第16話 

文字数 1,222文字


「お前は悩むわけだ。選択するということは、もう一方を失うことだからな」
 そうだったのか。
 ぼくは三奈を失うことを怖がっていたんだ。
 座長が急に巡業に出たから、ただそれで動揺したんだと思っていた。
「あなたの思う通りにしていいのよって言うんだよ。女ってのはな。それから、座長と私のどっちが大切なのよと迫るんだ」
 さらに伊田さんは続けた。
「で、座長を選んでお前が一緒に行くと、帰って来た時には彼女の姿が消えているってわけだ」
「じゃあ、ぼくに巡業行けと言うのは、三奈と別れろと言っているのと同じじゃないですか」
 ぼくが噛み付くと、まあ、待てと伊田さんは大きな手を広げた。
「彼女と一緒にいることを選択した場合、お前は行かなかったことを悔やむんだ。これから先ずうっとな。そして、そんなお前に嫌気がさして彼女が出て行く」
「どっちを選んでも、別れることになるんですか」
「当たり前だ。あんないい女が、いつまでもお前を養ってくれるわけが無い」
「違いますよ。生活費はきっちり出し合っていますよ」
「世間から見れば、会社勤めの女に寄生している漫画も描かない無職男なんだよ」
 伊田さんに言い捨てられても反論出来なかった。
「だから、お前は巡業に行けばいいんだ」
 もうこの話は決まりだという態度で、コーヒーを飲み干した。

 伊田さんに断ってトイレに逃げ込んだ。
 蛇口に頭を押し付けて、勢いよく水を出した。
 しばらくそのままにした。顔を上げると、目の前に情けないぼくがいた。
 アシスタントをしてお金は稼いでいる。しかし、プロ志望の仲間と「お互い一ヵ月後に作品を完成させて編集部に持ち込もうぜ」と固く約束をしても頑張りは三日と保たない。
 頭の中ではものすごい作品だけど、下書きの段階で面白くないことが判ってしまう。
 約束した相手も描いていないことで安心する、そんな毎日を送っている。
 当然、作品はいつも中途半端で、いつまで経っても完成しない。
 身勝手なジレンマの中に、スッポリとはまり込んでいる。

 席に戻ると伊田さんは消えていた。
 一人分のコーヒー代の硬貨がレシートの上に積み重なっていた。
 よれよれの状態で部屋にたどり着いた。
 ギターケースを背負ったままで座り込む。
「はあっ」と大きなため息が出た。
 扇風機のスイッチを足の親指で押すと、モーター音の唸り声を追いかけるように生温かい風が届いた。
 抱き寄せてスイッチを「強」にする。胸から跳ね上がった風が顎を突き上げる。
 ぼくの迷いの針は、揺れに揺れている。

「ばかやろおぉぉぉぉ」
 声に出した。しばらく風を抱き締めていると、気持ちが少し落ち着いた。
  続けさまにあくびが出る。
  すごく疲れている。
  何も考えたくない。
  寝転んで眼を閉じて扇風機の回る音だけを聴いていた。
  リズミカルな音が遠ざかっていく。
  なんだか、いい考えが浮かんだような気がした。
  覚えておかないと……。
 だんだんと薄れていく意識の片隅で、そう思った。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み