五.贖罪の行方 八
文字数 4,143文字
聖騎士ユディートの思いがけない提案。一体どういうことなのか? 誰をこんな場所へ呼べるというのだろう……?
俺は怪訝に思うばかりだ。
しかしこのアメットという古代の魔物は、ぐぁるる、と奇妙な声を上げた。ユディートを金色の眼で真っ直ぐに見下ろしながら、アメットは大きく頭を上下させる。その視線や態度は、どういう訳だか好意的に映る。
途端に、ユディートの唇がふっくらと綻んだ。
「ありがとう。それじゃ遠慮なく喚ぶからね」
にんまりと笑ったユディートが、俺に向かって軽く左目を瞑って見せた。そして彼女は、右目を隠す前髪の下に、おもむろに手を差し入れる。
ユディートの隠された右目に秘された神力。それが三度(みたび)発揮されるのに違いない……!
俺の脳裏の絶望が、希望と期待に塗り替えられる。そう自覚した刹那、焦りのパペッタが大声で叫んだ。
「鬼火たち! もっと力を込めて!! 天秤を押し下げるのよ!!」
羊水に鬼火を溶かし込んだグラスが、吐き気を催させる虹色に光った。同時に、俺の頭を載せた天秤の皿が下降を止め、再び上昇に転じる。
ぞくりとする俺の眼球に、黒髪を掻き上げたユディートの顔が映った。あの刻印のある右目が大きく見開かれ、紫色の聖印が虚空に烙印される。左目を閉じたユディートが不思議な言葉を口ずさみ始めた。
すると、宙に刻まれた死の聖印が、少しずつ荘重な紫色から熟した葡萄を思わせる赤紫へと、その色を移ろわす。同時に赤みを帯びた聖印はぐるぐると回り出し、紫色の円盤へと姿を変えた。ものすごい速度で回る紫の円は、そのまま土竜が地面を掘り進むように、空間を抉り抜き、いずこかへと消えていった。
虚空にぽっかりと空いた丸い穴を右目で見つめ、不敵に笑むユディートが声を張り上げた。
「さあ、みんな隊長を助けてあげて! 輪廻の環に乗って次の生へ振られる前に、あとほんのちょっとだけ。聖ユーデットひいひいひい……おばあさまの名において……!」
ユディートが何かに呼びかけている間にも、俺が載せられた天秤の腕は、じりじりと持ち上げられてゆく。その様子を、支柱の髑髏に留まった魔獣アメットが、じっと注視している。
そうして天秤が振り切れるまで、角度にしてあと二、三度。ほんのわずかに傾きが増せば、俺の最期というところまで追いつめられた、その時だった。
ユディートの歓喜の声が響いた。
「やっぱり来てくれた! 信じてたよ」
俺が眼球を下へと動かすと、虚空に空いた穴から、次々と何か丸いものが飛び出してくる。鶏卵ほどの大きさをした、赤紫の光の玉。鬼火のようだ。
その夥しい数の鬼火に照らされて、辺りはできたばかりのワインの色に染まってくる。ユディートが呼び出した赤紫の鬼火たちは、幾つかの集団に分かれ、きちんと虚空に整列する。
一つの鬼火の前に、二列に並んだ光の玉。そんな鬼火の編隊が、虚空に幾つも揺らめいている。総勢、ざっと百ばかりだろうか。
その並び方、それにその数を見るなり、俺の脳裏に閃光が走った。眼球まで、熱くじわりと潤んでくる。
あの整列の仕方、忘れるはずもない。俺のケルヌンノスの、山岳猟兵隊だ……!
ユディートの力強い声が、俺の魂を芯から揺さぶる。
「ねえ、あたしが教えてあげたこと、覚えてる? トバルくん。マルーグ峠で死んだキミの百人の仲間は、誰もキミを恨んでいなかったって。ただの一人も、ね」
彼女が煌めく右目でアメットを仰いだ。最高の笑みを湛え、胸を張ったユディートが堂々と述べ立てる。
「さあ、アメット。今からトバルくんの死んだ仲間たちに、証明してもらうから! トバルくんは、もう赦されてるってことを!」
ユディートの言葉を合図にしたように、赤紫の鬼火たちが、一斉に俺に向かって群がってきた。頭だけの俺を中心に、百個の鬼火が押し合い圧し合いしながら、皿の上に乗っかってくる。そして一丸となった鬼火たちは、天秤の腕を下へ下へとぐいぐいと全力で押し返す。
かつてケルヌンノスの山岳猟兵だった百人。
俺の不甲斐なさが、彼らの全てを戦死へと陥れた。だが死霊となったその彼らが、俺の窮地に文字どおり飛んできてくれたのだ。俺の窮地を救うために。
ああ、身を寄せあい、庇い合うこの感じ、余りに懐かしい。肩を組み、頬をすり合わせ、勝利には共に喜び、窮地には励まし合った、俺たちケルヌンノスの山岳猟兵隊。
俺を囲む百個の鬼火に、顔はない。だがその鬼火が誰の魂なのか、俺にはその全員が手に取るように分かる。あの猛者たちも、若くして散ったタダイさえも。俺の猟兵たちは、誰一人欠けることなく、ここにいる。
彼らへの感謝と悔悟の想いが、涙となって俺の目からとめどなく溢れてくる。俺が言葉に尽くせない感嘆に浸る間にも、猟兵たちの霊魂は天秤を押し戻してゆく。ものの数秒もしないうちに、天秤の左右の腕は均衡を取り戻した。
