三.戦禍の記憶 六
文字数 4,847文字
エノスは、何を言いたいのだろうか?
疑念と不安を募らせるばかりの俺に、彼が抑揚のない口調で語ってくる。
「一時的に、計画大隊に編入されたケルヌンノスの第三中隊は、山岳猟兵が百人。連中に期待されたのは、マルーグ城砦周辺の案内だ。どいつもこいつも、ケルヌンノスで生まれ育った土着の住人だからよ」
エノスの視線が、俺を掠めるように一瞥した。
「もしあんたが第三小隊の面子なら、あんたも含めてな……」
俺の意識がぴくりと反応する。
だが俺の機先を制するように、エノスが吐息を被せてきた。
「……とにかくだ。マルーグ城砦の陥落を目的とした計画大隊は、全然性質の違う三つの中隊を寄せ集めて、マノ大尉が大隊長として統率する形で編制されたわけでよ」
恐らくは、わざとだろう。
第三小隊のことにはこれ以上触れずに、エノスは先を続ける。
「計画大隊は、二週間ばかりだったか、ケルヌンノスの街に駐屯した。その間、大隊の兵站を工面した商会が、アンフォラって野郎のところでな。まあそんなわけで、あの野郎とは顔見知りってわけだ。まあそいつは、今はどうでもいい」
皮肉っぽく肩をすくめ、エノスがふふん、と鼻で笑った。
が、その顔は瞬時に険しい軍人のものに豹変する。
「計画実行の時期が来て、俺たちは進軍を開始した。標的のマルーグ城砦は、峠の頂上にある、高く切り立った難攻不落の砦だ。おまけに山林の真っただ中にあるから、外から切り崩すのは難しい。だが俺たちには、マルーグ城砦に常駐する三百の兵士のうち、五十人が毎月一回、交代することが分かっていた」
俺はぴきぴきとうなずいた。エノスの話の先が、読めたからだ。
「成リ、済マシタ、カ……?」
「あんた、見かけによらず察しがいいな。そのとおりだ」
エノスの口元だけに笑いが浮かんだ。しかしその笑顔の端切れもすぐに消え失せ、この元軍人は張り詰めた口調で続ける。
「六百人ぽっちの大隊なんざ、攻城ができる規模じゃねえ。大軍が展開できねえ山林じゃあ、なおのことだ。だからマルーグ城砦へ交代に来る五十人を、城砦から離れた山中で殲滅して大隊の五十人と入れ替える。そうしてマルーグ城砦に入り込んだら、城門を開いて攻め入った大隊の本体と一緒に、城砦を制圧する。それがマノ参謀の書いた筋書きだった」
刹那の沈黙を容れて、エノスが天を仰いだ。血の気のない、ひび割れた唇が微かに震えている。
「しかし作戦は失敗した。山中の小道で、俺たちは確かに移動中の交代要員五十人を包囲した。だが包囲したはずの俺たちが、逆に包囲されていてな……」
エノスがうなだれる。
「いつの間にか、俺たちはアープの山岳猟兵に囲まれていたのさ。外側からの散発的な攻撃で攪乱されたところで、包囲したはずの交代要員に切り崩されて、計画大隊は総崩れだ。そこへマルーグ城砦からの増援も加わってよう……」
落とした肩を震わせて、エノスが血の呻きを洩らす。
「俺たち西方の兵士は、戦慣れはしてたつもりだ。でもよ、あんな凄惨な戦いは、経験したことがねえ……」
俺の腐れた脳の中に、いつか見た戦場の光景が再び蘇る。
紅蓮の炎に包まれた木立の只中で、剣にすがって体を支える、傷尽き果てた兵士たち。
息も絶え絶えの彼らに容赦なく浴びせられる、鋭く空を突っ切る無数の石矢。
あっと言う間もなく、幾人もの兵士が全身を太い矢に射抜かれて、ハリネズミのような姿で死体に換わる。
戦斧を翳した兵士が、突き刺さる矢も構わずに、石弓を構える敵兵の中へと突進してゆく。
その黒鉄の鉞が、血飛沫とともに敵兵の首を立て続けに斬り飛ばす。
そしてその戦斧の兵士も、敵兵の命と引き換えに心臓を貫かれ、血の海の中に倒れ伏す。
