二.花街の少女 十一
文字数 4,804文字
……ここまで、まるで俺などいないかのように振る舞っていた、少女エステル。だが俺の引き摺る足音が耳に障ったのか、いきなり俺へと向き直った。
その翡翠の視線は固く疑り深げだが、敵意までには至っていないようだ。十代少女にありがちな人見知り、程度かも知れない。
しかし俺は気が付いた。
エステルの視線と俺の視線は、まだ一度も合っていない。彼女の顔は確かに俺を見ているが、その瞳は俺を捉えきれていないように思える。
訝る俺に構わず、ユディートがエステルに素っ気なく教える。
「紹介が遅れちゃったね。そのひとはマノくん。酷い怪我人で、今ハーネマンさんのところから戻ったところ。昨日から白鷺庵にいるんだけど、マイスタさんから聞いてない?」
するとエステルも口に両手をあて、うふふ、と笑った。いかにも少女っぽい、含みのない笑いだ。仕草もどこか品があって、不思議な育ちの良さを感じさせる。
「ええ。マイスタさんから聞いています。かなりひどいお怪我だと聞いていますけど……、大丈夫ですか?」
初めてエステルが、俺と目を合わせた。しかし、静かな笑みを絶やさないエステルに、俺の面相を怖がったりする様子は全く見えない。
「ダ、大丈夫……。アリ、ガトウ……」
あの世からの木枯らしのような俺の声を聞いてさえ、エステルは動じない。それどころか、たおやかな眉を歪めて、俺を気遣う。
「あっ、凄い声……! 本当に、全身酷い怪我なんですね。やけどでもしたんですか? ええと、マノさん、でしたよね?」
エステルの翡翠の瞳に、心配そうな陰が差す。
包帯を巻かれた死体の俺を見ても、感情が動かないとは。逆に俺の方が、おかしな不安を覚えてくる。
怖じ気付きかけた俺の横に、ユディートがススッと寄ってきた。その顔には、おかしそうな、それでいてどこか悲しげな表情が浮かぶ。
この女聖騎士は、数歩先に立つエステルを見ながら、そっと聞いた。
「ねえ、エステル。話しちゃってもいい? マノくんに」
何を意図した問いなのか、俺には見当も付かない。だが、エステルは達観したような、どこか大人びた微笑を口元に留め、こくりとうなずく。
「ええ。わたしは大丈夫。気にしないから……」
エステルの何かを、俺に話そうというのだろうか?
本当にユディートが何か言いかけた時、玄関の扉がコンコンコンと鳴った。
一斉に、皆の顔が玄関へと向く。だがユディートもエステルも、対応に動こうとはしない。
すぐにもう一度、コンコンコンと扉の外でノッカーが叩かれた。俺はユディートに眼球を向ける。
「イイ、ノカ……?」
「あれはマイスタさんでもハーネマンさんでもないから、ほっとけばいいよ」
ユディートが涼しい顔でうそぶくと、エステルもうなずく。
「マイスタさんがお留守の時、知らない鳴り方で玄関がノックされたら、無視するように言われていて」
「誰、カラ……?」
「マイスタさんご自身から」
マイスタは、このエステルという娘を守ろうとしているようだ。理由は分からないが、やはり娼婦とは違うのだろうか。
そこまで考えた時、また玄関扉のノッカーが鳴らされた。
今度はガツンガツンと力強く二回鳴ったかと思うと、さらにもう一回ガツンと締めた。
この変わった鳴らし方を聞き、ユディートが足早に玄関口へと向かう。そして彼女が扉を開けた途端、聞き覚えのある老人の声が明るく響いた。
「ああー、お帰り、ユディートちゃん。わしの代わりを押し付けて、済まんかったねー」
いかにも済まなさそうな、明るく人好きのする声。マイスタだ。
玄関の内側に入ったマイスタに、ユディートがにっこりと笑って答える。
「マイスタさんもお帰りなさい。あたしなら、ちょうどハーネマンさんに会わなきゃいけないところだったから。気にしないで」
