四.審問 五
文字数 4,212文字
エノスが俺に教えた、『筋の良くない
商人アンフォラが呼び寄せたという組織の男が、とうとう俺の前に現れたのだ。俺を始末するために。
それに『審問』などと言うからには、俺とユディートを碌でもない拷問にでもかけるつもりだろう。
だがわずかな恐れと同時に、俺の中に挑戦的な気持ちが湧き上がってくる。
俺は軍人、トバル=ルッカヌス=カルヴァリオ。魔術師独りごときに屈さない、気概と腕は持っているつもりだ。
しかし今の俺は、一個の死体に過ぎない。このまともに動かない体では、ユディートを守るどころか、俺自身さえ危ういことは否めない。
ぐぐぐ、と喉を鳴らした俺の傍らで、ユディートは泰然とした姿勢を崩さない。
曖昧で皮肉めいた微笑さえ湛え、彼女が一言だけ、男に問う。
「イヤだ、って言ったら?」
「死んでもらう」
即答した男。その左手の杖、右手のそろえて伸ばした人差し指と中指に、薄黄色い光が宿り始めた。本気で何かの魔術を放ってくるつもりだ。
ついたじろぎ、じりっと半歩退いた俺の横で、ふふーんと甘ったるく笑ったユディート。
「あら、そう」
彼女は軽く肩をすくめ、細めた左目を男に向けた。
「このルディアの街で、あたしに喧嘩を売るひとなんて、誰もいないよ。ただのひとりも、ね」
ユディートが魔的ににんまりと笑う。
彼女のあまりに余裕過ぎる態度を前にして、男がじりっと半歩下がった。少しばかり恐れをなしたようだ。固さと焦りを増した男の顔が、彼の動揺を物語る。
そんな男に、ユディートが右手を延ばした。そして妖しい手つきで男を差し招き、ねっとりと煽る。
「キミ、そのオレンジのローブは第五階魔術師“
その瞬間、男の顔が真っ赤に染まった。怒りと恥辱の色だ。金緑の瞳にありったけの憎悪を載せて、男がユディートを睨み付けた。
「後悔するなよ! 小娘……!」
ユディートも男の凝視を平然と受け止めながら、俺に向かって下がれと手で合図する。ずりずりと壁際まで下がる俺の耳に、ユディートの含み笑いが聞こえた。
「どうぞ、坊や」
刹那、男が呪文を詠唱し始めた。
「“地霊の掌よ、奢れる者に大地の怒りを……”!!」
腕組みして悠然と佇むユディートの足もとに、円い魔法陣が怪しく浮かび上がった。どす黒い瘴気が、彼女の足首を縛るかのように、ぬるぬると蟠ってくる。
同時に、魔法陣の周りに五つのひび割れが走った。ユディートを取り囲む、五角形の小さなひびだ。
間髪を容れず、床の割れる破砕音が聖廟内に轟く。と見る間もなく、五つのひび割れをめきめきと砕き広げ、五本の粗い石柱がそそり立った。コバルトブルーにも見える、重厚で見上げるほどの大きな石材だ。そんな危険な物体が、ぐるりとユディートを包囲している。
次に何が起こるのか、想像した俺の背筋に戦慄が走った。
……ユディートが圧し潰される!!
俺がおたおたと半歩踏み出したのと同じくして、男が絶叫した。
「“イッレ・テッラ”ァーッ!!」
男の言葉を受けた五本の柱が、ぐらりとよろめく。そしてユディートめがけて、一斉に倒れ込んだかに見えた石柱だった。
だが、一瞬、ゆらりとユディートの頭上へ傾いた石柱は、ぐらりと外側へと向きを変えた。まるで振り子が逆方向へ揺り返すように。
「あ? ああ……!?」
男の間の抜けた声を打ち消して、五本の石柱は臓腑を震わす地響きを立てて床へと倒壊した。その石柱の跡は、身じろぎ一つしないユディートを中心に描かれた、石の星のようだ。
男の目が、驚愕に見開かれる。
「お、俺の“大地の怒り(アース・ラス)”が外れた……!?」
ぶるぶると震える男の手から、杖がからんと落ちた。何事もなかったかのように佇んだまま、ユディートが大きなため息をつく。
「これがキミの持てる最強の呪文? じゃあ他の魔術は、あたしに放つだけ無駄だなあ……」
うそぶいたユディートが、にんまりと笑う。得体の知れない自信に満ちた、魔的で神的な、人智を超えた笑みだ。
俺でさえ寒気を覚える、魔性の笑顔。
「ねえ、キミ? ひいひいひい……おばあさまの聖廟を、ずいぶんと派手に荒らしてくれたじゃない」
左目だけを動かして、放射状に倒れた石柱、割れた床を見回したユディート。恐ろしい笑みを浮かべたまま、彼女がつぶやく。
「それじゃあキミには、神域を無断で荒らした報いを受けてもらおうかなあ……」
彼女が自分の腰の辺りを右手で探り、ポケットから銀色の平たい円盤を取り出した。あれは聖具“
ユディートが右手に載せた羅殯盤をぱちんと開くと、銀箔の羽毛が一枚、すっと宙に浮きあがる。くるくると、円盤の上で回っていた羽毛だったが、すぐにピタリと静止した。その軸の先は、真っ直ぐに男を指し示している。
ふふ、と笑ったユディートが、羅殯盤をぱちんと閉じた。
