第40話

文字数 1,031文字


 カラオケマイクを握っていたサラリーマン風の男が、次の歌い手にユーコを指名した。
 速攻で断ると思ったが、ユーコは気軽に引き受けると軽やかに奥のスペースまで行った。
 そして、今年の四月にデビューした松田聖子の「裸足の季節」を歌い始めた。
 透き通るようないい声で、音程がしっかりしてうまかった。
 座長も知らなかったようだ。ぼくと目を合わせて驚いていた。
 加山が興奮して立ち上がって手拍子をすると、店内にいた客がみんなバラバラにリズムを取り出した。
 ユーコは左手で耳を押さえて、雑音が入らないようにしていたけど、途中からキーを外したが最後まで歌い切った。

「伴奏、頼むよ」
 マスターはそう言うと、ぼくにわざとらしくウインクした。お手並み拝見ってか。
「フォークグループ赤い鳥の『お父帰れや』なら弾きますよ」
 ぼくは場違いな曲を言った。

 ユーコの声で、この歌を聴きたいと思った。
 もっとも、ユーコがこの歌を知っていたらの話だ。
 マスターがユーコに訊いてから、指でOKサインを出した。
 ユーコって一体何者なんだ。
 ぼくはギターを持って奥に行った。
 ユーコとキーを合わせてから弦を弾いた。

 静かに歌い始めたユーコの声が心にまで届く。
 ユーコって一体何者なんだと、もう一度思った。
『お父帰れや』はスナックで歌う曲ではないことは判っていたけども、こんなに客が引くとは思わなかった。
 さっきまでの騒ぎが嘘のように、みんな静かに酒を飲んでいる。
 誰もマイクを握ろうとしない。
 それだけユーコの歌声に、説得力があるってことだな。とひとりで納得した。

 座長は上機嫌で、水割りを口に運んでいる。
 ユーコにそろそろ帰ろうかと、目で伝えると大きく肯いた。
「じゃあトイレに行ってから帰ろう」
 ぼくが席を立った時、トイレの近くで飲んでいた中年の男が先に入ってしまった。
 仕方がないので座り直す。
 一番奥の席で静かに飲んでいたくたびれた感じの男が、ぼくの後ろを通って、加山とユーコの間に割り込んだ。
「私は知りたいんだ。あなたはどうして、どうしてこんなことをしてるのか」
 かなり酔っている。
「あなたがどんな人で、どんなことを考えているのか知りたいんだ」
 ユーコは座長の腕にしがみついたけど、座長は素知らぬ顔で水割りを飲み干した。
「ぼくが説明しますよ」
 と口を挟んだ。
「わたしは、この娘に訊いているんだ」
「よしなよ、山さん」
 マスターが止めたけど、からかうような口調だった。
 むしろ面白がっているようだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み