丈夫だろう。今の俺は、この扉を死守して、カイファがエステルとハーネマンを助ける時間を稼がなくてはならない。
肩甲骨と骨盤に全ての力を集中する俺の耳に、倉庫の奥から叫ぶ声が聞こえてきた。
「トバル隊長!!」
カイファの声だ。何かあったのだろうか。
扉を押し返しながら、俺はくきくきと頸椎を限界まで回し、初めて倉庫の奥へと眼球を向けた。
無造作に床に置かれたランプが、がらんとした赤煉瓦の大きな空間を照らしている。
奥行きは数十歩以上あり、幅も三十歩近くはあるだろう。天井に板はなく、木の梁材がむき出しのままだ。梱包された荷物の類は見当たらない。
だが、この倉庫の一番奥まった突き当りに、開け放たれた扉が見えている。その前の床にぼんやりと浮かび上がるのは、数々の不穏な道具の影だ。
手足を引っ張る
無数の棘が表面を覆う怪しい椅子。
それに、鉄棒が突っ込まれた熱く揺らめく炭火の鉢。
見るのも聞くのも悍ましい、拷問道具の数々だ。
この連中は、こんなものをエステルやリベカに使うつもりだったというのか。
二人を拷問にかけたところで、何を聞き出せるというのだろう。いや、もはや拷問に掛けること自体が、目的となっているのに違いない。
吐き気さえ伴うほどに、憤りが腐った臓腑を沸騰させる。
全身を憤怒に包まれた俺の目に、小部屋の戸口からじりっと退くカイファの背中が映った。どうやら何かと対峙しているようだ。
そう見えた時、俺が押さえ込む扉と俺の胴体の間に、何か細長い物が差し込まれた。と思う間もなく、その細長い物はぐいぐいと俺の体を扉から引き剥がしに掛かる。
格子窓に眼球を戻すと、あのレーヴェとかいう魔術師が、何かの棒を鉄格子の間から、杖だか金梃子だかを差し込んで、必死に引っ張っている。
梃子の要領で、俺を扉の前から排除するつもりか。タネは知れてはいるものの、梃子の仕組みは単純ながら強力だ。単に扉を外から押すのとは段違いの力が、俺の体を襲う。
俺の胴体を扉から浮かせる力に、俺も三本の手足を突っ張らせ、あらん限りの力で抵抗する。
奥で何かと相対しているカイファがとても気掛かりだ。だが、今俺がここから退けば、扉の向こうのレーヴェが倉庫に入ってくる。
そうなればこの魔術師は、俺を追い抜いてカイファも、それにエステルとハーネマンも、皆殺しにすることだろう。俺は、今はこの位置に留まらざるを得ないのだ。
レーヴェの棒に必死に抗う俺の耳に、霧の中から何か唱える声が聞こえてきた。
「“風の精霊の息吹よ、凍れる刃となって……”」
男の声だ。
さっきの霧の呪文とは別の声が、別の場所から良からぬ呪文を唱えている。そして数秒。
同じ声が叫んだ。
「“テンペスタ・ラミーナ”っ!!」
男の結句が霧の中に消え入った瞬間、扉の向こうの事務所の中に、轟轟と嵐が吹き荒れた。
凍れる霧を巻き込んだ暴風が、俺の塞ぐ扉を氷よりも冷たく凍らせてゆく。よくよく見れば、扉の鉄格子にもうっすらと霜が降りている。
鉄格子越しに事務所の中を窺った刹那、俺の腐った背筋に戦慄が走った。
事務所の中の霧は、魔術の嵐が文字どおり霧散させていた。
その部屋の只中には、神の鋸を手にした聖騎士ユディートが直立している。だがその足は膝から下が凍り付き、床の上に固着させられていた。右手に提げた神鋸も、床に触れたその
だが意識は確からしく、ユディートの左目は、それでも無感情な光を放って、魔術師たちを見据えている。
凍気に動きを封じられたユディート……!
氷のように冷たい霧に猛烈な風を吹かせ、合わせ技で彼女を凍り付かせたのだろう。
ユディートの危機は、俺たち全員の危機に他ならない。どうしようもない、絶体の窮地……!
あのマルーグ峠での惨劇が、俺の腐った脳にありありと投影される。誰一人助けられなかった、俺の罪業と贖罪の始点に他ならない、あの戦いの記憶だ。
小雨の峠で生き残った俺を苛んだ、圧倒的な無力感、絶望、そして己の所業への嫌悪と恐怖……。
俺の精神を後ろめたい逃走へと追い立てた感情の深淵が、再び俺を捉えようとしている。自分の過去に怯えた俺の体から、力が一瞬抜けた。
その刹那、レーヴェの引く梃子の棒が、俺の体を扉から引き剥がす。
「ッガ……ァ!」
俺の異様な叫びを打ち消して、ごきん、と太い棒が折れるような音が右の肩に響いた。さらに、そこから何がべろりと剥がれる感覚が走る。何かべたっとした粘液の塊が皮膚から剥がれる、そんな感覚だ。
ぐらりと仰向けに昏倒した俺の肺から、瘴気が洩れた。
「グッ、フ……!」
俺の呻きからわずかに遅れ、肩からちぎれた右腕が、床の上へとぼとりと落ちた。俺の肩口とは離れた位置に。