「本当、悪かったねえ」
重ねて詫びを入れ、頭を掻くマイスタ。そんな老人に、エステルがいたわりの笑みを湛え、深く頭を下げた。
「お帰りなさい、マイスタさん。他のお店のお手伝い、お疲れさまでした」
「いやいや、お嬢さまにもご不便をお掛けして、申し訳なかったです」
『お嬢さま』。マイスタの一言が、俺の耳に引っかかった。
そういえば昨夜も、そんな言葉を聞いた気がする。やはりこのエステルは、どこか良家の娘だったのだろうか。それがこんな娼館街に住むとは、何かよほどのことがあったのに違いない。
だが俺の腐った脳の回転は、マイスタの声に止められた。
「それで、お加減はどうじゃね?」
老人マイスタが、俺に顔を向けてきた。
その目には、今朝と変わらない深い気遣いの色が浮かぶ。
「ええと、ああ、そう言えば、まだお名前を聞いておらなんだかー……」
どこか決まり悪そうなマイスタに、口を両手で覆ったエステルがくすりと笑う。
「マノさん、です、マイスタさん」
その瞬間、マイスタの目の奥に陰が走った。人懐っこい表情それ自体に変化はない。
だがこの老人のまなこに垣間見えたのは、確かに警戒と不審の欠片だ。
しかしマイスタは、何気ない笑顔で俺に問う。
「ところで、あんたはどこから来なさったねー? マノさん」
今の俺には答えられない質問だ。返せる言葉は一つしかない。
「分カラ、ナイ……」
「思い出せないのよ、マノくんは」
脇から助け船を出してくれたのは、ユディートだった。
彼女は切れ長の左目に真摯な思いを映し、マイスタを見つめる。
「記憶喪失、っていうのかな? その辺のことも合わせて、ハーネマンさんから『診断書』をもらってきたから。ちょっと話せる? マイスタさん」
そうして、俺たちはサロンのソファーに分かれて座った。
女医ハーネマンの診断書を手に話し込む、ユディートとマイスタ。
何となくローテーブルを挟んだ、俺とエステル。
俺の“病状”について話すユディートとマイスタは、いろいろと質疑を重ねている。
世話好きな二人に対して、俺とエステルは言葉も交わさないまま、お互いの顔を見合わせるばかりだ。
俺は瞬きのできない目をエステルに注ぐ。
そのエステルも、穏やかで品のいい笑みを湛えたまま、俺を見ている。だがその視線はどこか曖昧だ。
可憐な少女と意味もなく見つめ合う、などというのはもう俺の記憶には欠片もない、彼方のお話だ。だがそれにしても、この俺の顔をじっと見ていて、エステルは気色悪くならないのか……?
俺の方が耐えられず、掠れた問いをエステルに送る。
「怖ク、ナイ、ノカ……?」
「何がですか?」
小首を傾げて聞き返すエステル。その翡翠の目は、終始俺に向けられている。
「俺ノ、顔ガ……」
「ああ……」
エステルが両手で口元を覆い、くすっと笑った。やはり嫌みのない、十代少女の透明な笑いだ。
「マノさんがどんなお顔でも、わたしは気になりません。気にしても、意味のないことですから」
妙な言い方をされ、俺は首をひねる。俺の疑問が伝わったのか、エステルが寂しそうな笑顔のまま、はっきりとこう言った。
「わたしは、目が見えませんから」
エステルの告白は、やはり俺には衝撃だった。
だが思い返してみると、俺の見た目よりも足音に反応したこと、それに焦点を合わせようとしていなかったことは、この少女の盲目を暗示していたのだろう。
盲目の少女エステル。今マイスタは、この目の見えない少女を保護しているのだ。恐らくは聖騎士ユディートと、女医ハーネマンも。
くきくきと頸椎を鳴らして独りうなずく俺に、エステルが絶えない笑みで聞いてきた。
