第8話

文字数 1,229文字


 座長の家の一階は、六畳と四畳半の襖を取り外して稽古部屋として使われていた。六畳の壁一面には、頭から爪先までをゆうに映しだすことのできるほど大きな鏡が貼ってある。

 座長はこの鏡の前で踊り続けていたのだ。
 ここに泊まった深夜に、鏡に写し出された自分の姿を発見して驚いたことは何回もあった。

 ひばりヶ丘の座長の家は、いつでも玄関のドアが開いていた。

 あれは、ぼくが「どんど」に入ってから初めて迎えた正月のことだった。
 故郷を家出同然に飛び出して来たぼくは、帰省することが出来なかったし、その気も無かった。がらんとしたアパートに一人で寝転んでいると、急に寂しくなって部屋を飛び出した。帰省しないで、高円寺に残っていそうな友達の部屋を訪ねたけどみんな不在だった。

 思い立って座長の家に向かった。電話をして確かめることはしなかった。
 留守なら留守でいいと思った。 

 ひばりヶ丘駅に降りると、座長が通う喫茶店をガラス越しにチェックした。
 座長がいないことを確かめてから、駅前の商店街を通る。正月らしい華やかな飾りと賑やかな音楽がぼくを早足にさせる。すれ違う集団のふざけあう声や、家族連れの笑い声を聴くともういけない。
 世界から見放された様に感じて、ぼくは走り出していた。

 たったったっと足音を立てて街灯の下を走るぼくの影さえも、寂しさを増幅した。
 小さな橋を渡って角を曲がれば座長の家だ。ぼくは、そこに灯りがともっていることを切実に願っていた。

 一階の灯りはついていた。
玄関の横に貼り付けてある『どんど人形工房』を眺めて心を落ち着けた。座長のクセのある文字が踊っている。あたりは何時ものように、静まりかえっていた。
「こんばんは」声を掛けて引き戸を開いた。
 誰もいなかった。
 鍵がかかっていなかったので、灯りの消えている二階にいるのかもしれないと思って中に入った。階段の下まで這っていき、もう一度「こんばんは」と声を響かせた。人の居る気配は無かった。
拍子抜けしたぼくは、上がりがまちに座りこんだ。
しばらく待っていると、座長と貴衣さんが洗面器を抱えて帰って来た。
 ぼくが勝手に上がり込んでいることなど、全く気にしていなかった。誰が来てもいいように、いつでも鍵は掛けないということだった。
風呂が壊れたので、ふたりで銭湯に行ってきたと笑った。
 座長が自分で剃髪をしたけど、貴衣さんが剃り残しを見つけた。石油ストーブを点けると、すぐに貴衣さんが座長の首の後ろ側にカミソリを当てた。いきなり座長がクシャミをしたので、首筋が切れて血が流れた。
 貴衣さんが動かないで、と座長に言ってから、舌を出してその血をゆっくりと舐めた。ストーブのそばで見ていたぼくは、足元より数倍も顔を火照らしていたに違いない。日活ロマンポルノ映画を初めて観たときよりも、どきっとするようなエロスを感じた。
あの日から、ぼくも部屋の鍵を掛けないことにした。
灯りがついていることを期待しながらやって来る友達のために。




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