「今日がキミの第二の誕生日なんだね。おめでとう」
恐ろしく事務的にそう言って、ユディートが背中の得物に右手を掛けた。右肩の後ろに覗く柄をしっかりと握り、彼女が鞘から細長い武器をすらりと抜き払う。プラチナシルバーに煌めく、不吉で神々しい弓鋸。かつて死の太母が使っていたという、神の武器だ。
男の顔が、恐怖に引き攣る。すくみ上った男は、身震いするばかりだ。半歩でさえ、動くことができない。
「た、助け……」
哀れを誘う男の呻き。だがユディートは無感情に言い渡す。
「キミが自分で決めてきた命日だから、もう変えられないよ。あ、でもちゃんと輪廻の環の中に還してあげるから、安心してね」
「あ、あ……」
男が床にへたり込んだ。そして聖廟の玄関へと、おたおたと這いつくばってゆく。赤ん坊のように四つ這いで逃げてゆく男の姿は、俺でさえ憐憫の情を誘われる。
だがユディートの表情は変わらない。己の仕事に徹する、無情な職人の顔だ。
そんな彼女が、小さく息を吐く。と、次の瞬間には彼女の姿は一陣の風を残し、スッと消え失せた。
そして瞬き三つ。彼女の後ろ姿が、聖廟の玄関の前に、ふっと現れた。
戸口から差し込む金色の午後の陽光を背に、凛と立つユディート。灰色の陰影が、彼女の姿を艶めかしく彩っている。
その背中の黒い鞘に、白金色に輝く神の鋸がするりと収められた。
同時に、床に両手を着いた男の口から、呻きともため息ともつかない音が洩れた。
「か、は……」
そんな乾いた不気味な音を曳きながら、男の頭がずるりと頸椎からずり落ちる。
ごろん、そんな鈍い音とともに、男の頭が驚愕の表情のまま、床に転がった。さらに両腕も二本の脚も、胴体からすっぱりと切り離され、その場に散乱する。まるで飽きられたおもちゃの人形が、バラバラに分解されて、されて打ち棄てられるように。
ところが奇妙なことに、男の無残な切断面からは、一滴の血も流れてはいない。俺の腐った背筋に、冷たいものの這いずる感覚が襲う。
恐るべきユディートの剣技。いや、この場合は鋸だが。
いかに無防備な相手とはいえ、目にも留まらぬ一瞬のうちに、相手の首と四肢を血も流さずに切断するなど、人間にはおよそ不可能な芸当だ。
しかし聖騎士ユディートの腕もさることながら、俺はここまでの彼女の様子に、何か奇妙な違和感を覚えていた。
いきなり殺意を向けられ、強力な魔術を放たれたのに、ユディートは欠片の動揺も見せなかった。何と言うか、戦士以上の腕を持ちながら、彼女は心に揺らぎがない。とても十代の少女とは思えない沈着ぶりだ。
恐らく彼女は、俺の想像をはるかに超えた場数を踏んできているのだろう。
その悪戯で美し過ぎる容姿とは裏腹な、練磨の聖騎士ユディート。固まった俺の心臓が、ふにゃふにゃと熱く溶けていくようだ。
そんな俺の前で、ユディートが第零局の男の死体に歩み寄る。
自分が惨殺した男の体を無感情に見下ろしながら、彼女が何事か唱え始めた。意味の分からない、奇妙な言語だ。
しばらく詠唱を続けていたユディートが、さっと右手を挙げた。すると床に転がる男の頭から、紫色の小さな光の玉が、ふわふわと漂い出した。
俺は直感する。あれは、第零局の男の魂だ。
ユディートがそっとその霊魂を両手で受け止めた時、不意に聖廟の中が薄暗くなった。
ハッと気が付けば、ユディートの前に、黒い人影が忽然と現れていた。
ぼんやりとした、痩せたシルエット。左手に下げたランタン以外は、何もかもがはっきりしない人物だ。
俺の知らない言葉を男と交わしたユディートが、掌の中の魂を男の右手にそっと託した。
きわめて事務的な表情で小さくうなずく彼女に、しっかりと魂を握った男も、淡々とうなずき返す。そこで男の姿は音もなく消え失せ、聖廟には洩れ込む薄暮の光が戻ってきた。
腕組みのユディートが左目を伏せた。そして静かな吐息とともに、かすかにつぶやく。
「……イテ・リトゥス・エスト」
そこで俺は、ずっと感じていた違和感の理由に気が付いた。
ユディートからは、闘気も殺意も一切感じられないのだ。いや、彼女は端からそんなものは持ち合わせてはいなかった。ユディートの中にあるのは、自分の役目を完遂するという、揺らがない鋼の義務感だけなのだ。
あの第零局の魔術師を殺し、霊魂を抜き取って何者かに引き渡したのも、すべては彼女の負った義務なのだろう。
ただただユディートを茫然と見つめるばかりの俺に、彼女が歩み寄ってきた。どこか俺を気遣うような微笑を浮かべ、そっと言葉を掛けてくる。
「驚かせちゃった? いきなりのことでごめんね。何がどうなってるのか、キミには分からなかったかも知れないけれど」
俺は素直にぴきっとうなずいてみた。
「ア、ア……。分カラナカッタ……。何ヲ、シタ……? アノ、第零局、ノ、男二……」