三.戦禍の記憶 八
文字数 4,047文字
商人カイファの奇妙な言葉が、俺の緊張を一層煽り立てる。同時に腐敗の進む脳の中に、何か涼風が吹き込むような、おかしな感覚が広がってくる。
落ちそうな顎をしっかりと引き締めて、俺はカイファの語る話に意識を集中する。
「僕が聞く限り、トバル=ルッカヌス=カルヴァリオ隊長は、生まれも育ちケルヌンノスの街だそうです。隊長の家は、ケルヌンノス駐屯の山岳猟兵を務めた家柄だとか。もっとも、ケルヌンノスの山岳猟兵隊は、先祖代々で務める家も珍しくなくて。その意味で、一応は国軍の一部隊でも、内実は土着の勢力に近いとされていました」
一度言葉を切ったカイファだったが、彼はすぐに話を続ける。
「カルヴァリオ隊長は、元々の土地の人でした。それに、何があっても動じず寛容で、それでいて豪胆な人柄は、隊長の束ねる山岳猟兵隊でも、絶大な人気がありました。もちろん街の人々、男はもちろん、女性にも」
そこでカイファが、ふふっ、と好意的に笑った。
「言い寄る女性もたくさんいたみたいですが、隊長は身を固めようとはしませんでした。僕が知る限り、隊長は最後まで独り身だったはずです」
「何故、ダ……?」
俺が聞くと、どこか寂しげな空気が、カイファの静かな笑みにまとわりつく。
「あるとき、隊長は言い寄る女性に言ったそうです。自分は生粋の軍人だから、いつ死んでもおかしくない。俺が死んで泣く者は、一人でも少ない方がいいって」
カイファが眼鏡の奥で目を伏せた。懐かしげな、思慕と尊敬に満ちた笑みが、賢そうな口元に浮かぶ。
「そんな隊長ですから、部下たちからの信望も篤く、ケルヌンノスの山岳猟兵隊の結束は岩よりも鋼鉄よりも固い、そんな風に噂されていました。ケルヌンノスの街も、山岳猟兵隊に守られて、平穏な日々を送っていたのに……」
カイファが深い吐息を吐き出した。苦悩と悲しみ、それにわずかな憤りの色が浮かぶ、濁った息だ。
「ある日突然、ケルヌンノスの街に乗り込んできたんです。彼らが……」
「『彼、ラ』……。 中央、国軍、カ……」
カイファの呻きをなぞった俺に、この青年は顔を伏せたまま、力なくうなずく。
「ええ。マノ大尉が率いる中隊が二つ。いきなりこのケルヌンノスに駐屯すると言って。マルーグ峠の城砦を攻めるために」
深い苦悩の覗く吐息を洩らし、カイファがわずかに顔を上げた。だがその暗い眼差しは、どこか低みに注がれている。
「ケルヌンノスの辺りは、隣り合うアープの村々とは昔から親類同士に近い付き合いがありました。特にこの百年ばかりはアープとの小競り合いもなく、お互いに行き来も盛んで、ケルヌンノスにはアープ人が常にいたし、アープにもケルヌンノスの住人が足繁く通っていたんです」
……なるほど、彼が語るケルヌンノスの状況は、元軍人エノスの話と一致しているようだ。
かくかくとうなずく俺を見ないまま、カイファが幾度目かのため息をついた。ここまでよりもさらに重苦しい口ぶりで、彼が切々と続ける。
「僕が会頭から預かった店が、ケルヌンノスにあって」
「『会頭』……? ミザール商会ノ、カ……?」
何となく引っかかった俺が、わざと話の腰を折った。するとカイファは、どこか気恥ずかしげな視線を俺にちらりと寄越す。
「ええと、ミザール商会の会頭は、僕の父です。僕は三番目の息子なので跡は継ぎませんが、商流を幾つか預かっていて、マイリンク会頭とも、よく一緒に仕事をさせて頂きました」
思っていたとおりだ。
端々に覗く彼の才覚と育ちの良さを、しっかりと裏付ける話ではある。恐らくはその頃からマイリンク家には出入りしていて、エステルともすでに恋仲だったのだろう。
だがカイファの若々しい笑みは、すぐに黒々とした悲しみに塗り込められた。
「ケルヌンノスのその店にも、アープから住み込みで働きに来ている女の子がいました。純朴で真面目な働き者の彼女は、僕たちにとっては頼れる存在だったのですが……」
そこで言葉を詰まらせたカイファ。うなだれた彼の息まで、不規則になっているようだ。言おうか言うまいか、迷いに迷っているのが、手に取るように分かる。
そういうところは、この傑物カイファもやはり多感な若者なのだと実感する。
俺は彼に声を掛けてみた。
「大丈夫、カ……?」
「あ、はい……。大丈夫です。ありがとうございます」
カイファが身を起こした。決まり悪そうに自嘲的な苦笑を洩らす様子は、やはり若々しい。
「済みません。取り乱してしまって……」
「気ニ、スル、ナ……」
そう言い添えた俺の前で、カイファがスッと姿勢を正した。眼鏡越しの翡翠の目が、俺の化け物顔を正視する。