敵も味方もない。
そこにあるのは、すでに死んだ兵士と、これから死んでゆく兵士だけだった。
血生臭く、恐ろしさよりもやり場のない哀しみに満ちた俺の幻視は、エノスの沈み切った言葉によって、揺らめくように掻き消えた。
「……ああ、そうだ。あの計画は失敗した。計画大隊は俺と、ほんの何人かを残して、ほとんど全員死に絶えた。マノ大隊長も含めて、な。アープ側も、マルーグ峠の交戦に加わった兵士は、ほぼ全滅だ」
現実に引き戻された俺は、動揺を抑えきれないままに、エノスに掠れた問いを投げた。
「何故、失敗シタ……?」
「『何故』、だと?」
エノスの鋭い横目が、俺を捉えた。そして問い返した彼の唇が、ゆっくりと答えを綴る。
「それはな、計画大隊の中に、内通者がいたからだ。マルーグ城砦とアープ側に通じた、裏切り者が、な……」
岩を穿つ涌水のように冷たく、そして精神の内奥まで沁み込む、エノスの声。
俺の腐った体が、びくびくと戦慄く。
「『裏、切リ、者』……」
彼の核心の一言を繰り返すより他に、俺には何もできない。
半ば開いた口を閉じられもしない俺から、エノスがふと目を逸らした。霧を思わせるほどにじっとりと湿ったため息をついて、彼が言葉をつなぐ。
「……もともと、あのケルヌンノスの辺りは、昔から近隣のアープ集落とは仲が良くてな。行き来も商売も、人付き合いだって、かなり親密だったらしくてよう」
ははっ、と苦笑めいた息をエノスが洩らした。彼のいかつい両肩が、ゆっくりと上下する。
「地元のケルヌンノスの住人に言わせりゃあ、あのマルーグ城砦だって、ルカニアのものでもアープのものでも、どっちでも影響はない、そんな土地だったのさ……」
腕を組んだエノスの目が、どこか虚空を探っている。
「だからあのマルーグ峠で俺たちが逆包囲されたとき、俺たちは計画の漏洩を確信はした。だがな、誰がいつ、どうやって洩らしたのか、さっぱり分からん。……いや、そうじゃねえな。その言い方は正しくねえ」
彼の鳶色の憂鬱な視線が、再び俺を捉えた。
「心当たりが多過ぎて、見当が付かねえんだ……。誰が、このマルーグ城砦陥落計画をアープ側に漏らしたのか、な。ケルヌンノスの住人なら、誰が洩らしたっておかしくねえのさ」
エノスの言うことは、確かにうなずける。
ずっと昔からうまく付き合ってきたケルヌンノスの地と、アープの村々。
そこへいきなり見も知らない軍隊が乗り込んできて、友好的な相手に侵攻する、などということになれば、国軍とはいえ反感を抱かれて当然だろう。もしかしたら、マルーグ城砦を守ろうとさえしたのかも知れない。
俺に掴みかかったエノスが吠えた『地元を無視したバカな作戦』とは、つまりこういうことだったのか……。
確かに、そんな土地柄の城砦を落とそうと考えた時点で、参謀の作戦はすでに失敗が約束されていたのも同然だろう。
エノスの抱いた想いは正しい。
「だがよう……」
俺を注視するエノスの両目が、すうっと細められる。詰問の意志を込めつつも、非難や憎悪の念は何故か薄い。
「俺自身は、計画をアープに売ったのは、第三中隊の誰かだと思ってる。大隊の中にいなけりゃ、軍略の細かいことは分からねえからな」
と、そこでエノスの表情が緩んだ。皮肉めいた調子で両手を広げ、妙に乾いた笑い声を立てる。
「まあ、そいつを確かめようにも、第三中隊の連中もほとんど全員戦死しちまったからな。事情を知ってるとすりゃあ、カルヴァリオの野郎くらいだろうが、もう確かめようがねえ……」
俺の視界に、不意に閃光が走った。
「『カル、ヴァリ、オ』……?』
俺の腐敗した舌と、枯れた呼気が勝手に綴った問いを聞き、エノスが浅くうなずく。