だがそれだけでは終わらない。山岳猟兵たちの霊魂は、文字どおりの百人力で天秤を押し続け、今度は羊水のグラスが上昇へと転じてゆく。骨で作られた天秤の腕も、鬼火たちの余りの勢いに、みしみしと悲鳴を上げる。
「何をしているの!? だらしのない!!」
パペッタの金切り声が俺たちの耳を
「もっと霊力を……っ!! 何のためにケルヌンノスの灰燼から、あなたたちを掻き集めて……!!」
だがその半狂乱の叫びを打ち消したのは、ぱきっぱきっという、極限まで
「あっ!!」
ローブに包まれた身を強張らせ、棒立ちになるばかりのパペッタ。女屍師のガラスの両目の前で、俺を載せた天秤の腕が、支柱からばきばきと崩れ落ちた。
俺の載せられた皿は床へと叩きつけられ、粉々の骨片と四散する。
片方の腕を失った因業の天秤は、疲れ切った片腕の踊り子のように、ぐらりぐらりと回ったかと思うと、ずしん、と床へと倒れ去った。投げ出された羊水のグラスも、硬質な響きとともに、ぱりんと砕け散る。
審判の空間は、そこで深い静寂に包まれた。
胸を張って凛と佇む、右目を隠した聖騎士ユディート。
彼女の横で豹のように座る、古代の魔物アメット。
そして宙を漂う鬼火たち。
その全てが、呆然と立ち尽くすパペッタを見つめている。
静まり返った審判の空間に、ふぁさっ、とかすかな音が去来した。無数の骨片に戻った天秤を前に、がくりと膝を付いた女屍師のローブの衣擦れだ。
腕組みのユディートが、座り込んで肩を震わせるパペッタに左の視線を注ぐ。
「もういいよね? トバルくんの贖罪は、ここに成就した、ってことで」
黒い瞳をうずくまるパペッタへと向けたまま、ユディートは魔獣にも問う。
「異論はあるかなあ? アメットも」
そのアメットが、ワニの顔に光る金色の眼を、床の上の俺に向けてきた。
獰猛で、貪欲に映る、魔獣アメットの相貌。だがその縦長の蛇に似た瞳孔は、どこか柔和に笑って見える。ぐぁるるふ、そんな吠え声を上げた魔獣が、俺を見つめたまま、頭を何度も上下させる。
俺は、赦されたのか? 贖罪は、本当に成ったのだろうか……。
希望よりも不安の勝る俺の周りに、山岳猟兵たちの鬼火がわらわらと集まってきた。当然のことながら、彼らからも俺からも、言葉はひと欠けたりとも出てはこない。
だがお互いに分かるのだ。俺の感謝と詫びる気持ち。同時に彼らが俺を懐かしみ、憐れむ想いが。
俺を取り囲む赤紫の鬼火たちが、だんだんと色あせてきた。照度も下がり、炭火の色に近くなってくる。元いた場所、樹上の世界へ還る時間が来たのだろう。
……ああ、彼らはまた去ってしまうのだ。俺独りを、この地上に置き去りにして。
だが、もう俺には延ばす手もない。それに、やはりこれ以上、彼らに重荷を背負わせてはならないのだ。
這い寄る孤独感と淋しさに苛まれる俺の周囲で、百の鬼火は一つ、また一つと消えてゆく。
誰が樹上へ還ったのか、その名前と顔を、俺は奥歯に噛み締める。やがて最後に一つ残った小さな鬼火が、俺の額にぽふっと触れた。
血気盛んなまま、自分の裏切りを正面から抱き留めて、峠の戦場に散った少年猟兵タダイ。だがその鬼火も、虚空に融け入るようにして消えていった。
計り知れない空虚さと、音の闇。
あらゆるものが止まったかのような審判の空間に、雫が水面を打つようなユディートの声が、密やかに響く。
「これでもう幕にしようよ。トバルくんの百人の仲間の魂も、審判者アメットも、トバルくんの贖罪は終わったと認めて……」
「いいえ」
女屍師の一言が、ユディートの言葉を遮った。聖騎士と魔獣に背中を向けたまま、パペッタがゆらりと立ち上がる。
「たとえ誰が認めても、私は認めない。認めるものですか……!!」
パペッタの肩ごしに滲み出してくる、千尋の憎悪が籠った黒々したと言葉。俺の頭全体が、かつてないほどの恐怖に戦慄く。
床に転がった俺の目に、右手を高々と挙げたパペッタの姿が映った。同時に、因業の天秤だった無数の骨のかけらが、もぞもぞと動き出す。
殺意と憎しみ、第零局の奴らとは比較にならないほど、圧倒的な質量と熱量を感じる。
俺はさらに気付いた。あの第零局の魔術師どもからは、微塵も感じなかった、押し殺した感情に。圧し出してくる剥き出しの激憤の後ろに、女屍師は何かを抱えている。
この女は、ローブに包まれた身の内に、一体何を……?
我を忘れて思い巡らせる俺の十歩先に、白い影がぬっと立ち上がった。
そう見えた次の瞬間、しゅばっ、と空気の切断される音と振動が、この奇妙な空間を駆け抜けた。
ハッと我に還った俺の方へ、白銀の光刃が風を切り巻いて迫ってくる。逆さに突き立てられた輝くサーベルの刀身が、氷上を一直線に滑ってくるように。
まずい……! 本気で俺を斬り捨てようとしている……!