第9話

文字数 1,507文字


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 伊田さんと谷川くんが、手に持ったセミの抜け殻で戦っている。荷物を積み終えたぼくたちは、座長が出てくるのを楡の木の下で待っていた。

 閉め切った二階が気になって仕方がなかった。一階の稽古場から荷物を運び出す時も、階段の下から上の様子を伺ったが、玲菜ちゃんの泣き声すら聴こえてこなかった。
 伊田さんに言うと、
「ここには、一ヶ月ほど帰っていなかったんだ。貴衣さんとアレの最中だよ。野暮は言うな」
 軽くいなされた。

 しかし、以前に伊田さんからこんな話を聞かされたことがある。
 座長が夜中に眼を覚ますと、貴衣さんが枕元に立って、じっと見下ろしていた。その手に持った包丁を見た座長は、刺されても仕方ないかと眼を閉じてそのまま眠ってしまった。
「俺には無理だ。飛び起きて逃げ出してしまう」と伊田さんはいつになく真顔で言っていた。その出来事をもう忘れてしまったのかな。

 ふたりはセミの抜け殻の戦いに飽きたようだ。
「綺麗な娘が、焼酎の一升瓶を買いに来たんだよ。もんぺみたいな、変なの着てさ。後で作務衣(さむえ)だって教えてもらったけどね」
 谷川くんが伊田さんとため口で喋っている。
 きっと商売でこわもての人に慣れているからだろう。伊田さんもそれを気にしていない様子だ。
「スーパーの袋を両手に下げててさ、配達するついでに家まで送るよって言ったんだ。一升瓶、結構重いからさ」
「下心が丸見えだ」
「サービス、サービスよ。男が絶対いるって判っていたからね。あの腰つきでさ」
 伊田さんが、ニタッと笑った。
「綺麗な娘に、昼間から一升瓶下げて歩かすわけにはいかないよ。ババアだったら別だけどさ」
 ツッコミを入れるタイミングだけど、そんな余裕はない。
「一升瓶の容量は一.八リットルだな」
 伊田さんは、谷川くんに『一升の定義』の含蓄を披露し始めた。
「これは、明治二六年施行の『度量衡法(どりょうこうほう)』で『一寸』を『一/三三m』と定義。従って、厳密な一升の定義は六四八二七立方分の容量で、約一.八〇三八六リットル」

 ぼくが割って入った。
「二階でまずいことが起こっているんじゃないかと、心配なんです」
 そして、伊田さんに包丁のことを耳打ちした。
「お前、もっと早く言え!」
 突然、赤ちゃんの鳴き声がしたので、ぼくたちは腰を浮かした。
 玄関口まで走った。すると、稽古場の鏡の前に座長の姿が在った。ずっとそこにいたかのように座っていた。立ち上がると座長は、ゆっくりと首を回した。まるでビデオカメラで、眼に映る全ての映像を取り込もうとしているようだった。
「待たせたな」
  座長はいつものような笑顔を見せた。
  ぼくは、座長の細い目の奥が赤くなっているのに気が付いた。

「これを渡しておく」
 紙を一枚、伊田さんに手渡した。
 覗き込むと、座長の字で日時と場所が走り書きしてある。巡業の予定表のようだった。
「俺、行きませんから」
 伊田さんがはっきりした声で宣言して、予定表をぼくの手に押し込んだ。
 ぼくはびっくりして、伊田さんの顔を見つめた。座長が相談なしで行ってしまうから怒ってしまったのか、それとも……。
 いろんな理由が頭の中を走り回った。
「そうか」
 座長は驚いた様子もなく静かな声で言った。
 伊田さんが、自転車に立てかけたままになっていたぼくのギターケースを、荷台の人形の横に置いた。そして、ぼくの両肩を掴んで座長の前に押し出した。
「こいつを行かせます」
 ぼくは頭の中が真っ白になった。
 すぐに「行きます」と、言えなかった。
 黙ったままギターケースを見つめていた。

 座長と眼を合わすこともできない。
「来い」と座長が言ってくれたら、荷台に飛び乗っただろう。

 

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