「ああ。ケルヌンノスにいた山岳猟兵隊の隊長だった奴でよ、例のマノ大隊では第三中隊長だった。すまねえが、奴(やっこ)さんの姓名(フルネーム)は忘れちまった。付き合いが薄くてよ」
テーブルナイフのように、『カルヴァリオ』の名前が、俺のぐすぐすの脳漿にさくっと突き刺さる。
何とも言えない、むずついた感覚を心の内側に感じつつ、俺はエノスに問う。
「ソイツ、ハ、ドウ、ナッ、タ……?」
だが、エノスの答えは極めてぞんざいで、投げやりだった。
「知らん」
「何故ダ……?」
エノスが俺を無感情に凝視する。
「死体が見つかってねえからだ」
間髪を容れずに言い放ったエノス。その口調には、もう感情的な色合いは全くない。
彼の知る事実だけが、淡々と語られている。
「何とかって名前の軍医、確かハーネマンとか云ったか。その軍医たちがマルーグ峠の交戦の直後に戦場を検視してな。死にかけの俺と二、三人の重傷者、それに千人近い死体を数えたとよ。ルカニア側は、死んだマノ大隊長も含めてほぼほぼ全員が見つかったが、カルヴァリオの野郎は、最後まで確認できなかったそうだ」
エノスが自嘲気味に肩をすくめた。
「まあ生き残っても、いいことなんざ、何もなかったがな……」
「何故、ダ……?」
この元軍人の表情が、切なげに歪む。
「一応はハーネマン軍医に治療はしてもらったが、その後がいけねえ。ミロまで引っ立てられて、ああでもねえこうでもねえと、参謀自ら直々の尋問が何日も続いてよ。まあ息子を戦死させたんだ。気持ちは分からなくはねえが、結局俺は恩給もなく除隊にされちまってよう……」
ぐすりと鼻を鳴らしたエノス。その脱力した肩の線が、今までの彼の苦労を物語るようだ。
被さった蜘蛛の巣でも払うかのように、エノスがゆるく頭を振った。小さく息をついて、彼がぽつりと洩らす。
「カルヴァリオの野郎も、まあ生きてねえ方が幸せかも知れねえな……」
そこでエノスがもう一つ吐息を置いた。俺を正視して、はっきりと告げる。
「さ、これで俺の知ってることは全部話したぜ。これも“戦友”のよしみだ」
俺が最後に問おうとした気配を察したのか、エノスが左手を軽く振った。
「カルヴァリオの野郎のことが知りたいんなら、ケルヌンノス出身の奴に聞いてみな。マイスタでもアンフォラの野郎でも、誰でもいいからよ。一人くらいは知ってるんじゃねえか?」
一方的にそう言って、エノスがもう一度俺に敬礼した。
「もうこれ以上のことは俺は知らんし、誰かに話すこともねえだろうよ。あんたと会うことももうあるまいがよ、まあ達者でな」
敬礼を解き、小部屋の扉に手を掛けたエノスだったが、ふと振り向いた。
「ああ、そうだ。一つ忠告しといてやる。“戦友”のよしみだ」
無関心そうな様子ながら、エノスが俺に鳶色の目を向けてくる。
「この花街で、動いてる死体を探し回ってる連中がいるらしいぜ。噂じゃあ、そいつらは“
彼の視線が、俺の顔と床に転がった左腕とを見比べる。
「連中、『死体を動かすのは邪術だから、関わる者は捨て置けない』とか言ってるらしいがよ。まあせいぜい気を付けな。あんた、腐った死体に似過ぎてるからよ」
俺は胸の内側に苦笑を洩らした。一応、俺を生きた人間だと、最後まで思ってくれてはいたようだ。
俺も固まった右腕をぎちぎちと鳴らし、敬礼らしきポーズを取ってみる。
「アリ、ガ、トウ……。元気デ……」
死体の俺が『元気で』、などと生きた相手に言うのも皮肉な話だ。それでもエノスの表情は、ここへ来た時よりは幾らかさっぱりしたように映る。
「ああ。じゃあな」
軽くうなずいた元軍人エノスは、木の義足をこつんこつんと鳴らしながら、俺の小部屋を去っていった。