「マノさん、今日は朝からリベカ先生のところに行っていたんですよね? リベカ先生、お元気でしたか?」
「リベカ、先生……?」
「ハーネマン先生のお名前です。“ハーネマン”は、先生のご主人の姓だそうですから。“リベカ=ヴィラフランカ=ハーネマン”が、先生のお名前。ご主人とはヴィラフランカ大学の医学部で知り合った、って聞きました」
続けてエステルが心配そうに俺に聞く。
「マノさん、首がかなり凝ってるみたい。一度リベカ先生に診てもらったら、楽になるかも」
なるほど、俺の首の骨が鳴るのが、エステルには聞こえたのか。さすが、聴覚はかなり鋭い。
俺も、ふとエステルにたどたどしく聞いてみる。
「旦那、ハ……?」
「詳しいことは聞いていないですが、軍医とかで、王都の軍隊に招かれたそうです。でもリベカ先生は、ご主人の願いを振り切って、この街に残ったって」
何気ないエステルの答えを聞き、俺はまたぴきぴきとうなずく。
……なるほど。
腕のいい軍医ハーネマンは、中央に招かれたのだろう。だが女医ハーネマンつまりリベカは、独りでこの花街に残ったのだ。
理由は分かり切っている。この花街の娼婦たちを守るためだ。
二人の間にどんなやり取りがあったのか、知る由はない。だが女医は、旦那よりもこの花街を取ったということだ。エステルや娼婦たち、それにユディートとマイスタが暮らす、この花街を。
俺の胸郭が、何かぐうっと締め付けられる。何とも言いようのない、熱く苦しい感覚だが、強いてこの感情に名前を付けるなら、恐らくは“尊敬”、だろう。
そんなことを考えた俺の耳に、ユディートの声が聞こえた。
「そういう訳なの。このマノくんは、アリオストポリに行く途中。今はまだ国境が封鎖されてるけれど、封鎖が解けたらすぐにこのルディアを出るから。それまでお世話をお願いしちゃっても大丈夫?」
「あー、それは別に構わんよー」
マイスタが、快くうなずいてくれた。
つい今しがたの疑念の影は鳴りを潜め、この老人はこれまでと同じ鷹揚なで寛大な笑顔を見せる。
「噂じゃあ、あと十日程度で国境が一度開くらしいでねー」
「ありがとう、マイスタさん。助かるわ」
ユディートも、心からの安堵が漂う笑みを見せている。
「本当はあたしの聖廟か、ハーネマンさんの診療所で預かるのがいいのかも知れないけれど……」
「乗りかかった船だからねー。わしが出立まで、マノさんの面倒を見るよ」
どこか苦笑めいた息を洩らしたマイスタ。この善人そのものの老人には、頭が下がるばかりだ。
ついうなだれた俺に、ユディートがにんまりとした左の視線を寄越してくる。いつもの空恐ろしい笑顔だ。
「マノくんは、食事も睡眠も、マイスタさんがお世話しなくも大丈夫。たまにちゃんと動いてるか見てもらえたら、それでいいから。雨風を避けられるところに、適当に転がしといて」
死体の俺は、確かに食べ物も寝床も必要としない。が、それにしても相変わらず酷い口だ。
もう少しましな言い方はないものか……。
そう思った瞬間に、彼女の左目がぎんと光った。
慌てて眼球を背けつつ、俺はぎこちなくマントの下に手を入れた。中から取り出したのは、紐でぐるぐると巻かれた小さな布の袋だ。
関節の緩んだ指を無理やりに動かし、俺はテーブルの上に袋の中身をぶちまけた。
ちゃりんちゃりん、と金属音が耳を衝き、天板に幾枚もの貨幣が転がった。銀貨が十枚に、銅貨が十枚。概ね、十日分の食費にはなる。もっとも、これはあの辻強盗から逆に失敬したものだが……。
「世話ニ、ナル……」
俺の掠れた言葉を聞いたマイスタ、ユディート、それにお金の音にぴくんと反応したエステルまでお互いに顔を見合わせた。
そして三秒の沈黙を入れた次の瞬間、マイスタとユディートが腹を抱えて笑い出した。