ふうっと息を整え、彼が慎重に選んだ言葉を少しずつ繋いでゆく。
「……そのアープの女の子は、しばらくして、山岳猟兵の少年と恋仲になりました。血気盛んで、一途な男の子と。彼は百人いる猟兵隊の中では、ほとんど最年少だったとか。傍目に見ても、微笑ましい、誰もが応援したくなる、そんな二人でしたが……」
凛とした姿勢を保ちつつも、カイファが哀しそうに目を伏せた。その重責に耐える若者の表情は、見ているこちらまで辛さが込み上げてくる。
「女の子の両親は、アープの村に住む農夫だったそうです。ですが彼女の兄は両親とは違い、アープの兵士でした」
俺の腐った首の後ろが、むずむずしてきた。この座りの悪さは、嫌な話の予兆だ。
俺が覚えた悪い予感を察したのか、カイファが重苦しく、鈍い仕草でわずかにうなずく。
「彼女の兄は、マルーグ峠に常駐する、守備隊の一員だったのです」
その瞬間、眼球の前に紫紺の雷光が閃いた。
俺の発酵し切った脳髄、萎びて固着した心臓、それにひび割れた肺の全てを電撃が疾駆し、俺の内側に悲劇の筋書きが組み上がる。
……そうだ。
ケルヌンノスの一番幼い山岳猟兵が、ミゲール商会に働く少女と恋に落ちた。
だがある日、国軍マノ大隊が、マルーグ峠の城砦を制圧するために、ケルヌンノスに現われた。ケルヌンノスの山岳猟兵も、その計画に加わらなくてはならない。
だがそのマルーグ城砦には、少女の兄がいるのだ。恋人の兄を殺すことなど、できるわけがない。しかし、これは戦なのだ。国の命令であって、拒否は許されない。
俺の厚ぼったく不潔な舌が勝手に蠢き、人の名前を虚空に綴る。
「“タダイ”、ト、“サーラ”、カ……」
「えっ!?」
カイファがハッと顔を上げた。
「あの二人の名前を知っているのは、もうほとんど誰もいないのに……!?」
彼の腰が、ソファーから浮いた。俺を凝視するその翡翠の目が、眼鏡の奥で丸く見開かれている。
「まさか、まさかあなたが……!?」
ただ俺を見つめるばかりのカイファの前で、俺はうつむいた。
心の奥底に、あの時の情景がありありと蘇ってくる。
……黄昏を背に、俺の目の前に立つ少年。
全ての装備を外し、丸腰で立つ少年タダイの眼差しには、一点の曇りもない。
ただ自分の行いに対する揺らがない決意と、どんなことでも受け容れる確固とした覚悟だけが、そのまなこに浮かぶ。
ミゲール商会の少女サーラに、マルーグ城砦陥落計画の内実を託した、山岳猟兵の一員タダイ。彼が己の所業を俺に告白したのは、計画実行の三日前のことだ。
タダイは、サーラと一緒にアープへ出奔することもできたはずだった。だがこの少年は、あえてそうはしなかった。
まだほんの十四、五だった彼だが、タダイはケルヌンノスの誇りある山岳猟兵隊の一員、それに何よりも“人”として、自分の“裏切り”を償うために、俺の前に立ったのだ。
俺はケルヌンノス山岳猟兵隊長、そしてマノ第三中隊長の名において、タダイを即座に処断しなければならなかった。そのうえで、敵方への計画の漏洩をマノ大隊長に報告し、進軍の中止を提言するべきだったのだ。
だが俺は、すでにこの時点で二つの過ちを犯していた。
一つは、タダイの処断を留保したことだ。
本来なら、敵方との内通者は発覚したその場で首を刎ね、見せしめに晒さねばならない。
しかしタダイは若過ぎた。その若さと純粋な恋心に幻惑された俺が、愚かだったのだ。
もう一つ、俺がマノ大尉を説得しきれなかったことが、俺の二つ目の過ちだった。
タダイの告白を受けた俺は、事情を伏せたままタダイの身を小隊長に預け、マノ大尉を訪ねた。タダイのことは隠し、マノ大尉には、どこからかマルーグ城砦陥落計画が洩れたこと、この計画は中止すべきことだけを進言した。
だがマノ大尉の答えは否だった。
理由は、何も行動を起こさずに撤退するなど、計画参謀が許さないこと。
またマルーグ城砦に常駐する兵は三百人と、計画大隊の半分以下に過ぎず、数の上ではこちらが有利だったこと。
さらには豪商マイリンク商会とのつながりができていて、兵站の心配をせずに攻城戦に持ち込むこともできること、だった。
しかしマノ大尉にとって、一番大きな理由は作戦参謀の存在だったのだろう。何しろ、このマルーグ城砦陥落計画を立案した参謀、ベロッソ=ルッカヌス=マノは、彼の父親だったのだから。
父親が自分のために立てた計画だ。すでに準備も整ってしまっている今、何もしないままおめおめとミロに帰ることは、自分のみならず、父である参謀の立場も危うくすることになる。
結局、俺はマノ大尉を引き留めることができないまま、計画は決行されたのだ。
幾つもの失敗の種を抱き込んで。